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【無料】戦禍を生き延びたコーラスグループ文化

約6年に渡って世界中の人々を翻弄し、傷つけた第二次世界大戦。
その終結は実質的に、今この瞬間の私たちに繋がる「現代」の全ての始まりでもあった。
そして同時に、アイドルの成り立ちを探求する視点からその航跡を見直すと、特に大戦終結からの25年間には「ジャンルとしてのアイドルが自立していく」ステップが、ぎっしり詰まっていることに気づくのである。

その一つ一つをより深く理解するためにも、ここからの第二章ではまずアイドルによく似た存在、そして誕生時期もほぼ重なっている海外型ガールグループ の「形成過程」を、前提知識として押さえたい。

■第二章 ガールグループの「形成過程」(1945~1964)

戦禍を生き延びたコーラスグループ文化

太平洋戦争前後(1940~1946)のBillboard・Best Selling Retail Records、アメリカ国内のレコード売上チャートを見てみると、当時圧倒的人気を誇っていたスウィングジャズ系ビッグバンドに交じる形でちらほら、コーラスグループも週間1位を獲得している。
中でも繰り返し登場して目立つのは、「ミルス・ブラザーズ」「インク・スポッツ」「アンドリュース・シスターズ」の3組である。

ミルス・ブラザーズとインク・スポッツは第一章でも触れたように、すでに戦前から”発見”されていた男性コーラスグループだった。
両者はその後、アメリカが本格的戦時体制に突入する1941年以降も活動を継続できており、ミルス・ブラザーズは1943~1944年(『Paper Doll』『You Always Hurt The One You Love』)に、インク・スポッツは1944~1946年(『I'm Making Believe』『The Gypsy』『To Each His Own』)に、それぞれレコード売上チャートの週間1位を獲得していた。

一方、ミルス・ブラザーズやインク・スポッツと肩を並べていた戦前アメリカの人気女性コーラスグループ(スリー・エックス・シスターズ、ボズウェル・シスターズ)たちは、1940年代になると揃ってトップチャートから姿を消してしまう。
この理由に関しては一般的な流行り廃りというよりも、「女性グループはこの当時からライフイベントをきっかけに活動が止まりがちだった」という視点で語る方が、より的確だろう。
例えばボズウェル・シスターズの場合、メンバーの結婚と家庭優先の意向を受けて、彼女たちは人気絶頂の1936年時点ですでに解散してしまっていたのだ。

ただし長期的な活動継続こそ困難だったものの、戦前の人気女性コーラスグループは、偉大なレガシーをしっかり後世へ残していた。
その最たる例が、太平洋戦争中のアメリカで国民的人気を博した女性コーラスグループ「アンドリュース・シスターズ」である。

The Andrews Sisters

先の女性グループたちよりも少し年下のアンドリュース・シスターズは、他ならぬボズウェル・シスターズをロールモデルとしており、1937年にはまさにその先人たちと入れ替わるように『Bei Mir Bist Du Schön』のヒットで躍進が始まった。
そして彼女たちは太平洋戦争下の1941~1945年も、レコードリリースに加えて怒濤のラジオや映画出演、さらには世界各地での慰問公演もこなしながら、文字通り全速力で駆け抜ける。
当時の支持の厚さと、それに応える彼女たちの風速がいかに凄まじかったかは、1944年末~1945年初頭のビルボードチャート1位が彼女たちの歌唱作品で数か月間独占状態にあったことからも窺い知れる(『Don't Fence Me In』『Rum and Coca-Cola』)。

――このように、アメリカ国内ではミルス・ブラザーズ、インク・スポッツ、そしてアンドリュース・シスターズの活躍により、コーラスグループ文化は途切れることなく、無事に1945年の夏へと到達していた。
すると戦禍を生き延びたアメリカのコーラスグループ文化は、ここで新たな展開を見せる。
この戦争終結後まもなく、再び活性化し始めた経済と安堵の余白から、新しいコーラススタイル「ドゥーワップ」が登場するのである。

参考文献:

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