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ふるさと納税マルシェ

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「祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり/ 平家物語」


昨日、初めてしっかりひろゆきのユーチューブを見た。「僕が親ならこう育てる」の出版記念のQ & Aの動画だった。子育てについてはその家の特徴から育て方はそれぞれにあると思う。私の親がそうだったように。ユーチューブの制作の事はよくわからないけれど見ている限りでは不快な終わり方をした(ひろゆきにとっては)気がする。

 最近たぶん新刊だと思うけどよくある名画とともに見ていく歴史物がおもしろい。ロシア近代文学ならロマノフ王朝ははずせない。

じつをいうと私が関西から横浜にきたばかりの頃、土地勘をつけるために都内近郊の美術館などに行きまくった。その頃は今にして思うと貴重な展覧会がたくさんあってその中でトレチャコフ美術館展もそのひとつだった。

25th ELEMENT/「黄金の秋」


もう25年以上経つけれど記憶に残っているのはロシアの美術は写実的な印象が強くて写真と遜色ない美しさとそこに詩的な表現もある。何度か雑誌でも女帝エカテリーナやエカテリーナ2世の肖像画をみたけれど細部にいたるまで写実的に描かれていてたぶんそれが女帝の好みで写真がない時代の人物像だとわかる。当時の他の国もほとんどそうだけどロシアのムードはまた特別独特な詩情があった。トレチャコフ美術館展でみた記憶に残っている絵画のほとんどが載っている文庫本が出版されているのをみつけた時、本屋でまるで時間が横浜にきたばかりの25年前に戻った気分になった。

美術館でみた「黄金の秋」という絵画が一番その時気に入ったのを思い出す。絵葉書も買った。黄金色に輝く森の木々の風景画。私はそういう時間はいつもひとりで行動していたからその絵をみたのもそこでたちどまって眺めたのも私だけしかしらない。


悠久の時をいきるもの

去年森でおなじような輝く木々をみた時私たちは悠久の時を生きていることを感じる。

森も空も木も動物も昆虫も人も。

その時々の感情や出来事でおなじ風景が違ってみえる事とおなじように、またその時感じた感動を探してしまう。

絵画のような強烈なインパクトがないのがいや、もっとこう、激しいモノがあって、自然の中だけならやさしい風景もそこに人の情熱や感情が入るとあのような激しさが表現される。画家には創作の熱意とはべつに森の中での低い気温差があったのではないかと思った。

地産野菜を買うために。

コロナ禍に前後して生産者の名前がついた野菜や果物、生産農家が自分でつける値段の野菜を売る農家直売店が近所でもたくさん見かける。スーパーより高い物もあるけどほとんどはとても安くで良いものが買えるので気に入っている。もう25年横浜に住んでいるということは故郷の関西の奈良京都の物を買えばふるさと納税になるのかしら?

ボランティアや慈善活動をしなくても自分で稼いだ少額であってもそのお金で米や野菜や時々は洋服などを買うことで社会貢献はじゅうぶんにできると思っている。それで生産者にも流通にも販売店にも経済がまわる事に参加しているからでようするに過去にはあまり気にされなかった

「自分の足で立っている」

という言葉は最近になってそれはあたりまえなんだけどけっこう大変なことだという感じの世の中になってしまった。

友人と話すとコロナ禍によって落ち込んだ経済はもとにもどるには約25年かかるという。その頃私はもう70過ぎになっているので気の遠くなるような話。

くちびるにひそかに蝶

この日この時この瞬間を味わいつくすことではないかと思う。

風景も日々の料理もまったくおなじモノは撮れない。つぎに来た時もまたおなじ花が咲いているか、おなじ木々の紅葉や落葉が見れるかはぜったいに ない。

ところが、去年とおなじ日の午後おなじように黄色い花に去年は黄色いダリアだったけれど今年は黄色いコスモスにまるで黄色い花の擬態のような蝶が私の目の前でとまった。私はこの黄色い蝶は自分が擬態になれる(その花の色に溶けこめる!)黄色い植物を見分ける事ができるのではないかと去年も思った。

私は去年もこのことについて他のブログにも

「神しかできないようなこと」みたいに書いた。それは今年になっておなじ日付けにおなじ蝶に会った時には神秘を感じた。

「私、あなたを知っているわ」

10月18日の午後にまた会った蝶に。

さんどりあん/Tuesday closetfreak❤️