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街風 episode.5 〜消しゴム半分こ〜

 今日は最高だったなあ。

 自転車を漕ぎながら、今日までの数日間を思い出してニヤけが止まらない。明日からは、”彼氏”と一緒にもっともっと楽しい毎日が待っているのかと思うと、ワクワクが止まらない。

 今さっき私の彼氏となったワタルくんは、今年から同じクラスになったバスケ部の男の子だ。ワタルくんはとても優しくて、いつもクラスの中心にいる。いつも遅刻ギリギリに登校してくる彼は、チャイムが鳴る寸前で教室に入ってくるのが定番だ。”みんなおはよー”というワタルくんの挨拶にみんなが挨拶を返したタイミングでチャイムが鳴る、ここまでがお決まりのパターンになっている。

 ワタルくんはバスケ部のレギュラーで試合でも活躍しているらしく、頭も良くて定期テストではどんな教科も上位にランクインしている。そして、とても優しい。困っている誰かがいると、さり気なくフォローをしてあげている彼の姿を私は何度も見かけたことがある。文武両道で優しいワタルくんが、私の彼氏になった事が未だに信じられない。

 「カオリさんももう帰る?」

 彼は放課後に教室に残っていた私に話しかけてくれた。普段は苗字で呼ばれているのに、いきなり下の名前で呼ばれたので私はドキッとしてしまった。でも、ワタルくんは私の事を下の名前で呼んだことに対して特に意識をしているわけでもないらしく、私は少しだけ寂しい気持ちになった。もう少しだけ残りたかった私は、ワタルくんに別れの挨拶を告げてカバンから本を取り出した。しかし、突然”カオリさん”って呼ばれたシーンを何回も反芻しては身体が熱くなってくるのが分かってきて、読書をしようとしても内容が全く頭の中に入ってこない。

 「よし、今日は少し絵を描いてから帰ろう!」

 そう思い立つと、私は荷物をまとめて戸締りと消灯をすませてから教室を後にした。

 「失礼しまーす。」

 職員室のドアを開けて、美術室のカギを取ろうと顧問の先生の机に向かった。しかし、今は会議に出席しておりしばらく席には戻らないことを別の先生から告げられた。今日はもう大人しく帰ろうかな、そう思って私は学校を後にした。

 久しぶりにおじいちゃんに会いに行こうかな。私は、通学路の途中にあるお寺へ立ち寄ることにした。看板猫のタマは、夕陽が沈む最後の残り僅かな時間を、オレンジ色に反射された石畳の日向でとぐろを巻いて眠って過ごしていた。私は、タマを起こさないようにその横をそっと歩いた。

 「おじいちゃん、最近来ることができなくてごめんなさい。いつもおじいちゃんの書斎から本をお借りしています。全部とても面白くて読むのが楽しいです。これからも会いに来ます。」

 おじいちゃんのお墓の前で手を合わせた。今日もおばあちゃんが持ってきたお花はとても綺麗だ。毎日会いにきてもらえるなんて、おじいちゃんは幸せ者だなあ。

 おじいちゃんのお墓に挨拶を済ませると来た道を戻って行った。タマは目が覚めてしまったのか寝ぼけ眼でお座りしていた。眠たそうな目でかろうじて私がいることが分かると、ゆっくりとこちらに歩いてきて"にゃあ"と鳴いた。私がタマのあごを撫でてあげると、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。しばらくすると、ぷいっと私の手の届かないところまで歩いて前後に伸びをした。そして、そのままタマはお寺を出て行った。

