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南相馬市 ゲン・チャチャ・ピッピのはなし

 水と空気がきれいな田舎の古民家で、夫婦でのんびりと自然を満喫しながら人間らしい暮らしをしたい。そんな夢を持って東京で暮らしていた小坂さん(仮名)夫婦が、南相馬市の古民家に一目惚れしたのは、震災が起きる6年前のことでした。

 まずは、ご主人が東京での仕事を辞めて移住し、奥さまも、その3年後に完全に移住しました。古民家は住みやすいように最低限のリフォームをして、隣接する裏山と田んぼ、そして畑も一緒に購入しました。こうして小坂さん夫婦が思い描いていた田舎暮らしの夢は、まさに叶ったのでした。

 小坂さん夫婦は、以前から飼っていた2匹のネコ、チャチャ(MIX・メス・当時6歳)とピッピ(MIX・メス・当時1歳)に加え、犬のゲン(柴・オス)を迎えました。ゲンの運動のためにと、小坂さんは田んぼを潰してドッグランにし、子犬のゲンは毎日のびのびと走り回り、2匹のネコたちも縁側で陽向ぼっこをしながらのんびり過ごす日々。小坂さん夫婦は、都会では味わえない日々の暮らしを満喫していました。

 3月11日の大地震が発生したとき、小坂さんの家は物が落ちたり倒れた家具などはありましたが、ほぼ無事といってよい程度でした。また幸いにして海岸からも数キロ離れていたこともあり、津波の影響も全くありませんでした。水も自宅の井戸が機能していましたし、その当時の不安材料は、停電で真っ暗な夜を過ごさなければならなかったことくらいでした。

 状況が一変したのは、翌12日でした。小坂さんが暮らしている地域から15キロほど離れた場所にある、福島第一原発の1号機が水素爆発を起こしたという情報に、南相馬市とその周辺地域のみならず、日本中が大混乱に陥ったことは、みなさんがご承知の通りです。

 南相馬市から避難指示が発令されたのは、その日の夕方でした。市役所が出すというバスに乗るかどうか、小坂さん夫婦は悩みますが、『ペットは連れて行けないので、自宅に置いていくこと』という市役所側の指示に、『それはできない』と判断し、避難指示には従わず、自宅にて様子を見るという選択をしました。市役所もその当初は、それほど長い避難にはならないという見解を示していたことも、小坂さんの判断材料にもなっていました。

 翌13日から、家の窓を閉め切り、ラジオからの情報を注意深く聞きながら、さらに一晩が過ぎました。情報は錯綜し、何を信じて良いのか、どれが現時点で最良の選択なのかは、当時日本中の誰にもわからなかった時です。

 3月14日、2回目の水素爆発が3号機で発生したとの情報に、小坂さん夫婦は自家用車での避難を決断します。それでも、『すぐに戻れる』という言葉を信じて、柴犬のゲンだけをクルマに乗せ、2匹のネコ、チャチャとピッピは自宅に置いていくことにしました。それは、もし仮に避難所にペットが入れなかった場合、狭いクルマの車内にネコ2匹と犬を同居させることは難しいと思ったからです。それならば、『すぐに戻れる』と言っていた役所の言葉を信じて、多少でもネコたちの自由が効く自宅に置いていくほうがが良い、そう思ったからでした。

 南相馬市が避難用に出したバスの行き先は新潟県でしたが、小坂さんのクルマには新潟まで行けるほどのガソリンが残っていませんでした。14日の夜、小坂さん夫婦は、2匹のネコのために3日分の食料とたっぷりの水を置いて、とりあえず福島市まで行くことにします。

 福島市役所で避難所の場所を聞くと共に、小坂さんは市の職員にペットはどうすればよいか尋ねたところ、『人間のことだけでも大変なのに、イヌネコのことなんて考えられない!』と冷たく言われてしまいます。仕方なく、教えてもらった郊外の避難所に向かい、夫婦はひとまず落ち着きますが、ゲンは車内で過ごさざるを得ませんでした。

