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吉村萬壱「哲学の蝿」

2001年、私は図書館で一冊の文芸誌を手に取り、その号で発表された新人賞受賞作を読み通した。当時私は文芸誌を拾い読みしていたが、それは書評やコラムといった軽いところだけで、予備知識なしに新人の作品を読むなんてことはしていなかった。同時受賞の新人二人のうちの一人だった。もう一人の作品もその後時を置いて読み、二人とも好きになる。好きになるだけではなく、自分にとって大切な作家となる。

それが第92回文學界新人賞受賞作、吉村萬壱「クチュクチュバーン」であった。もう一人は長嶋有「サイドカーに犬」である。

https://books.bunshun.jp/articles/-/6618

二人の対談が少し読めます。


21年の年を経て私は日々吉村萬壱氏の名前を日々Twitterで眺めている。
きっかけは自分で書いたnoteの記事だ。

この記事を書いた直後に、作者本人からリツイートされた。私はあまり積極的に作家をフォローするタイプではなかったが、吉村萬壱氏という、稀有な作家性の持ち主と触れ合えたのをきっかけに、氏のTweetを眺めるようになった。

氏が選考委員を務める「阿波しらさぎ文学賞」の情報Tweetや、様々な作家の情報などがタイムライン上に流れてくるようになった。それらの影響を羅列してみる。

・佐川恭一氏の小説を一日三冊読んだ
・「哲学の蝿」の電子版を購入した
・大昔に書いた自分のブログにて「人間離れ」の酷い感想を見つけた
・「阿波しらさぎ文学賞」へ短編小説を投稿した

人と関わればその人が関わっている事柄とも関わることになる。
好きな作家が好きなことからの影響を受けることになる。
積極的に行動に移すことをためらう理由がなくなる。

世界に十億人はいるであろう、作家/作家志望者の方へ。
自作への感想への反応はよいリアクションを生むことが多いので、積極的に行った方が吉です。
読書家というのは常に次に読む本に悩み続けています。好きな作家の未読本、過去の名作、この間読んでそこそこ面白かった人の違う本。選択肢は無限に近い数あります。
「ああそういえばあの作家さんの本の感想書いたら、本人が直接リツイートしてくれたっけ」というのは、その作家さんの別の本に手を伸ばす理由に十分なります。

これまで吉村萬壱氏の本は小説しか読んだことがなかったので、エッセイは初。
この本を読むまで私は、吉村萬壱氏のことを「想像力が爆発的に豊かな人だ」と思い違いをしていた。氏の作品の中の奇想や凶悪な感情は、現実に基づいて書かれていたのだ。
以下の文章を読んだ瞬間、私は自分がいかに平凡な環境で育った凡庸なる人間かということを思い知らされた。

 なぜ自分がそういう方向へ向かったのかはよく分からないが、思うに我々家族は元々どこかおかしかったのだ。父と母はよく子供の前で赤ちゃん言葉で喋り、そのままのノリで子供にも接してきた。父は度々自分の足で私の脚を撫で回し、それは性的愛撫のようにしつこかった。母は目覚まし代わりに私の鼻の穴に舌を入れてきたし、大股を開いてパンティー越しに自分の局部の匂いを息子に嗅がせたりもした。普通の母親がそんなことをするだろうか。また、潔癖症の母は床に落ちている埃や髪の毛が許せない性格で、綿埃や糸屑を見付けるとその場で口に入れてよく食べていた。

私にはこのような経験はない。親から暴力を振るわれたわけでもない。
作者のように哲学に立ち向かった経験もないし、教員免許を取れるような学校に通ったわけでもない。
「クチュクチュバーン」を読んだ時に受けた「このようなものを書いてもいいんだ!」という衝撃と共感は、自分と似た境遇から生み出されたというわけではなかった。想像を絶するような幼年時代や、男娼時代を赤裸々に書くことは、私には出来ない。前者は書くほどのものではなく、後者はそのような経験はないからだ。打ちのめされるように読み続けながら、同時に安堵もしていた。「このような経験もこのような覚悟も自分にはないから、氏のような作品は書けなくて当然だったのだ」という情けない理由で。

タルコフスキー監督の映画「ストーカー」を繰り返し見る作者はこう書いている。

 退屈でよく分からない作品というのは、頭の中の能動性を駆動させるので、見終わってしまえば何も頭に残らないような娯楽作品に比べてその効果が長く続く上に、日常の何でもない光景の中にも詩的なものを見出そうとする感性を育むような気がする。それは即ち、沈黙の中に音を聞こうとし、見えない物の姿を見ようとする飽くことのない鋭敏な感覚と精神を得るということではないかと思う。

吉村萬壱氏のTwitterでは上記の言葉を体現されているように、日常からほの見える詩的な風景の画像があげられている。

日記を書くエピソードがある。書く事柄がなくなると、目に見える周囲の文字、看板やメニューや客の様子を文章でデッサンした、という。私は具体的に日記を書いているわけではないが、直近の創作でこのやり方を真似してみた。無機質なものも文章で切り取れば生命を得たように思えた。

意図的に一人の作家とその周辺の情報に限定して、書籍の情報に触れている。無限の荒野に投げ出された眼に、一本の道筋が照らされる。しばらくはそうして道を進んでいくのもいいんじゃないか、と思いながら、「哲学の蝿」に書いてあったことを真似て、久しぶりに肉筆で文字を書いてみる。文章にしてみる。汚い文字だ。視界の隅に蝿のようなものも踊っている。


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