 私もタマの後を追うようにお寺を出て、家までの帰り道を自転車で走っていった。この下り坂から見える街並みは夕陽に染まると一層綺麗に見える。

 家に着くと、お母さんが夕飯の支度をしていた。玄関で靴を脱いでコートを掛けると、キッチンにいるお母さんの声が聞こえた。

 「おかえりなさい。今日はおばあちゃんの家に行かなかったのね。お父さんもそろそろ帰ってくるみたいだから、一緒にご飯食べましょう。着替えていらっしゃい。」

 「今日はお姉ちゃんは?」

 「マイはゼミが遅くなりそうだから、そのままどこかで夕飯済ませてから帰ってくるって言ってたわよ。」

 今日のことを話したかったのに、お姉ちゃんは帰宅が遅いことを知り、私は少しがっかりした。お姉ちゃんとは小さい頃から仲が良くて、いつも私は楽しかった事や悲しかった事も全部をお姉ちゃんに共有している。お姉ちゃんは、恋愛の相談も色々と聞いてくれて、ワタルくんについてお姉ちゃんに何百回も話した気がするけれど、いつもニコニコと聞いてくれる。友達やクラスメイトから私は大人びていると言われる事が多いけれど、お姉ちゃんの前になるとクラスの誰よりも甘えん坊になっている自信がある。ワタルくんに見られたら、幻滅するのではないかと不安になるくらい。

 お父さんがクタクタになって帰ってきたので、家族3人で夕食を囲んだ。お母さんの料理は何でも美味しくて、休日は私も手伝う事があるけれど未だにお母さんの足元には及ばない。おじいちゃんに会いに行った話や学校の話をしながら、私は大好きなハンバーグを完食した。

 食後は、リビングでお父さんが付けたTVから流れるバラエティ番組をBGMに、おじいちゃんの書斎から借りた本を読んでいた。

 「ただいまー。」

 お姉ちゃんの声がした。私は、読んでいた本の開いていたページに栞を挟み、お姉ちゃんとの会話を楽しむために本を閉じた。きっと私がお姉ちゃんの飼い犬だったら、しっぽを思いっきり振ってお座りして待っていると思う。リビングのドアが開いたと同時に駆け寄る事はしなかったけれど、私はお姉ちゃんに笑顔でおかえりなさいと挨拶をした。

 お姉ちゃんがお風呂に入っている間に、お父さんとお母さんは私におやすみと言って寝室へ行ってしまった。私は、リビングで栞を挟んだページから再び本を読み始めている。

 「カオリはまだ起きていたのね。」

 お風呂上がりのお姉ちゃんは、寝巻きに頭にタオルを巻いた格好でリビングへ戻ってきた。

 「お姉ちゃん何か飲む?」

 私は読んでいた本に栞を挟み、本を閉じながらお姉ちゃんに聞いてみた。

 「コーヒーお願い!」

 ドライヤーを手に取りながら、お姉ちゃんは私にそう言ってきた。私の分と合わせて2人分のコーヒーを淹れて、私はリビングのテーブルへ持っていった。髪を乾かし終えたお姉ちゃんは、頭に巻いていたタオルを洗濯カゴへ入れて戻ってくると、私の向かいの席に座った。両親が寝静まったリビングで、お姉ちゃんと2人でコーヒーを片手に話す時間が私の夜の楽しみだ。

 「お姉ちゃん今日は遅かったね。」

 「そうね。でも、今日は先輩のケンジさんが色々と手伝ってくれたから予想よりも早く終わったんだよね。」

 ケンジさんという先輩は、お姉ちゃんの話にちょくちょく出てくる大学の先輩で面倒見のいい人らしい。最寄駅も一個違いで一緒に帰る時もあるそうだ。

 「で、カオリは何かあったの?話したいことがあってウズウズしている顔ね。」

 そこで、お姉ちゃんに今日のワタルくんとの出来事を全部話した。話していくうちに私の気持ちが高ぶっているのが自分でも分かる。お姉ちゃんは適度に相槌を打ちながら、私の話に耳を傾けてくれている。

 「たしかそのワタルくんってあなたの恩人の子?」

 さすがお姉ちゃん。私の話をきちんと覚えてくれている。そう、ワタルくんは私の好きな人であり恩人だ。

 今から1年半前。私は今の高校の入学試験に挑んだ。家から近いし、おばあちゃんの家が途中にあって、大学進学率も良いのが志望校を選んだ決め手だった。中学3年生の夏に志望校を決めた時には、私の成績でも十分に合格圏内だと思われていたが、その年は例年以上に人気が出てしまい、倍率は2.5倍にも膨らんでいた。あくまでも予想だったけれど、その当時の私はとても不安になって受験勉強を頑張った。

