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- 彼岸列車 -

「すいません、あの」
 その声で目が覚めた。
 若い女が、私の顔を覗き込んでいる。
 背と尻に硬いクッションの感触、心地よい定期的な振動。あぁそうだ、俺は終電に乗ったんだと思い出す。ガラガラの車内に座り、そのまま眠ってしまったらしい。
 仕事終わりの深夜とは言え空いてるな、と座ったまでは覚えているのだが──。

 寝起きのぼんやりする頭を上げると、乗客が4人立っていた。
 若い女はワンピース姿で、小さなバッグを持っている。品のいい金の腕時計をつけていた。
 紺色のスーツの中年男、手ぶらの私服の青年と、同じく手ぶらの老婆──この4人が、身を寄せ合うようにしている。
 全員の顔にぼんやりと、不安げな表情があった。

「何か……?」
 そう尋ねると、女は変なんです、と言った。
「まず、ここがどこなのかわからなくて」

 ……どこ?

 私は伸びをし、反対側の車窓に目をやった。

 真っ暗だった。
 うんざりするほど見慣れた地方の郊外の家並、道の明かり、それがひとつも確認できない。広がる田畑も見えない。
 二両編成の電車だが、乗り過ごしたにしてもおかしい。
 まるで墨の中でも走っているみたいだった。

 スマホを出す。電波が入らない。
「……運転士さんには聞きましたか?」
 立ち上がりかけた私に向かって、青年が首を横に振った。
「ダメなんです」と彼は言う。「運転席も同じで」
 青年の視線を追って、進行方向に目をやる。
 私たちがいるのは先頭車両だ。運転室があり、運転士がいるはずだった。

 車両の先頭の小部屋も、真っ黒だった。
 なにかが充満しているような黒さだった。
「誰もいないんですか?」声が出ていた。「じゃあこの電車、どうやって動いてるんですか」
「知らないよそんなことは」と中年男が苛立つ。「苦情を言おうにも電波が──」



 ぽぉん。



 聞き慣れたお知らせ音が鳴り響いた。
 続いて男の声がした。毎日のように聞いている、電車のアナウンスの録音声だ。


「お待たせ致しました。間もなく、オノミ」


 オノミ?
 そんな駅がこの路線にあったろうか。

「えっ」
 若い女が叫んで、両手で口を押さえた。顔が青ざめる。
 ただならぬ様子に思わず、どうしたんですと聞いた。

 彼女は震えながら、小声で答えた。
「……母の、実家の町の駅で……」
「この辺ですか」
「し、島根です」
 私は混乱した。
「ここ、都心ですよ」
「それは知ってます。でも」

 ゆるゆると電車が速度を落としていく。 
 窓の外に駅の気配はない。
 若い女は誰に言うでもなく、口を押えたまま呟く。
「なんで? なんでオノミに」

 列車は、暗闇の中途で止まった。
 ぷしゅう、と我々の斜め前のドアが開く。
 ドアの外にも、ただひたすらに闇が広がっている。



「かなちゃん」



 闇の奥から不意に、中年の女の声がした。

 若い女は私の隣に飛び込むように座った。弾かれたような動きだった。
 服の膝のあたりを握りしめている。手の甲は真っ白で、青い血管が浮き出ていた。
 目が大きく見開かれている。呼吸が浅い。

 彼女は硬直して、黒い空間を見つめている。
 異常な事態が起きていることは、聞かずともわかった。


「かなちゃァん。ねぇ。どうしたのォ」


 女の声が再び響いた。甘ったれたような調子だった。


「かなちゃァん、おかあさんだよお。ねぇ、かなちゃァん?」


 女は影すら見せない。気配すらない。それなのに声には存在感があり、いやらしく甘えた調子も強くなっていく。


「ボタン。ボタン、おしてください」
 若い女はきれぎれに私に囁いた。
「お願いです。ボタン。ボタンおしてください」

 ──この電車は、押しボタンで扉が開閉するようになっている。
 駅に停まった際は自動で開く。しかし乗降客がいない時は冷暖房の節約も兼ねて、ドア脇のボタンを押すことで開け閉めができるようになっている。
 そのボタンを押してくれ、と彼女は言っているのだ。私に。

