見出し画像

トラウマと私①「生きづらいのは、恥ずかしいこと」

先日、インスタのアンケート機能で、
フォロワーの皆さんがどんな種類の投稿を期待しているか伺ったところ、
「トラウマや生きづらさにについて」が「スピリチュアル」を上回りました。

ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。


多くの人がこのトピックについて知ることを望んでいると知って、
わたしと生きづらさ(トラウマ)との付き合いについて、
4回(+おまけ1回)に分けて書くことに決めました。

明確なトラウマがある方、
自覚しているトラウマはないけれど、生きづらさを抱えている方、
朝起きた瞬間から胸がザワザワしたり、
もう何年もずっと、自己啓発やメンタルヘルスを「頑張って」学んでいる方に、読んでいただければ嬉しいです。


よろしければお付き合いください。
※スピリチュアリティに関する記事も今後追加します!

尚、お読みいただく前にご理解いただきたいこととしては、
わたしは心理の専門家ではないため、ここに記された情報に基づいて、(クリニックなどに通われている方であれば特に)治療方針や心との向き合い方を決めたりせず、
あくまでも個人の意見と捉えていただき、読み物としてお楽しみください。

漠然とした、生きづらさ

物心ついた頃から、漠然とした不安や生きづらさを抱き続けてきました。
自分には何か大きな欠陥があり、それを決して人に悟られてはいけない、という緊張感にも苛まれていました。

いきなり出端を挫くようで申し訳ない気もしますが、
わたしは子どもの頃、やや複雑な家庭環境の中で育ち、おそらくこの生きづらさの要因となったと思われる、家庭内や学校でのトラブルを多く経験しましたが、そのことについて詳細を書くのは避けようと思います。

というのも、
『わたしはそんなのよりもっとつらかった』
または『わたしも結構悲惨だったけど、ドリゼラさんほどじゃないな』というような、
「心のつらさの比較」が生じるのを避けるためです。
(このことについては、このあとの記事で触れます)

生きづらいのは、自分のせい

話を元に戻します。
幼少期も、学生の頃も、社会に出てからも、不安、緊張、恐れ、罪悪感や、自分の存在に対する強烈なシェイムの感覚に苛まれ続けていました。
死にたい、消えたい、もう楽になりたいと思ったことも、何度もあります。

そしてわたしは、それを「普通のこと」だと思っていました。
今の日本で、人が生きづらいと感じるのは普通のこと。
ネットで検索すれば、わたしよりももっと大変な境遇なのに、頑張っている人はたくさんいる。
だから、つらいというのはごく普通のことで、それほど気にすることでもないし、
なんなら、わたしの場合、つらいのは自業自得だろう、とさえ思っていました。

「今わたしが生きづらいのは、わたし自身に大きな欠陥や問題があるから。
生きづらいなら、まずは自分が抱える問題を、自分の努力で全て解消するべきだ」
という思考回路です。

生きづらいと認めるのが、恥ずかしくもありました。
「世の中には、価値の高い人間と、低い人間がいる。そして価値の高い人間ほど、より幸せなれるのだ」という根底から誤った考え方に染まりきっていたわたしにとって、
「幸せじゃない」というのは、「人間としての価値が低いこと」の証でした。

自分には人間的な価値があると信じたいがために、
出会う人全てに、私のことを「幸せな女性」だと思って欲しかったのです。
そのために、「本当は欠陥だらけの粗悪品である自分」を隠すため、
鎧を身につける必要がありました。
良い学校。良い会社。資格や肩書きで武装し、話しやすい雰囲気を心がけ、たまの休みにはきちんと交友関係を維持し、幸せを装うことに一生懸命でした。

今思えば、その鎧の中身は、満身創痍の状態でした。
毎日のように死にたいと思うけれど、
まず、それに対して、「わたし程度が死にたいと思うなんておこがましい」と蓋をします。
同時に、他者からは「幸せな人」だと思われたいから、幾重もの鎧を身につけてにっこり笑い、きちんと会社に行き、同僚と冗談を言い合い、家族と食事をし、また死にたいと思う。
そしてその度、「この程度で死にたいなんて!」の繰り返しです。

明らかに傷つき血が出ているのに、「こんな汚い状態、人に見せたら嫌われる」と必死に傷口を隠し、
痛くて痛くてたまらないのに、「この程度で痛いと思うなんて」と、自分に鞭を打っていました。

自分を「直す」ための自己啓発とメンタルヘルスとスピリチュアル

「この状況を、なんとかしなくちゃ」
そう思ったわたしは、自己啓発やメンタルヘルス関連の書物、スピリチュアルな情報やワークに手を伸ばすことになります。
ただし、それは自分の幸福と癒しを願ってのことではなく、
「わたしには問題があるから、これを解決しなきゃ」という意図からでした。

「本を買って、勉強して、ここに書いてあるワークとかやって、自分の認知の歪みを正して、
誰にも気づかれないうちに、自分の中にある欠陥をすっかり直してしまおう。それができたら、生きづらさも解消されるだろう。そしてしれっと、何事もなかったかのように、人生に戻ろう」

そう考えた私は、一生懸命、学びました。いろんな本を読み、ノートにまとめたり、図を描いて理解しようとしました。

わたしが今、インスタやnoteの投稿に使っているような、
あらゆるスキルや能力——例えば、論理的思考力、言語化するチカラ、絵や図を描く技術——それらをすべて、自分を責めるために、使っていました。

当時の私は、自己分析をしているつもりでした。けれど本当にしていたのは、自己分析というのは名ばかりの、自己批判でした。


何年もの間、私にとって「わたしの生きづらさ」というのは、
”自分自身の欠陥や努力不足ゆえに、人生に失敗したという証”でした。

生きづらいというのは、恥ずかしいことでした。



②につづく

お読みいただき、ありがとうございました。わたしという大地で収穫した「ことばや絵」というヘンテコな農産物🍎🍏をこれからも出荷していきます。サポートという形で貿易をしてくれる方がいれば、とても嬉しいです。