 試験日当日。私はコートとマフラーに身を包んで、坂の上にある今の高校へ向かった。受験票を片手に私が試験を受ける教室を探して歩いた。迷うことなく無事に教室に着き、私は上着をイスにかけて筆記用具の準備をした。その時に私の重大な過ちに気づいた。

 「(...消しゴムを忘れた!)」

 昨日の夜も私は不安でずっと勉強していた。睡魔に襲われはじめてやっと私は明日の準備をした。何かあった時のために、私は常にシャーペンを2本筆箱に入れている。その時もシャーペン2本を入れたことを確認して、カバンに必要な荷物を詰め込んでいった。受験票、筆箱、この2つさえあれば試験を受けることはできる、そう思って真っ先にカバンに入れた。...消しゴムを入れ忘れた筆箱を。

 私は1人で内心とても慌てながら、どうすることもなく途方に暮れていた。試験開始時間はもうすぐで、今から取りに帰ることなんて絶対にできない。かといって、消しゴム無しで解答用紙を完璧に埋めることなんて多分無理だろう。私は、前日の自分を恨んだ。

 「どうしました?」

 男の子の声が聞こえてきた。私は声がする隣を向くと、1人の男の子がこちらを不思議そうに見ていた。

 「すごい不安そうな顔をしているけれど、大丈夫ですか?」

 男の子は続けて私に声を掛けてくれた。

 「実は、消しゴムを忘れてしまって...。」

 「それは大変だ!僕の消しゴムを半分あげる!ちょっと待ってて。」

 そう言うと、その男の子はカバンにしまってあった筆箱の中からカッターを取り出して、持っていた新品の消しゴムを半分に切った。そして、私に片方を渡してくれた。

 「はい、どうぞ。消しゴム無いと試験に集中できないよね。それは返さなくていいから。」

 「本当にありがとうございます!」

 「いえいえ。一緒に合格できるといいね。頑張ろう!」

 そして、試験が始まった。私は、最初の試験時間にとても緊張していて何度も解答用紙に書いた答えを消していた。消しゴムをもらえて本当に良かった。無かったら私の解答用紙は真っ黒になっていたと思う。

 無事に試験が終わった。手応えはまあまああった。私に消しゴムをくれた男の子は頭を抱えている。手応えが無かったのだろうか。私は、消しゴムのお礼を言おうとしたけれど、あまりにも彼が悲壮な顔をしていて話しかけることができなかった。みんなが自分の荷物をカバンに詰めてぞろぞろと教室を出て行く中で、1人の男の子が私たちの教室に入ってきた。そして、私の隣まで歩み寄ってきた。

 「ワタルー。帰ろうぜー。」

 彼は、私に消しゴムをくれた男の子に話しかけた。

 「トモヤか。お疲れー。」

 「どうしたんだ?そんな深刻そうな顔をして。まるでこの世の終わりみたいな顔をしているじゃないか。」

 「受かっている自信が無い...」

 「そんなの結果発表で分かるんだから、もうどうしようもないし、気持ちを切り替えていこうぜ。ユミも校門で待ってるらしいから俺らも早く行こう。帰りはどこかで受験勉強お疲れ様ってことで何か食べに行こ!」

 「それもそうだな!もう終わったし!気にしても無駄だな!」

 男の子はさっきまでの絶望したような顔から一気に明るくなって、荷物をまとめて上着を着ると友達と一緒に教室を出て行った。私は、お礼を言うこともできずに、荷物をまとめてから教室を出て行った。ワタルくんというあの子と一緒に合格できているといいな。そう思いながら、私は帰り道の下り坂を歩いて帰った。

