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ワインは意外と身近にあって、いい匂いのするお酒でした

今から10年以上も前の話ですが、私はある知人の紹介で小さなイタリア料理店で働くことになりました。そのお店は住宅街にひっそりと佇む隠れ家レストランで、オーナーシェフが切り盛りしている20席程のお店でした。

私がそれまで働いてきたお店はどこも大箱で、キッチンとホールが完全に分業されているお店ばかりでしたが、そのイタリア料理店ではキッチンだけでなく、ホールも兼業してやらなければなリませんでした。

そのうえイタリアワインに特化しているお店だったので、その当時ワインの知識が全くなかった私は、まず最初に基本的なワインの知識を身につけなければなりませんでした。


私は今でこそワインが大好きですが、そのお店で働くまではあまり自分から進んでワインを飲むような人間ではありませんでした。

ワインに苦手意識を持つ多くの人がそうであるように、私もワインのことを一部の気取った人が難しい顔をして飲むお酒だと思っていたのです。


私はまず先輩に言われた通りに、イタリアの地理を覚えるところから始めました。ノートにイタリアの地図を描き、そこに赤ペンを使って州の名前と州都の名前を書き込み、帰りの電車の中などで暗記するのです。

それと並行して、一週間に1、2本、お店で出しているワインを原価で売ってもらい、家に持ち帰って飲むようにもなりました。

このワインはどの地域のワインで、どの葡萄の品種を使ったワインなのかということなどを確認しながら飲むようになると、少しずつ知識が身についていくのを感じることができました。


働き始めたばかりの頃は自分のことでいっぱいっぱいになっていて、周りのことを見る余裕なんてなかったのですが、仕事に慣れてくるにつれて徐々に周りが見れるようになっていきました。
すると常連様をはじめ多くのお客様が、難しい話は抜きにして気軽にワインを楽しんでいるということに気が付いたのです。

そんなお客様の姿を見ていくうちに、私の中でもワインに対する認識が徐々に変わっていきました。
ワインは意外と身近にあるお酒で、ウンチクなんかはなしにして、もっと気楽に飲んでよいお酒なんだと思えるようになってきたのです。



そしてしばらく時は流れ、年末の繁忙期。ちょうど今くらいの時期だったと思います。

その日店内は満席で、オーダーはかなり立て込んでいました。

お店のワインセラーは、当時前菜を任されていた私がいるポジションの真後ろにあったので、シェフは忙しそうに料理を作りながら「セラーの一番下の段の奥に入ってるワインを出しておいてくれ」と私に指示を出しました。

セラーの一番下の段はシェフの秘蔵の高級ワインが眠っている場所でした。

私はオーダーに追われながらも急いでワインセラーを開け、一番下の段の奥の方からワインを取り出そうとしたその瞬間、手前にあったシェフの秘蔵ワインを床に落として割ってしまいました。

「ガシャンッ」という大きな音が響きわたり、店内が一瞬静まりかえりました。

その静寂から更に一瞬遅れて、今度はシェフの怒号が飛んできます。

「何やってんだこのヤロー!」

私は頭の中が真っ白になってしまっていましたが、とにかく今は割れたワインを片付けてすぐにオーダーに戻らねばと、なんとか気を取り直しました。

私はガラスの大きな破片を拾い集め、ワインを雑巾で拭き取ろうとしたその時、再びシェフの怒号が響きました。

「何やってんだ、拭くんじゃない!」

そう言ってシェフは料理の手を止めこちらへ向かってきます。顔はまさに鬼の形相です。

私は覚悟をきめて謝りました。

「すいませんでした!」

するとシェフは「何やってんだよ!もったいねーだろ、拭く前にせめて匂いだけでも嗅がせろ!」

と言ってしゃがみ込み鼻をクンクンさせて匂いを嗅ぎ出しました。

私は以前読んだワインの本に、ワインの本当の価値は味じゃなくて香りにあると書かれていたことを思い出しました。

シェフは呆然と立ち尽くす私の腕を掴み、しゃがませてから言います。

「馬鹿野郎、おまえも嗅いどけ」

するとホールで接客をしていた先輩もキッチンに戻ってくるなり、「あー、俺にも嗅がせてー」と言って近づいてきました。

結局私達3人は、店内が満席でオーダーが立て込んでいるにも関わらず、床にできた赤ワインの海を中心にしてしゃがみ込み、匂いを手でたぐり寄せながら必死でその匂いを嗅ぐのでした。

むせかえるような、華やかで艶やかなその赤ワインの香りに包まれながら、先輩がボソッと呟きます。

「こりゃあ匂いだけで酔えるわ」と。

狭い店内には赤ワインの匂いが充満していました。そのせいもあってか、その日は赤ワインが飛ぶように売れました。おかげで売り上げが伸び、シェフの機嫌が良かったのは私にとって九死に一生を得た思いでした。


今でも赤ワインの匂いを嗅ぐとその時のことを思い出します。

結局私はそのシェフとはどうも馬が合わず、2年半ほど働いて辞めてしまったのですが、私にワインの楽しさを教えてくれたことを今ではとても感謝しています。

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