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225DAY -秋終わりの最高の奥多摩日記-


 充電しに来た。何をかといえば、自然のエネルギーというべきか、先人の遺産というべきか、実際のところ形容し難い物を充電しに来た。

焚き火を囲んで談話。直火のイントネーションを感じる。


 その存在をはっきりさせることは簡単ではない。私たちですら、自分自身の全てを理解できないように、自分にとって真に必要な精神状態や心の拠り所を完全に把握し切ることは難しい。

薪ストーブを囲む。注 決して左の人間は中央の人間を叩こうとしてません

 結局、現在自分にとっての充電手段の最高手は、奥多摩に行くことなのであるが、それすら果たして完全な自身の拠り所であるかは正直分からない。なぜなら、それ以上の存在があるかもしれないが自分はそれを感知していないからだ。

 だが自分は、奥多摩を最上の存在と信じたい。なぜなら、それより上の存在の想像がつかないからだ。ある偉人は、「人間が明確に想像できることは、いつか必ず実現できる。」と言った。もしそうであるなら、自分が想像のつかないことはおそらく存在していないと同義なのである。

奥多摩珊瑚荘の全容。森林に包まれ、谷底の川のせせらぎを聞く。

 明確に想像できず、よくわからない曖昧な何かを無意識に感じる。それは幽霊とか宇宙人とかが代表として挙げられるが、実際人間はそうした意識が根底に存在している。だが全てはアバウトな姿にしか設定されていない。世の中にある幽霊や宇宙人が全て、誰かの明確でない想像で造られた不確定な産物である以上、それらの固定概念が本当に真実なのかはわからない。(自分の目で確かめなければ、存在を真実であると確定させることはできない)

室内の薪ストーブ。都会の暖房なんかより何倍も美しく優しく、暖かい。


 結局のところ、人間は全て誰かの想像とか、自分の中でどう捉えているかという自己暗示によって生きている。人それぞれ何かに対する相性があるように、人それぞれ自分自身のエゴを持っている。それらが相互作用して社会を形作る。

 自分が感じていることも、実際は不確定な想像の延長線上に過ぎないのかもしれない、かつてのプロパガンダで人々が真実を改竄させられていたように、人の精神はいとも容易く掌握できる。

 しかしそうした不確定な自己暗示が、自分にとって万事OKなのなら、それはそれでいいのかもしれない。自分の最高がわからないのなら、現時点における最高を追求すればいいのである。その先を追い求める精神を忘れずに、今ある状態の最高を求める。これが最上の人間の在り方ではないだろうか。

晩餐とはまさにこのことを言うのだろう。真ん中がズレててすみません


 という前置きを、奥多摩で書く。月一度のイベント。もはや欠かすことはできなくなっている。充電されていないスマートフォンは使えるか。それと同じで、自分も充電しないと普段から使えない人間になってしまう。

 奥多摩で火を起こして一夜を明かす。これを経験しない人間はなんと哀れだろう。自分はそう思う。

先人たちも、こうして火を囲んで夜空を眺めたのだろう。(?)



 と、自分の文章など見ずに画像を見てきたあなた方。それは正しい。

 奥多摩は星空が美しい。これに比べたら、人間のエゴや欲など何とちっぽけなのだろう。(小説出したから読んでね。)

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