 私は躊躇した。ボタンを押すには必然、ドアのそばまで行かなければならない。
 だが外には、得体の知れない声の主がいる。
 手を掴まれでもしたら──

 私は目の前にいる3人に目を転じた。
 老婆は聞こえなかったのか、振り返って外を見たままの姿勢で動かない。
 男2人──ビジネスマンと学生か──が、ちらとこちらを見ていた。
 悩んでいるのを見透かしたように、中年の男が私に言った。
「あんたが言われたんだし、あんたやりなよ。本当は本人がやるべきだけど」
「いやです」若い女は涙目で首を横に振る。「できないです」
「ほら、できないってさ」
 しかし、と言う私を中年男は押さえつける。
「可哀想でしょ。あんた、若い子の頼みが聞けないの?」
 有無を言わさぬ口ぶりだった。こういう物言いに慣れているようだった。
「押すのなら、あなたでも」
「え? 俺に丸投げする気?」
「いやそうじゃなく」
「──ああ、もう!」

 青年がかぶりを振ってから、前に進み出た。
 ボタンまで数歩の距離を、怯えを振り切るように力強く歩く。
 その勢いのまま、縦に並んだボタンの「閉」を押した。
 ぷしゅう、と音がしてドアが動く。
 それに合わせて青年は素早く引っ込んだ。


「かなちゃァん! ねぇ? なんでおかあさんのこと」


 ドアが閉まりきる直前、とろとろとした甘え声が一段と大きくなった。

「うるさいッ!」

「かな」と呼ばれた彼女は上半身を揺らせて叫んだ。

「知らない! あんたのことなんか知らない!」

 ドアが閉じた。電車が息を吐いて、ゆっくりと動き出す。
 中年女の声は聞こえなくなったものの、堰の切れた彼女の叫びは止まらなかった。
 遠ざかっていくのであろう母親に向かって、罵言を吐き続ける。
 
「なんなの! あんたのせいでどんだけ……クッソ! ふざけんなよババアッ……!」

「あの、大丈夫ですか」と私は声をかけた。
 彼女は私の目を直視して、「何が!?」と怒鳴った。
 私が驚くと、憑き物が落ちたように彼女の体の力が抜けた。
「あ……ごめんなさい。私……すいません」
 今度はぺこぺこと頭を下げる。
 いいんですよ、と言いながら私は、「母親」だけでなく彼女にも、歪んだものを感じた。



 ごとん、ごとんと列車は、黒い世界の中を走っていく。
「母は6年前に死んでます。オノミで……」
 身を縮めながら彼女は言った。
「私が看取りました。でもあの声は、絶対に母です」
 私は振り仰いで、立った3人を見た。
 中年男と青年は顔をしかめていて、老婆は何故か私の顔をじっと見つめていた。私にこの状況の答えを聞きたいのかもしれない。

「は? 何、どういうこと?」中年男はまるでこれが誰かの責任──自分以外の──であるかのような口ぶりだ。
「わかりません。でもたぶん、僕らも同じことになる気がします」
 青年は言った。腕を固く組んでいたが、冷静な口調だった。
「同じことって何だ」
「身内で死んだ人がいると、その町や駅……と称する場所に停まって、死んだ人に──」
「おい冗談じゃないぞ」中年男はイラついた手つきでネクタイをゆるめる。
「なんでそんな目に遭わなきゃいけないんだ。えぇっ?」
「それは僕にもわかりませんけど」
「俺は早く帰って寝たいんだ。チッ……なんだってんだよ」
「でも向こうも何か、言いたいことが」
「俺には死人に言われることなんか一つもないんだ。それともあんたは心当たりあるのか?」
「いえ、僕は──」青年が少し青ざめて、言葉に詰まる。
「何だ、あるのか。じゃああんたゆかりの駅に着いたら、あんたどうするんだ。ん? えぇ?」