 数週間後、結果発表当日。

 私は自分の受験票を握りしめて再び高校へやってきた。貼り出された合格発表者一覧の中に自分の番号を見つけると、私は大喜びした。真っ先に家に電話して合格した報告をした。私は今日の一つ目のやるべき事を終えて、二つ目のやるべき事を実行した。それは、私に消しゴムをくれたワタルくんを探すことだった。しかし、ワタルくんがいるか見渡したけれど、結局見つけることはできなかった。私は、合格した嬉しさとワタルくんにお礼を言えなかった残念さを抱えて帰ることにした。途中にあるおじいちゃんのお墓とおばあちゃんの家にも寄って、無事に第一志望校に合格したことを報告した。おばあちゃんはとても喜んでくれて、入学祝いの準備をしてくれることを約束してくれた。

 入学式当日。私は緊張しながらお父さんとお母さんと一緒に来た。今日から毎日ここに通うことになると思うと、とてもワクワクしてくる。入学式が終わると、新入生は自分の教室でオリエンテーションを受けるため、ぞろぞろと教室へ向かった。一通りの説明を受け終わって、渡された配布物をカバンへしまってから、終了のチャイムが鳴った。緊張で疲れ切っていた私は家へ帰ると自分の部屋のベッドにダイブした。少しうたた寝をした私は起きてから今日渡された配布物に目を通した。新入生名簿一覧もあり、そこには”ワタル”という名前の人が1人だけ別のクラスにいた。私は、この”ワタルくん”が私の恩人の”ワタルくん”かどうか気になって、居ても立っても居られなくなってしまった。

 翌日。私はピカピカの制服に袖を通して、鏡で変なところが無いかチェックした。そして、ワタルくんに会ったらどうやって声を掛けようか悩んだ。いきなり別のクラスの女子が現れてお礼を言われても迷惑じゃないかな、私も変な人と思われないか、色々なネガティブな考えが何回も私の頭を過ってしまった。早めに学校に行けば、人も少ないし怪しまれないかもしれない。そう思って私は早めに家を出た。しかし、ワタルくんは私が学校に着いた時間にはまだいなかった。私は、昼休みに”ワタルくん”がいるクラスを覗こうと思い、昨日できた高校初めての友達とのお昼ご飯を食べ終えると、お弁当を片付けて席を立った。

 廊下を歩いて”ワタルくん”のいるクラスへ向かっていると、向かいから男女3人組が歩いてきた。男の子2人と女の子1人、そして男の子の1人はあの”ワタルくん”に間違いなかった。

 「ワタルたちは部活は何に入るの?」

 「僕たちはバスケ部一択。ユミは何部に入るの?」

 「私は勿論ソフトボール部!」

 3人はとても楽しそうに何の部活に入るのか話をしていた。私は、声を掛ける勇気が出ずにそのまま3人とすれ違うことしかできなかった。しかし、”ワタルくん”が私の恩人の”ワタルくん”で安心した。隣の男の子も何となく見たことがある気がするから、きっとあれがトモヤくんだったのだろう。そして、隣の女の子は誰なんだろう。もしかして、”ワタルくん”の彼女なのかな。そう考えた瞬間に私は悲しい気持ちになった。自分でも分からないこの悲しい気持ちを抱えて、私はその夜にお姉ちゃんに恩人の”ワタルくん”も同じ高校に入っていたことを報告した。お姉ちゃんはその話を嬉しそうに聞いてくれて、最後にこう言ってきた。

 「カオリは、”ワタルくん”に恋をしたんだね。まずは、お礼をきちんと言えるといいね。」

 そうか、私は”ワタルくん”に恋をしてしまったんだ。お姉ちゃんのその一言を境に、私は学校で”ワタルくん”を見かけると変に緊張してしまった。そして、ますますお礼を言いづらくなってしまった。私は、絵を描くことが好きだったので美術部に入ることを決めて、放課後は美術室で作品作りに没頭するようになった。ワタルくんもバスケ部に入ってバスケに打ち込んでいることを知ったのは、この教室からグランドでランニングをしていたバスケ部の集団の中にワタルくんを見つけたからだ。

 高校生活始めての文化祭や修学旅行も友達と一緒に楽しく終わって、あっという間に1年生が終わってしまった。1年ごとにクラス替えがあり、私は友達と次も一緒のクラスになれるといいね、と言って最後の日を終えた。