 福島での避難所に落ち着いてから、小坂さんは避難指示解除の一報を今か今かと待ち続けますが、原発周辺地域の状況は悪化の一途を辿ります。チャチャとピッピに置いてきた3日分の食料がそろそろ底をつく頃になっても、状況は好転するどころか、避難生活は長期化する気配が漂い、さらに悪い情報が流れてきました。小坂さんが暮らしていた地域が放射能被害の危険区域として、立ち入り禁止区域に指定されてしまうのです。

 

 小坂さんの奥さんは、それから毎日泣きながら過ごします。チャチャとピッピのことを思うと、居てもたってもいられないけれど、戻って救い出すことも出来ないジレンマに悩み続けます。悔しさや怒りをぶつけるべき行き場を失い、こんなことになるのなら、あの時無理にでもネコ達を連れてくればよかったと、自分を責める日々でした。

 3月20日、小坂さん夫婦は、意を決して警戒区域に指定されている自宅へ、強行で戻ることを決心します。同じ避難者でもある友人になんとか頼み込んでガソリンを分けてもらい、検問が比較的緩い時間帯を狙って、ひとけのない南相馬に向かいました。

 幸いにして、検問で咎められることなく自宅に戻ることができた小坂さん夫婦は、恐る恐る玄関を開けます。最悪の状況も覚悟しながらの帰宅でした。

 チャチャとピッピは、元気でした。しかし、家の中はぐちゃぐちゃに荒れていて、2匹のネコたちが、大変なストレスの中で過ごしていたことを物語っていました。置いていった3日分の食料と水は完全に無くなっていて、空腹と渇きは限界近くだったことが想像できました。

 それから、ゲンとチャチャとピッピのイヌネコ3匹の、車内避難生活が始まりました。なんとか命は救い出せたものの、避難所でのペット受け入れは出来ないというルールが決められている以上、3匹はストレスのかかる生活を強いられることになります。ネコのチャチャとピッピは、過度のストレスによって自慢のヒゲがすべて抜け落ちてしまいました。季節が変わり、避難所生活は長期化することがわかってくると共に、気温もどんどん上がってきます。2匹のネコが逃げてしまう恐れがあるので、クルマの窓は開けられません。小坂さんと同様、駐車場の車内でネコを飼っていた方の中には、逃げて行方不明になってしまったという事件もありました。

避難所には、ボランティアで訪れる獣医がいたので、3匹の健康相談や薬などのケアは行うことができました。しかし、狭い車内で犬とネコが数ヶ月も寝食しなければならない状況を強いていることは、小坂さん夫婦にとって、とても精神的に辛い状況であることに変わりはありません。

結局、紆余曲折の末にペット可の仮設住宅に入居できたのは8月に入ってから。小坂さん夫婦の避難所生活と、ゲン・チャチャ・ピッピの車内生活は、約5ヶ月にも及びました。自宅のように、のんびりした生活はできないものの、ようやく3匹のペットと同居ができるようになったことは、小坂さん夫婦にとって嬉しいことでした。ストレスによってヒゲが完全に抜け落ちていた2匹のネコたちは、1ヶ月もしないうちに立派なヒゲが生えてきたそうです。

狭い仮設住宅での暮らしは、決して快適ではありませんし、将来的な展望もあまり明るいとは言えない状況です。小坂さんのご主人が働いていた職場は休業状態が続き、奥様が勤めていたパート先からは解雇を言い渡されています。東京電力への賠償請求書類は送られてきたものの、条項のなかに、ペットに関するものは含まれてはいません。

震災から1年あまりが経過した2012年4月16日、小坂さんの自宅がある区域の検問が解除になりました。しかし、高い放射線量がいまだ検出される土地であることには変わりなく、除染作業は国に委ねられているものの、その具体策はいまだ明確には示されていないのが現状です。

それでも、3匹のペットたちと同居ができることがせめてもの救いであり、震災と原発事故によって、また、その後の避難生活でも、たくさんの心の傷を受けましたが、なんとか今を生きることができるのは家族同様のペットたちがいるからかもしれませんね、と奥さまは笑顔で言ってくれました。続けて、犬は比較的預けやすいけど、ネコはなかなか預け先がない、ネコを飼っている方々には、災害避難時に備えて、県外での預け先をあらかじめ探しておくべきですよと言う言葉には、辛い経験に裏打ちされた教訓が説得力を持って伝わってきたのがとても印象的でした。

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