 男は大声で言いながら、青年の肩を平手で押した。座っている私の鼻に、かすかな酒の匂いが入ってくる。そう言えばこの中年、顔が少し赤い。酔っている。
 立ち上がった。二人の間に割って入る。
「言い合いはやめましょうよ、まずどうやったら各自の家に帰れるか、それを──」
「あんた俺に指図するのか! えぇ?」
 男は私に掴みかかる。酒とタバコが混ざった口臭がする。よしましょう、と今度は青年が私と男の間に入った。
 まずこの場を収めないことには──考えたその時だった。



 ぽぉん。



 その音は、私たちの揉め事を一発で止めた。


「お待たせ致しました。間もなく、スギカワ」


 中年の男が、私たちの腕を払った。それから、
「……あんたら、スギカワは?」
 私は首を横に振る。青年も私に倣う。
 座席で小さくなっている女も、かすかな動きで否定した。
 後ろを振り向くと老婆は真顔で私を見ていた。肯定はしていないようだ。
 中年の男はネクタイをずるりと外してしまった。聞こえよがしのため息をついた。
「俺の前の職場だよ」
 眉を寄せ、迷惑そうに渋面を作った。
「まったく……チッ……」

 
 スピードが落ちる。床の下で車輪の回転が遅くなる。電車はたどり着きつつある。
「開いても真っ暗だったら、またあんたが『閉』のボタン、押してくれ。さっきやったあの調子で、な?」
 男はごく当たり前のように青年に言った。
 そんな理屈があるか、と私が咎めようとすると、「いいですよ」と青年が答えた。その声色に怒りはなく、どこか悲しい響きがあった。

 列車は静かに、どこかへと滑り込んだ。
 青年はドア脇、ボタンをすぐ押せる場所にまで移動した。

 ドアが開く。
 やはり外には駅舎も街灯もない。闇があるだけだった。
 彼は私たちの方を見やり、押しますよ、と頷いた。
 その時だった。


「部長……」


 潰れた男の声が聞こえてきた。
 青年は肩をびくりとさせ無意識に一歩下がる。その彼に、
「押せ! 何してるんだ!」
 中年男が焦った調子で言った。
「早く押せよ! 閉めろ! 何してんだほら!」
 おおよそ人に頼む口調ではない。しかし青年は素直に腕を伸ばし、ボタンを押した。

 ドアが閉じ切った途端だった。


 ばん。
 ばんばんばんばんっ。


 割れんばかりに窓が叩かれた。
 それと共に、

「人でなしィッ。人殺し。お前のせいだぞッ。許さないぞッ」
 たどたどしくも憎しみのこもった罵倒が、ドアの外から聞こえた。

 電車が動き出す。
 それに従って、窓を叩く者は後方へと流れていく。

「ちくしょう! クソ野郎! 恨んでるからなカワダ! 絶対に──」
 電車は加速し、声は遠のいていった。


 私も青年も、おそらくは若い女も老婆も、一斉に中年男の方を見た。
 しかし彼は「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。
「仕事のトラブルでね──逆恨みだよ逆恨み」
 強がっている風ではなかった。本当にそう思っているらしかった。
 呆れている私のそばで、青年が呟くように言った。
「あなた、そんな言い方──」
「向こうが勝手に死んだんだ。こっちだっていい迷惑だよ」
 座席の上で女が驚愕して息を吸うのが聞こえた。
 青年は二の句を継ごうとしたが止めて、もういいです、と言った。
 彼は長い座席の端に座って、足を広げて頭を抱えた。


 車両に、しばらくの沈黙が降りた。
 定期的な振動の中、私は考えを巡らせていた。

 まず、自分のこと。
 恨まれるようなことは? していない。
 私に怨みを残して死んだ人間はいるか? いない。
 両親は健在。祖父母とは縁遠い。親類、知人、近隣との付き合いも良好だ。まったく平凡で善良な人生だ。