 高校2年生になって、始めての登校日。昇降口に貼り出されたクラス割を見ると、去年クラスで仲が良かった友達とは離れ離れになってしまった。私は寂しい気持ちになったけれど、新しいクラスで新しい友達ができますようにと思いながら、教室へ向かった。私は教室に入ると、黒板に書かれた自分の座席を確認してから、教室内を恐る恐る歩いた。仲が良かった友達と離れてしまって教室で1人ポツンと座っていた私に、前に座っていた女の子が振り返って声を掛けてくれた。

 「はじめまして。私は”ユミ”。これから1年間よろしくね。”カオリちゃん”だよね?部活は何か入っているの?」

 彼女は気さくに私に質問してくれた。彼女みたいにこんなに明るくて気さくに話しかけられるようになりたいなあ、そうすれば私もワタルくんに気軽に話しかけることができるのに。そう思いながら、”ユミさん”の質問に答えた。

 「カオリでいいよ。私、”ちゃん付け”に慣れていなくて。美術部に入っているわ。”ユミさん”は何か部活に入っているの?」

 「じゃあ、カオリって呼ぶね。”さん付け”なんてやめてよー。私も”ちゃん付け”とか”さん付け”に慣れていないから、”ユミ”でいいよ。私はソフトボール部に入っているよ、だからこんなに肌も真っ黒になっちゃってるんだ。」

 そう言いながら、ユミは褐色になった自分の腕を恨めしそうに見ていた。

 「あ、そうそう。私の幼馴染の”ワタル”って子も同じクラスなんだけれど、いつも遅刻ギリギリにやってくるんだよね。寝坊しているとかじゃないんだけれど、なぜかいつも遅刻寸前にやってくるの。」

 ”ワタルくん”と一緒のクラスになれたんだ!私は自分と友達の名前しか確認していなかったから、”ワタルくん”と同じクラスになったことに気づいていなかった。ユミと色々な話をして楽しんでいると、教室の入り口から声がした。

 「みんなおはよー。」

 そう言って、声の主は教室へ入ってきた。”ワタルくん”だった。去年ワタルくんと同じクラスだったと思われるみんなは、お決まりのように”おはよう”と挨拶を返していた。そして、ワタルくんは黒板の座席表を確認すると、席に着いた。それとほぼ同じタイミングで始業のチャイムが鳴った。”ほらね、ギリギリでしょ?”とユミは小声で囁いてきた。私は、ユミの予言通りに”きちんと”チャイムぎりぎりにやってきたワタルくんに対してクスッと笑ってしまった。

 そうして始まった高校2年目の生活だったけれど、ワタルくんと私は接点が全然できなかった。席替えしても席が近くにならないし、修学旅行のグループも別、休み時間になるといつもワタルくんの周りには男友達が集まって話しているし、放課後もワタルくんはバスケ部にすぐに行ってしまう。部活のオフ日は教室に残って勉強や課題をしているけれど、私はユミと違って緊張して気軽に声を掛けることができないままだった。挨拶程度の会話は何度もしたけれど、それ以上の会話は全くできない。しかし、私がどんどんワタルくんに惹かれていることだけは確かだった。

 そして、今日。ワタルくんが初めて私のことを”カオリさん”と呼んでくれた。せっかく話しかけてくれたのに、私はいつも以上に緊張してしまって消しゴムのお礼を言えないまま別れの挨拶をするだけだった。

 ワタルくんと出会ってから今日までの出来事をダイジェストでお姉ちゃんに話し終えると、お姉ちゃんはコーヒーカップを持って一口コーヒーを飲んだ。そして、私に優しく

 「カオルは良い恋をしているね。そこまで好きな人のことを話せるっていうのは幸せなことだよ。いつかその気持ちを言える日が来るといいね。でも、まずは消しゴムのお礼をきちんと言うところからだね。」

 と言ってくれた。きっと良い恋をしているのではなくて、好きになった人が良い人だからなんだろうな、と思いながら、お姉ちゃんとその後もしばらく色々な話をして盛り上がった。私もお姉ちゃんも明日も朝早く起きて出発するので、その日はコーヒーを一杯飲み終えて、就寝することにした。

