世界は電光掲示板
新幹線に乗っていると、各車両の入り口のドアの上に電光掲示板がついていて、その日のニュースが流れていきます。
ふと思ったのですが、文字が電光掲示板上を流れていくように見えますが、一つ一つの小さなLED電球に着目すると、点いたり消えたりしているだけですよね。
それがちょうど良いタイミングで点いたり消えたりするので、全体として文字に見え、そしてそれが右から左に動いていくように見える。
画面の外へ消えていった文字は、電光掲示板を開けてみても、もうどこにも存在しない。
当たり前ですよね (笑)
でも実は私たちの世界もそのようなものではないかと感じたのです。
僕が歩くとき、僕が歩いているように見えるけれど、実際には何も動いていなくて、絶えず小さ〜な区画の状態が変化し続けているだけなのではないかと。
カメレオンの皮膚や、新鮮なイカの活き造りの表面の色が変わる感じに似ているかもしれません。
私たちの世界はそれの三次元版と捉えることもできるのでは、って感じです。
この文章を書いていると、次の宮沢賢治の一節を思い出しました。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
<<春と修羅 序>>
宮沢賢治の文章って本当に透き通っていて心が洗われるかのようです。
この中の「わたくしといふ現象」という表現が、僕にとってしっくりきたのです。
「わたくし」は「いかにもたしかに」存在しているように思いがちですが、実際はなんでもない、ただの現象、ただの明滅の組み合わせ。
なんとも切ないですが、その切なさに気づくからこそ、「わたくしといふ現象」に立ち会っていることのしあわせ(=仕合わせ)にも気づくことができる、そんな気がするのであります。
今日はこんな感じ。
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