 そんな私が「この電車」に乗り合わせているのはどうも落ち着かない。が、誰かに呼ばれたり罵られたりする恐れはないように思える。

 大丈夫だ。
 心の中で頷くと、硬直していた頭がほぐれてきた。
 どう帰る? 
 まずはこの5人で車両を点検してみよう。
 別れずに全員で動かねばならない。
 最初に前方の、運転席の中を覗いてみて──



 ぽぉん。



 私の思考は、例の音で寸断された。
「お待たせ致しました。間もなく、テラダ二丁目」


「ああ、やっぱり──。僕です」
 青年は立ち上がった。表情に、決心の色が濃く宿っていた。
 彼は所在なげに吊り革を掴んでいる中年の男に向かって、こう言った。
「あなたと同じことはしませんよ、僕は」
「なに?」
「僕は、謝るつもりです。死んだ友達に」

 彼はそう言ってドアの真ん前に行こうとした。私は彼の前に立ちはだかる。
「近くでなくても……」
 車体の下、線路のきしみの間隔が伸びていく。停車が近い。
「いいんです。僕、ずっと謝りたいと思ってて」
「けど、本当に友達かどうか」
「奴で死んだのがテラダって町なんです。間違いないです」
 彼は私の肩を押しのけた。優しい押し方だった。

「謝るって言ってるんだ」中年男はネクタイを雑にズボンのポケットにしまう。「すぐそばで言わせてやればいいよ」
「……そうですよ、そう」席で縮こまっていた若い女もはじめて、身を起こした。
「話してみて、まずかったら、戻ればいいんですよ」
 そうは言うものの、彼女の言葉の端々には思いやりがなかった。試しにやってみてほしい、という気持ちが隠せていなかった。

 私は老婆に目をやった。そういえば今までこの人の意見も、いや声すらも聞いていない。この異様な事態に戸惑っている様子もない。
 よくよく見れば着ているものは裾や袖がほつれている。ボケているのかもしれない。
「どうです」と、私は探るように小声で聞いてみた。
 老婆は口を開いた。二本きり残って黒くなった前歯があって、嫌な気分になった。
 口を開いたはいいものの彼女は何も発さず、曖昧に首を横に振った。わかりません、という意味だと私は考えた。
「……じゃあ、声が友達じゃなかったり、危険だと思った時は言ってください。助けますから」
「ありがとうございます」
 青年が温かい目で私に礼を言った時ちょうど、列車が軽い音を立てて停まった。


青年は、ドアの前に仁王立ちになった。
 表情は窺えない。しかし背中には腹を括った人間の気迫があった。
 しゅう、とドアが開く。
 外には何もなく、誰もいない。
 彼の背中に緊張が走った。



「かずひろォ」



 細い声が、闇の奥から聞こえた。
 青年の全身から緊張が消え、力が抜けた。
「……ヒデキか? ヒデキだよな!」
「うん……」
 青年の背が丸まった。顔を伏せて、泣いているらしかった。
「ゴメンな」鼻をすする。「本当にゴメン……」
「いいよ……」
「ゴメンな……あんな事故になるなんて……」
 肩と頭が震える。青年は泣きじゃくっていた。
「謝るなよ…………あぁ、もう、時間……」
「待ってくれよ! ユイちゃんとかお父さんとかお母さんに、なんか言いたいことないのか? 俺、絶対伝えるから!」
「もう、行かないと……」
 声が、一歩下がるように遠ざかった。
「待てって!」
 青年は闇の中に右手を突っ込んだ。