 翌日。私は朝早く起きて朝食を食べていた。”今日の魚座のあなたは、普段通りの生活をしているといいでしょう。普段とは違った素敵なイベントがあるかもしれません。〜続いては...”いつも通りテレビの内容には特に気にも留めずBGM代わりに聞き流していた。朝食を食べ終えて支度を終えると私は家を出た。みんなよりも早く登校すると道も空いているし、焦らずゆっくりと行くことができる。入学して間もない頃はワタルくんに会えるのではないのかと期待をして早く登校していたけれど、早く登校すると教室も静かなので読書をするのにも勉強をするのにも最適で、美術室で絵を描くのも集中できることが分かって、それからもずっと早めに登校するのが習慣になってしまった。高校まで行く道の一直線の上り坂に差し掛かる手前で、おすわりをしている猫がいた。近づいても逃げる気配がないその猫は”タマ”だった。私は、近くに自転車を停めてタマの傍へ歩み寄った。タマは、お寺の看板猫だということは周知の事実だけれど、もう一つタマの噂があった。それは、”幸運を運ぶ猫”という噂だった。”お願い事をしながらタマを撫でると、願い事が叶う”というあやしいその噂はクラスメイトから教えてもらった。どうせ私の願いは叶わないだろうなあと思いながら、いつものようにタマのアゴを撫でてあげた。タマはゴロゴロと喉を鳴らすと嬉しそうな顔をした。

 「ワタルくんもタマみたいに早起きして学校に来てくれないかなあ。そう思わない?」

 私は、タマに愚痴っぽく話しかけながら頭の後ろから背中を撫でてあげた。”にゃあ”と鳴くと、タマはすっと下半身を起こしてそのまま歩いていってしまった。

 私の恋心なんてお構いなしのタマと別れて、私は再び自転車に乗って学校へ向かった。駐輪場へ着くと、いつも通り私以外の自転車は停まっていない。教室へ入ってカーテンを開けると朝の陽射しが差し込んできた。美術室へ行こうと思ったけれど、今日はなんだかこのまま教室にいたい気分だ。私はカバンから教科書やノートを取り出して机にしまってから、おばあちゃんの家から借りてきた本を読もうと思った。すると、その時いつもの声が教室の入り口から聞こえてきた。

 「みんなおはよー。」

 ワタルくんだった。いつもなら絶対にやってこない時間なのに、そこには間違いなくワタルくんがいた。”タマの噂は本当だった!”と思いながら私は、ワタルくんに挨拶を返すと同時に朝早く来た理由を聞いてみた。ワタルくんから返ってきた言葉は、”たまたま早く起きちゃった”というだけだった。私はワタルくんと朝早くから会えたことだけでも嬉しかったのに、ワタルくんはカバンから荷物を取り出しながら色々と話しかけてくれた。そして、私は勇気を振り絞った。

 「ねえ。ワタルくん。今日はみんなが来るまで私の話し相手になってくれない?何もやることが無くて退屈だし、ワタルくんとこうやって色々と話したことがないからさ、嫌じゃなければこのまま続けていいかな?」

 私はカバンの中にある本をそっと見えないように隠してワタルくんにそう言った。ワタルくんは嫌な顔を一つもせず笑顔でOKしてくれた。それから私とワタルくんは色々な話を沢山した。お兄ちゃんのニヤニヤ話をしているワタルくんはとても楽しそうで、仲が良い兄弟なんだなあと感じた。あっという間に時間は過ぎていき、2人で話をしていると教室へユミが入ってきた。ユミは、私にいつも通り挨拶をすると同時にワタルくんが来ていることに驚いていた。それからクラスのみんながぞろぞろと登校してくると、私もワタルくんも友達と会話をし始めた。もう少しワタルくんと話したかったなーと思いながら、始業のチャイムが鳴ってしまった。今日は担任のケイタ先生が休みだということで、学年主任の先生が朝のHRを始めた。

