朝井リョウさんの言う「解像度」について
先日、岐阜市の図書館で開催された中高生を対象にしたショートショートの文学賞のイベントを観覧した。
タイトルは…「ぼくのわたしのショートショート発表会(ぼくわた)」とのこと。
高校教諭をしていること、朝井リョウさん作品の(そこまで熱心ではないけれど)ファンの一人であること、何より時間が存分にあること、の理由で軽い気持ちで参加した。
受賞した中高生本人が朗読をし、短い文章の中で描く、彼らの世界に触れることができてとても聞きごたえがあった。
そして、朗読後に、朝井リョウさんが「そうそう!そうだよね」と私が思ったことを的確に優しく言語化していらっしゃり、さすがだなぁと当たり前だが感心する楽しい時間だった。
朝井リョウさんには、私と年齢が近く、同時期に岐阜から上京し、東京の大学で学んでいたことから勝手に親近感を持っていた。
出版業界に新卒で入ったので、大学の先輩が朝井リョウさんだ、などと話題に出ることも多かった。
思春期の独特の苦々しさを、あんなにも若いのに完成度高く書けることに尊敬と嫉妬すら覚えていたのかもしれない。
とはいえ、丁寧に私たちにお話しする姿や、物腰の柔らかさや機転の利くやりとりなどから、文学的な才能だけでなく、人としての魅力がある立派な方なんだなとしみじみと思った。
そんな朝井リョウさんがとある生徒の作品に対して「解像度」という言葉を使って話をされていた。
思春期は解像度が高い、同じ物事を経験しても、歳を重ねるとそうは感じられない。
そんな話だった。
私だけじゃなく、あらゆる文学少女、少年はその言葉に共感を覚えるだろう。
中2病に苦しんだあなたのことですよ(笑)
あの頃、人の目が気になり、ちょっとしたことで落ち込んだり、腹を立てたり、いわゆるイタイ行動で自分を表現しようとしていた。
しかし、成長するにつれ、自分という存在に折り合いが付き、そんな後から思うと恥ずかしい行動は減っていった。
いわゆる生きやすさを手に入れた。
そして、それと同時に私たちは、世界の解像度をぐっと下げてしまったのだ。
もう二度と、あの頃みたいに多感に毎日と向き合うことはできない。
そんなことを「解像度」の話から感じた。
朝井リョウさんも青春小説を書く名手として、いつもその解像度を保ち、鮮明に斬新にみずみずしく世界を見るためにつとめているのではないだろうか。
ふと、私が高校の教員を楽しんでいる理由もそこにあるのではないかと思った。
私はいわゆる思春期の面倒くさい、自分勝手なトラブル、悩みを抱える生徒を見つめることが好きなのだ。
それは他の先生から変人扱いされるほどだ。
でも、「自意識」と「他者の視線」に苦しむ、彼らを見ていると、少しでもその不安を解消させたいと思うと同時に、そんな風に世界と100パーセントの自分で向き合う姿を尊いなぁと感じるのだ。
生徒にとってみたら、嬉しくはないのかもしれないけど、そんな風に苦しむあなたをも素敵だよとつい声をかけたくなってしまう。
(サイコパスだと思われそうだ!)
さて、私たちの世界の解像度は、下がる一方なのだろうか。
でも、逆に見えてきた世界の姿もある。
図書館から出て、銀杏並木が秋の黄金色に輝いていた。
その並木道には、様々な人が、休日の午後を過ごしていた。
年配の夫婦。受験勉強のために図書館に来たであろう男の子。コンビニのコーヒを片手に談笑する若い男女。小さな子が芝生を危なげに歩いている。シュークリームを頬張りながら盛り上がる女子生徒たち。
そういったものを美しいと感じる眼差しは中高生のころにはなかったのかもしれない。
世界を見つめる眼差しは、私たちの心次第で、きっと豊かになるんだろう。
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