 ぐい、と引かれた。
 えっ、と短く呟いたあと、彼の喉の奥から狂ったような叫びが吐き出された。
「違う! 違う! ちがう!」
 ドアのそばのポールを左手で掴む。右上半身はもう黒い世界に呑み込まれている。ドアの内と外で断ち切られたように輪郭すら見えない。
「ヒデキじゃない! いっぱいいる! いっぱいいる!」
 電車の床にスニーカーがこすれて鳴った。
 青年は首をねじって助けて、助けて! と叫び私を、他の乗客を懇願の瞳でかわるがわる見た。
 私は、恐ろしくて動けなかった。
「助けて! お願いです! ねぇっ」
 ポールを掴んだ腕がまっすぐに伸びる。指もどんどん伸びて、金属の棒から離れていく。
「誰か! 誰か助け」
 糸がちぎれたように、指が離れた。
 涙に濡れた青年の顔は瞬時にして、闇の奥に消えた。

 閉まる音は聞こえなかったような気がした。
 気が遠くなったのに合わせて電車が動いたのでふらりときた。座席の背もたれに両手をつく。
 しばらくそのままの体勢で、動くことができなかった。
 誰かが小さく話し合っているのが聞こえる。が、内容は頭に入ってこない。
 青年の声が耳の中に響き、最期の顔が脳の中に焼き付いたままだった。

 どれくらいそうしていたのか。
 いきなり背中をばん、と叩かれて、私は我に返った。
 その方を向くと、中年男が立っていた。すぐ後ろには若い女がついている。
女は身を守るようにバッグを抱え、男は何故かニヤついていた。
 男はこう言った。
「まあこれで、外に出ちゃいけないってわかったわけだ」

 彼の言葉の意味がしばらく理解できなかった。
 理解できた時、腹の底から熱い怒りが湧き上がってきた。
「どうしてです」一声目は、自分でも驚くほど冷静だった。「どうして、彼を助けようとしなかったんです」
「何言ってんだ」男は私の肩を掴んで顔を寄せてきた。また酒とタバコの匂いが鼻についた。
「あんただって何もしなかったろ。怖くて体が動かなかった、とか言うなよ? 結果的には同じだ」
 言い返そうとしたが、言葉が選べなくて喉が詰まった。
「起きたことはしょうがない。もうくよくよするのはやめて、今は次をやりすごすことを考えた方が」
「──あんたには、心がないんですか」
 どうにか、それだけ言うことができた。
「そういう口論は無事に帰ってからでいいだろ。ねぇ?」
 またニヤついて、振り返る。若い女は蚊の鳴くような「……えぇ」と返した。

 私が呆然自失となっている間に男は、この女を自分の手の上に乗せてしまったらしかった。もしかしたらあの老婆も、すでに丸め込まれているかもしれない。
「──皆で引っ張れば、あの人を助けることはできたはずでしょう!」
 抑えがきかなくなり、大声を出していた。
「悼む言葉くらい言ったらどうですか! 助けなかったことだけじゃなく! 話しかけると言った時に止めなかったことも! 少しは自責の念を」
「だからぁー、今はそんなの意味がないって言ってるだろ? それより聞こえなかったのか? あんたの駅がもうすぐなんだから、ボタン、自分で押してくれよ?」
 無性に腹が立った。男の言うことすべてを否定したかった。
「意味がないとか言うなよ! なんでそんな冷たいことが言えるんだ! 人がいなくなったのに! ボタンはあんたが押せよ! 人にばっかり押し付けないで!
 それに次が俺だって決まったわけじゃないだろ! こんな無茶苦茶なことばっかり起きてるんだ、次はまたあんたの、別の駅かもしれないぞ!
 そこの若い女の別の駅かもしれないし、この婆さんの駅だってまだ残ってるんだ! わかったような口をきくんじゃないよ!」


 叫びきってから私は、息を切らせつつ目の前の男女の顔を見た。
 ふたりとも、奇妙な表情だった。
 最初は私の剣幕に押されたのかと思った。しかしそれにしても、困惑の割合が大きすぎる。理解しがたいものを眺めている目だった。
「あの」
 口をもぐもぐさせていた若い女が、小さな声で私に尋ねた。
「婆さん、って、誰ですか?」


