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退院後記録/音楽随筆集「唾の味」狐火

 子どもたちの見る動画から流れてくる曲の一つに「クリーピーナッツじゃね?」と気が付いて調べてみると、アニメ「マッシュル」第二期のOP曲「Bling-Bang-Bang-Born」がバズりまくっていた。寝る前の片付けの際にリピート再生していると、ぶりんばんばんダンスを息子は踊りまくって、よく歌うようになっていた。アニメ「マッシュル」も少し見始めて、主人公のマッシュがドラゴンボールごっこに介入してくるようになった。

 あまりにクリーピーナッツを聴きすぎた反動でTHE BLUE HERBを聴きたくなって検索してみると、月間リスナー数1万3000人(Spotify)とかで、クリーピーナッツ900万人との落差に驚く。もちろんリスナー数の多い方が偉いとか価値があるとかそんなことは思っていない。なんなら私一人しか聴いてなさそうな「ニッポンお風呂バンド」の月間リスナー数を見てみるとやっぱり1人となっていた。

 そんな前振りがあって、定期的ポエトリーラップ摂取期が訪れて、やっぱり狐火に行き着いた。今回は「唾の味」をリピートで聴きまくった。こちらの月間リスナー数は2100人。

 ライブ版でアレンジされている、「上司から飲みに誘われなくなった理由」が、「娘の好きなラップアニメに出てくるキャラクターの一人のモデルが自分だって言いやがって、そんな嘘をつくようなやつは誘えない」が切ない。本当なんすよ、と言う狐火の声は上司には届かない。

 子どもと久しぶりに公園で遊ぶ。自分の運動機能テストも兼ねて。

ブランコ:問題なし
急傾斜の滑り台(近隣の幼稚園・小学校の遠足先として名物になっている通称「ジャンボ」:一度滑って頭が危なく感じたので止めた。幸い息子は一人で滑れるようになっていた。娘の時は一人で滑れたのは小学生になってからだった。
なわとび:論外な行為。
四つ葉のクローバー探し:しゃがんで細かい物を探す、という行為の繰り返しは確実に病状悪化するので探さなかった。

 あれは大丈夫、これをすると後々大幅な休憩が必要になるのでやらない方がいい、これはやるまでもなくやってはいけない行為、そんなことを考えながら公園で過ごすことになるなんて、少し前には考えもしなかった。突然なわとび熱が高まった息子の、飛んだ数をカウンターでカチカチと数える。連続記録の最高回数は15回だけれども、公園での通算では450回という数字になっていた。3回や5回でも、積み重ねていけば数字は増えていく。家でやっていたゴムボールを使ってのまりつきの通算は何千回にもなっていた。

 入院中、唾を飲み込んだ。どこかのタイミングで喉が乾いたのに手元に飲み物がなくて、水分を摂らなきゃという気持ちだけが強くて、自分の唾を飲んだ。真夜中であろうとお茶のお代わりはもらえたから、夢の中だったのかもしれない。僅かな唾で脳脊髄液が増えるなんてことはない。以前と同じように行動の制限なんて気にせず動けるようになることなんてない。

 自分は軽症なんですよ。安静治療だけで改善したんですよ。私が入院直前に味わった激痛を、日常的に味わっている人や、寝たきりでほぼ動けなくなってる人だっているんですよ。常時こめかみが突っ張っているように感じるとか、静かな空間にいると耳鳴りの圧が轟音に聞こえてくるんですよ、とか、温かいお風呂にゆっくり浸かることは出来ないんですよ、血管が膨張して頭痛が激しくなるから、そんな程度のことなんですよ。結構今の仕事を気に入ってたんですよ。上司は厳しいですけど、身体使う仕事って案外性に合ってるところがあって、主夫時代最大89kgあった体重も、二十代半ばのベスト体重74kgまで戻ったし。

 でもとても戻れなくて。力仕事も、気温の変化も、頭の細かい上下の動きも、症状悪化要因しかなくて。戻ってみれば案外大丈夫だったりするかもしれないけれど、三か月働いた後にまた三週間入院、そんな未来が少しでも頭にちらつくと、とても戻れなくて。予想通り事務仕事で戻れるような隙間はなくて。

 退職手続きの話をしている時、電話の相手の総務の方はどこか安心していたようで。「現場は大変でしょうけど」と言った私の言葉はうまく伝わってなかった気がした。きっと現場の状況を総務の方は分かっていなくて。退院後いくらでも会社の前を通る機会はあったのにまだ通っていない。本当のことを言うと会社の人たちの顔も名前も早くも忘れかけている。一年半も自分は誰と過ごしてきたのかな、なんて。

 蚕と解雇をかけて狐火が歌うのを聴きながら、久しぶりに早起きできた月曜の朝にこんな文章を書いている。平日だけど会社に行く必要はない。息子も幼稚園を卒園した。娘は小学校に行けないでいる。妻は夜勤明けではないけれど、日頃の不安定な睡眠を取り返すようにまだまだ眠っている。三週間の入院中に読んだ本や書いた文章のことを考えている。家の中ではあの時ほど読めないし書けない。だから病院に戻りたい、なんてことはないけれど。突然の三週間の入院は、あれはあれで生活だった、暮らしだったと今では思える。

 書きかけの小説のラストまでの構想は出来ているし、読みかけの本はいくつもあるし、書かなきゃいけない書類も手元に置いてある。それでも狐火の「唾の味」を延々と流して耳鳴りをかき消しながら、こんな文章を書いている。

 息子の持っているなわとび用の縄は私には短すぎるから、お手本を見せてとせがまれることもない。「後ろクロス飛びが得意だったんだ」という言葉を私は唾とともに飲み込む。四つ葉のクローバーは見つからなかった。

(了)



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