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創作=プレゼント理論

何らかの創作に関わる皆さんに、こんな経験はないだろうか。

構想をしっかり練って、下調べに時間をかけて、無数の推敲を重ね、傑作間違いなし、公募なら間違いなく受賞、ネットで公開なら大きくバズって一躍時の人。

しかし結果は落選、黙殺。仮に僅かな評価を貰えても、自分の予想の数千分の一、といったところ。

また、人にプレゼントをした際に、こんな苦い経験はないだろうか。

愛情やお金や時間をかけて用意したものの、相手に喜ばれなかった、むしろ嫌がられた。

「付き合って一日目の記念にマフラーを編んできたの」
「二日目の記念にマフラーを編んだの」
「三日目だから色違いのマフラーを編んできたの」
「四日目だからデザインを変えてマフラーを編んできたわ」
「五日目だもの、当然マフラーを編んだわ」
「六日目だから、初心に戻って初日と同じマフラーを編んだの」
「付き合って一週間の記念に、七色のマフラーを編んだわ」

「ごめん、重い……首周りが物理的に」
「分かったわ。明日からは手袋を編んでくる!」


また、逆にこういう経験はないだろうか。

肩ひじ張らず、短時間でささっと書いた記事が好まれたとか。
特にプレゼントを用意出来なかったけど、一緒に公園を散歩しただけで喜ばれたとか。

相手=読者が望むもの
と、
作者が書きたいもの、自分が与えたいもの
とが、イコールでない場合、不幸が訪れるわけである。

読む相手のことを考えず、独りよがりの、自分だけが読みたい作品を書いてはいないだろうか。

貰う相手のことを考えず、独りよがりの、自分が与えたいだけのプレゼントをあげてはいないだろうか。

一例をあげてみよう。

「パパ、クリスマスプレゼントはダイヤモンドがいい」
「ダイヤは残念ながら絶滅した」
「去年は『コロナで宝石店は全て閉店した』って言ってたけど、ママがそんなことないって言ってたよ」
「昨日、絶滅したんだよ」

関係なかった。これは小学四年生の私の娘との会話である。

甘いラブソングが好きだという彼女に「スラッシュ・メタル名曲百選」だとか、ダンスが好きな少年に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のDVDをプレゼントしたり、していないだろうか。

または、喜ばれたからといって、延々と同じものをあげたりしていないだろうか、書いたりしていないだろうか。

何が嬉しいか、何を良いと思うかなんて、常に一定であるはずもない。

気合を入れて時間をかけて、自分の全てを注ぎ込んだ作品が、必ずしも傑作になるとも限らない。ガチガチに力んだアスリートより、リラックスして要所要所で力を入れるアスリートの方が、良い結果を残せるように。

創作はプレゼントに似ている、という結論に皆さん納得していただけただろうか。そのまま受け取る必要はない。そういった理論もある、ということを頭の片隅において、次の創作にかかってほしい。独りよがりで相手にむしろ迷惑なプレゼントになってはいないか。

別ルートで、こんな解決法もある。

「どう、私が毎日編んでる手袋、嬉しい?」
「嬉しいよ、君の手袋を全て身につけるために、毎日新しく手を生やしているんだ。もう二十四本になったよ!」
「私はあなたの体、不気味だから、はっきり言ってもう無理」

解決してなかった。

では、サンタのコスプレをして「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を流しながら、ダイヤ絶滅の真相に迫る話を書くので、ここまで。

(了)


入院費用にあてさせていただきます。