 婆さんだよ──この、

 言いながら隣に目をやろうとした。
 右の手首を握られた。
 老婆がいた。
 歯が二本きりの黒い口を、にゅっ、と広げた。
 皺に囲まれた、黒目しかない目が、小さくすぼまった。
 笑ったのだった。
 生きた人間の笑顔ではなかった。
 しかし──私の記憶の中にこんな老婆はいない。
 全く、知らない婆さんだった。


この婆さんは。

 考える間もなく、ぐい、と引っ張られた。
 気づけば電車は速度を落としている。見えないホームに停まろうとしている。
 右手を握る老婆の力は老人のそれではない。関節が外れそうだっだ。

 足を踏ん張り左手を伸ばした。中年の男のシャツ。そこにネクタイがあれば捕まえられるはずの場所──だがネクタイはとっくに外されていた。

 後ろでぷしゅう、とドアの開く響きと振動があった。真っ暗な闇が広がっているのを感じた。さっき青年が呑み込まれた。どこまでも深い黒い闇が。

 私は向きを変えた。女の胸元、バッグの取っ手に指がかかった。
 女が叫んでバッグを離した。
 私は代わりに彼女の手首に巻いてある金色の腕時計に指をかけた。
 右腕はおそろしい力で外に引かれていく。
 腕時計かかった指を離したら、一気に持っていかれる。叫ぶ余裕もない。歯を食いしばり金属のベルトを手の中に巻き込む。
「痛い痛いいたい!」
 女が顔を歪ませる。
 その彼女を、中年の男が後ろから抱きすくめた。
 女を電車の中に止めようとしているのだ。
 誰も助けなかったくせに、若い女となると助けるのか!
「ふたりで! 二人で引っ張ってくれ!」
 歯の隙間からどうにか言う。
 男は片腕で女を抱きながら、もう一方の手の指を腕時計に這わせた。
 外そうとしている!
「助けてくれよ!」
 男の太い指がベルトを探って、力任せに金具を引き上げる。
「頼む、助けて……」
 かちり、と軽い音がした。
 私の指先が軽くなり、腕時計だけが手の中に残る感覚があった。
「あ」と言うより早く、私の体は列車の外へと引きずり出された。
 闇に入った体の部分の感覚が、溶けてなくなるのがわかった。
 最後に見たのは、床に尻餅をついている中年男と、若い女の姿だった。
 私を引っ張るこの老婆のことを、何か思い出した気がした。
 しかし私の意識は、頭まで暗闇に呑まれた瞬間に途切れた。


 ドアが閉まった。
 中年男と若い女は床の上でしばし呆然としていた。
 彼らには、さっきのスーツの男が何か──見えない何か──に腕を引っ張られて、列車の外の闇に呑み込まれたようにしか見えなかった。

「……あの、あの人って」
 女が震える声で言う。
「知らんね」男はさっと立ち上がって、尻や膝を払った。「考えても無駄だよ」
「そんな、冷たい」
「助けてやったのになぁ」男は女の言葉を遮る。「俺が腕時計を外してやらなかったら、あんたどうなってた?」
「────」
「まぁいいや、ほら、立てるかい?」
 手を出したが、女は動かずに言った。
「一人で立てます。恩着せがましい言い方しないでください」
 アテが外れた男はチッ、と舌打ちをした。
「まぁいいや、これで4人全員終わったんだから終わりだろ」
「またスギカワに停まるかもしれませんよ」女は仕返しのように言う。
「順番から言うと、あんたの母親の方が先だろ?」
「わからないじゃないですか。部下を死なせてるあなたの方が──」
「勝手に死んだんだよあの馬鹿は! あんただって母親と何があったかわかったもんじゃないな」
「何ですって──」