 私は、ワタルくんと沢山の話ができた今日の朝の余韻に浸っていた。その日はあっという間に時間が過ぎたような気がした。放課後になって、私は教室に残っておばあちゃんの家に行くまでの時間を潰すことにした。ワタルくんも部活がオフになったため、部活に行かずに教室に残っていた。トモヤくんがやってきてワタルくんを誘って帰ろうとしたけれど、ワタルくんは”課題を終わらせたい”と言って、誘いを断っていた。私は、ワタルくんに話しかけたかったけれど邪魔をするのも悪いし、今日の朝に”本を忘れた”とワタルくんに言ってしまったので読書をすることもできず、今日の授業で出た宿題をやることにした。教室にワタルくんと私の2人きりになった時、ワタルくんがこちらを振り返って声を掛けた。

 「カオリさん、良かったら一緒に帰らない?」

 まだおばあちゃんの家に行くには早すぎたけれど、私はワタルくんからの誘いを喜んで受けた。帰り支度を済ませて私たちは教室を後にした。今朝の続きを2人で再開するとワタルくんも私もたくさん話してたくさん笑った。

 おばあちゃんの家に行くには時間が早すぎたし、もっとワタルくんとゆっくりと話したいと思った私は、ワタルくんに自転車に乗らないで歩いて帰ろうと提案した。

 私たちは、自転車を押しながら赤く染まりはじめた帰り道を歩いていた。ワタルくんは会話が途切れないように私に色々と質問をしてくれたし、私も一つ一つ質問に答えた後に、今度はワタルくんへ色々と聞いた。

 「カオリさんは好きな人いるの?」

 ワタルくんは他の質問の時と同じように私に何気なく聞いてきた。私は、あまりにも突然に”好きな人”について聞かれてしまって、ついつい質問に答えずにワタルくんにそのまま聞き返してしまった。ワタルくんもその質問に答えることができずにオロオロとしていると、ワタルくんのポケットの携帯から着信音がなった。ワタルくんが電話に出ようとしている間、私はワタルくんの好きな人について気になってしまった。ワタルくんが好きになる人って誰なんだろう、考えれば考えるほど不安な気持ちでいっぱいになってしまって心が押しつぶされそうになる。そんな私の隣で、ワタルくんは電話越しの相手から何か言われたようでとても困った顔をしていた。

 電話が終わったワタルくんに声を掛けると、ワタルくんは困った顔をしながらお兄さんのバイト先にサンドウィッチを取りに行かなければいけないと言った。私は、もっと少しでも長く一緒にいたかったので、一緒に行きたいとお願いした。ワタルくんは、おばあちゃんの家に行く予定だった私を心配してくれたけれど、私がおばあちゃんの家に行かなくても大丈夫だと伝えると、私も一緒に連れて行ってくれると言ってくれた。今から向かうカフェの店主の”ノリさん”が作るサンドウィッチは絶品らしい。そして、ワタルくんのお兄さんが”土曜日の女神”の話もしてくれた。私もそんな人になれたらワタルくんの好きな人になれるかなあと思いながら、2人で歩いていった。そのカフェは、私とワタルくんの通学ルートの途中にある場所だった。

 ワタルくんは本当に優しい。こんなにも仲良くなれたなら、もっと早く声を掛ければ良かったし、消しゴムのお礼だってちゃんと言えば良かったなあ。ワタルくんと話しているとカフェに到着した。歴史を感じる建物はこじんまりとして落ち着いた雰囲気でとても素敵だ。ワタルくんに倣ってお店の入り口のすぐ脇に自転車を停めて、私たちは”CLOSE”と書かれた扉を開いた。中に入ると、アンティーク調の家具が取り揃えられていて外観通りの静かで落ち着いた雰囲気の漂うとても素敵な店内だった。

 ”ノリさん”は初対面の私にも気さくに話しかけてくれて、どこかユミと雰囲気が似ていると感じた。私がノリさんに挨拶をしようとすると、入ってきた入り口のドアが開いて声が聞こえた。

