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家族の耳が悪くなってきた時に

耳が悪くて、冷蔵庫開けっ放しの警告音が聞こえず、冷凍庫の食べ物を何回もダメにした祖母。

何度も母や私が扉を閉めるのだけれど、直らない。

というか、聞こえないわけだから直るわけもない。

もちろん、悪気があってやってるわけではないので、怒るのはお門違い。

かと言って「代わりにやってあげる」のは正解だろうか。

耳が聞こえなくなるのは誰のせいでもなく、ただの事実。

本人にとっては辛い、嫌なことかもしれないけれど、あくまでそれは事実で受け入れるしかない。

耳が聞こえないなりに、行動すれば良い。

というか、そうするしかない。

ならば、冷蔵庫の扉が開きっぱなしなら「冷蔵庫開いてるよ」と伝えればいい。

最近そう伝えることで
「なんだかよく開きっぱなしねぇ〜」
「ちゃんと閉められないのねぇ〜」
「すっかり音が聞こえなくなって」
と本人も言い始めた。

「冷蔵庫開いてるよ」と伝えることで「じゃあ閉めてよ」と言われることも多々ある。

そう言われたら、言われてから閉めれば良い。


そう、警告音が聞こえないなら、私が警告音になればいい。

「冷蔵庫開いてるよ」
『あら〜』(閉める

「冷蔵庫開いてるよ」
『あら〜』(閉める

それを繰り返すうちに、
「警告音は聞こえないのだから閉める時に気をつけよう」
と思うかもしれない。

それか、
「開けっぱなしにしてしまうから、使うのをやめよう」
と思うかもしれない。

それとも、
「開けっぱなしにしてしまうから、代わりにあなたが冷蔵庫に入れて」
となるかもしれない。

別にどれが正解でもないし、どれでも解決すれば揉め事は起こらない。

そしてもし、これで最後の選択肢となった場合、あなたが面倒だなぁと思うことがあるかもしれない。

でも、もしその思いが八切れたなら、伝えればいい。

だって、同じ人間なんだから人から頼まれて毎回冷蔵庫に入れることが面倒なことくらい想像つくだろう。


事実を可哀想と思うより
事実は事実と自分も相手も理解して
そんなネガティブな事実をどう一緒に乗り越えるか
それが共に歩むことなのかも。

お互いが事実を違う理解をするとおかしくなるのかも。


『冷蔵庫が開けっぱなしだから、閉めてあげる』

それは小さな優しさであり、ステキなことかもしれないけど、その「してあげる」精神が積み重なっていることは間違いない。

そして、ある時に他の要因であれなんらかの「怒り」が起こった時に、そーいった「してあげたコト」で恩を着せようとしないだろうか。

それなら最初からそんな優しさを使うのではなくて、開いてる事実を共有して共に歩んだほうが平和ではないだろうか。

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