 ぽぉん。



 例の音が、列車の中に鳴り響いた。

 二人は黙った。
 都心の駅の名前を期待しつつ、同時にオノミやスギカワの名を告げられるのを恐れた。

 だが、聞こえてきたアナウンスは──


「お待たせいたししました、間ももももももななななくくく、
 まままままももももななななななななななななななななななな
 ななくくくくくくく、まももももなななななななななな」



 ……嫌だ、何!? と女は頭を抱えてうずくまる。
 車内の電灯がバチバチと明滅しはじめた。
 男は左右に目を泳がせる。
「どうなってんだよクソッ! どうなってんだ!」


 くくくくくくくくなななくくくまもまもななななくくくく
 もなまもなくななななななくくくくくくまもなななななななな


 声が四文字を延々と繰り返し行き来する。
 そのうちに電車の速度が落ちてきた。
 女は丸まって泣きながら耳をふさいでいる。
 男は窓の外を見た。
 虚無の闇が厚く列車を覆っていた。

 列車は自転車の速さになり、徒歩の速さになり、やがて虫の這う速度になってから、完全に停止した。

 アナウンスは途切れ、静寂が訪れた。

 ぷしゅう、と彼らの斜め前のドアが開いた。
 外はまた、ひたすらの闇だった。



「ひどい」



 男の声が響いた。
 女はぴたりと泣き止み、凍りついた瞳で外を見た。
 ふたり共に知った声だった。
 さっきの男の声だった。
 見えない何かに引きずり出された男。
 ふたりが、助ける素振りすらなく見捨てた。
 あの男の声だった。



「ひどいですよ」



 闇の中、目の位置ほどの高さに、蠢くものがあった。
 黒く厚い膜から、それはぬっ、と現れた。
 中指、人さし指、親指──
 列車の中に三本の指が突き出された。
 指は金色の物品をつまんでいた。
 指が離れて、床に落ちた。
 女の、腕時計だったものだった。
 小石のように小さく、固く丸く潰されていた。



「ふたりとも、ほんとうに──」



 指が、そのまま車内へと入ってくる。
 指から左手。
 左手から手首。
 手首から腕。
 彼の服は、泥沼に漬かったように汚く濡れていた。
 腕から肘が、二の腕が出る。
 肩が現れる。
 首と顎が見えた。
 皮膚が、土色に変わっていた。
 そしてそのまま、顔が────



 男と女の絶叫が響いた。
 ぱつん、と列車の電気がすべて消えた。


 闇の中に、しゅう、とドアの閉まる音だけが響いた。


「ご乗車、ありがとうございました」


 アナウンスの声が聞こえて、あとはなにもなくなった。




……………………………………



「…………ねぇ知ってる? ヘンな列車の話」
「えっ何、それ怖い話? やめてよ夜に。私、怖いの超イヤなんだから」
「いいじゃん、私らバス通学で電車乗らないし。ここだってバスだし。バスの中で列車の話なら怖くないでしょ? それでねぇ──」
「やめてったらっ!」
「夜の電車に乗ってて、ちょっと寝ちゃったり、スマホに気ぃとられたりするじゃん?」
「やめてよバカっ!」
「で、ふっと顔を上げるとね、外が真っ暗なんだって」
「……真っ暗って?」
「町の明かりも風景も見えなくて……ってちゃんと聞いてるじゃん! で、ここの路線にはこんな駅なかったでしょ、って所に停まるの」
「え……ワープ?」
「違うの。そこ、その人に関係のある駅なんだって。でもドアが開いても外は真っ暗で、何にもないんだって。
 それでうわぁ怖い~って思ってると、暗闇の中からね、小さく、ささやくような、死んだ人の声が──」
「──ねぇ、待って。待って」
「ちょっ、話の途中なんだけど。何?」
「ねぇ…………なんでバスの外、こんなに真っ暗なの?」


 女子高生ふたりは、窓の外を見た。

 なにも見えない、一面の闇。






【完】


◆本作は、「小説の冒頭800文字で面白さを競い合う」コンクール、#逆噴射小説大賞2021 応募作を改稿、完成させたものです。



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