 「こんばんはー。」

 入ってきたその女性は、同じ女性の私でも見惚れてしまうくらい綺麗な方だった。ノリさんと話している時の笑顔は眩しいくらいに明るくて、彼女の周りだけ空気が華やいでいるように見えた。それでも、嫌な感じは一つもしないし、洗練された大人の女性の模範解答のような方だった。ノリさんが、私とワタルくんをその女性に紹介しようとしたので、ワタルくんの紹介の後に自分から自己紹介をした。ノリさんは、みんなでサンドウィッチを食べようと提案した。すると、マナミさんというその女性は真剣に悩んだ顔をした後に、お店の人に相談すると言って携帯を取り出すとお店の外に出てしまった。ノリさんとワタルくんが小声で話していたので、気になった私は2人に何の話をしていたか聞いてみた。どうやら”土曜日の女神”とはマナミさんのことだったらしい。たしかに、あれだけ綺麗な女性だったらワタルくんのお兄さんが心を奪われても仕方無いわね、と思いながら3人で”土曜日の女神”について話をしていた。

 マナミさんが店主のOKをもらって笑顔でお店に戻ってくると、私たちは4人掛けのテーブルに行き、ノリさんのサンドウィッチとコーヒーを待つことにした。前の席にいるマナミさんがあまりにも綺麗でドキドキするのに、隣にワタルくんが座っていることでさらにドキドキしている。

 「ねえねえ。2人はどんな関係なの?」

 私のドキドキがピークに達しそうな時に、マナミさんはワタルくんに質問をしてきた。

 「まだ付き合っていない、ただのクラスメイトです。最近やっと仲良くなれて...」

 私は”まだ”という言葉にドキッとしつつ、ドキドキでいっぱいいっぱいだった。マナミさんはチラッと私と目が合った後にさらにワタルくんに質問をした。

 「ふーん。"まだ"付き合っていないんだあ。じゃあ、いつになったらその時が来るのか教えてほしいなあ。カオリちゃんもそう思わない?」

 マナミさん、もう私は限界です。そう心の中で思いながら、私はマナミさんに何も言えないまま俯いていた。どんどん顔が火照ってきているのが分かる。

 「カオリさん。僕は、カオリさんが好きでした!もしカオリさんが宜しければ、僕と付き合っていただけないでしょうか。」

 ワタルくんが真剣にこちらを見ながらハッキリとした口調でそう言ってくれた。

 「こんな私で良いのであれば、これからどうぞ宜しくお願いします!」

 私はドキドキがピークに達したけれど、勇気を振り絞って答えた。緊張のあまりちょっと声が大きくなってしまった。少し恥ずかしい。

 「「おめでとうー!」」

 私とワタルくん以上の声の大きさでノリさんとマナミさんが私たちを祝ってくれた。私たちは照れくさくなってしまいお互いを見合うと、また私は頬をさらに赤く染めた。

 ノリさんとマナミさんが気を利かせてくれて、私に一輪のコスモスをプレゼントしてくれた。オレンジ色のコスモスは私が大好きな花だ。マナミさんは私たちを見ながら優しく微笑んでいたけれど、その姿はコスモスもどんな花も霞むくらいに華やいでいた。

 ノリさんが作ってくれたサンドウィッチをみんなで食べながら、私たち4人は色々な話をして盛り上がった。今日もいつも通りの1日の予定のはずが、私は大好きな人に告白されて付き合うことになり、美味しいサンドウィッチと素敵な人たちと巡り逢うことができた。私たちはサンドウィッチを食べ終わってからも、ノリさんの淹れてくれた美味しいコーヒーを飲みながら時間が過ぎるのを忘れて話した。

 マナミさんがお店に戻らないといけない時間になると、私たちは帰ることにした。お店の脇に停めた自転車を押して私たちは歩き始めると、街はすでに夕暮れになっていた。

 また色々な話をして歩いていくと2人の分かれ道に着いた。私は、彼氏のワタルくんに別れの挨拶と”消しゴムを貸してくれてありがとう”とお礼を言った。

 ワタルくんはピンと来ていなかったようだけど、私はそのまま挨拶を済ませると自転車を漕いで走り出した。

 私の亜麻色の髪は、犬のしっぽみたいに風に靡いてゆらゆらと揺れていた。






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