見出し画像

読んで欲しい自己矯正記 「死に立ち会って湧き上がる悲しみ以上の感情」

昨日、11時14分 自分の施設で介護を続けてきた93歳の祖母が他界しました。

認知症が重度で家族もわからなければ食事や排泄に対する理解もありませんでした。
理解もなければ歯もないので、ミキサーにかけた食事を半ば無理矢理口に入れなければ食べられず、なぜか「大根」という単語をひたすら繰り返したりしていました。
会話はできませんでしたが時々「おっ?」と思えるようにピタッとハマった返事があったりしました。

現在、65歳以上の人の認知症割合は6人に1人ほどでしょうか?
この割合は年々増え続け、いずれは「歳を取れば認知症になる」が当たり前の世の中になるかもしれないくらいです。
この20年で「認知症」という言葉は広く世間に認知されるものとなりましたが、実際皆さんはどのくらい認知症のことを知っていますか?

ざっくり医学的な表現で言えば「脳が萎縮する病気」です。ちなみにアミロイドβというタンパク質が溜まることで発症するとされています。(これ、20年もかけて徐々に溜まるそうです。)

そして認知症ケアを15年してきた私の私見となりますが、初期から中期の認知症は「素直になりすぎる病気」です。
感情や欲求のブレーキ(理解力や判断力)が曖昧になり、そのコントロールが効かなくなっていくのです。
中には性格が変容し「昔と違う」と思える方もいますが、もしかしたらそれは「誰も知らない潜在的なその人」が出てきているだけでは?と思うことがあります。というかそうだと思います。

認知症の後期ともなれば私の祖母のようになることも珍しくありませんが、不思議なことにどれだけ理解力が落ちてもその人本来の「人間性」は色濃く残るものです。

少しではありますが、認知症のお話でした。
ここからが本題です。


「介護って素晴らしい仕事だよね。」と言っていただけますが、それが一番報われる瞬間をご存知ですか?(一部の施設やサービスの話です。)
それはその方が「幸せだったと思える生活を経て亡くなった瞬間」です。(私の介護サービスでは)

認知症が重度化した方からすれば「ケアをされること自体が嫌」ってことよくあるんですね。
勝手にあちこち移動させられて勝手に着替えさせられて勝手にデリケートな部分を触られる。
なぜなら本人にはそうされる理由がないから。
お腹が空いてもオムツにおしっこが出ても服がベタベタに汚れてもそれがわからない。
だから重度の認知症介護では相手に感謝をされるどころか恨まれることが割と多いんです。
もちろん全てのケアで恨まれるわけではないですが、施設での生活の中では割と多いかと思います。

そんな中、なぜケアを続けられるのか?
これは決して「仕事だから」という話ではありません。
それは認知症が重度化してもその人の人間性がそこにあるからです。
愛されるべき人間だからです。

認知症は重度化が進むにつれて「自立した生活」が難しくなりますが、それはあくまでも「行為としての自立」が難しくなるだけです。
認知症の人が介助を受けるのは、足を骨折した人が松葉杖を使って歩くのと同じ。
松葉杖を使って歩けるなら車椅子は使いませんよね?
過度に介助せず「その人にとって最大限の自立」できる範囲でケアをし、その人が一瞬でも「自分で生きている」という実感を得ることが大切です。

そして介護側はその「適度」をきちんと見極めて、心身の両面から支えるのです。

今回、私の祖母は下顎呼吸が出てから20分ほどで亡くなりました。
その間に愛を持ってケアに当たったスタッフが集まり、孫である私に手を握られスタッフ全員に声をかけられながら息を引き取ったのです。
ここに至るまでもウチのスタッフたちは「責任者の家族だから」ではなく「あのおばあちゃんが好きだから」と愛情を持って接し、それぞれが私の祖母のことを想ってくれていました。

こんなに嬉しいことがあるでしょうか?
私の好きな祖母が死んだ瞬間なのに、そこには悲しみ以上の喜びがあるんです。
「認知症になったことで素晴らしい人たちに愛され看取られ旅立った」
スタッフの皆さん、改めて本当にありがとうございました。
ばあちゃんの人生は確実に幸せでした。
それは旅立ちの瞬間に確信とも言えるほど強く感じました。

これは介護を提供している過程ではおそらくわかりません。
送り届けたその瞬間にわかるのです。

最後にもう一度だけ言います。
「認知症だった俺のばあちゃんは幸せでした。」

長くなりましたがご拝読ありがとうございました。
急ぎで書いたので取り止めのない内容ですが、今回に関しては共感できた方のスキをいただけると嬉しいです。
否定も肯定も、コメント気軽にください。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?