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ミスコン廃止の流れを見て感じたこと

私事ではあるが大学に入学し社会学と心理学を専攻している身として様々な社会問題に以前より敏感になってきている。社会学(笑)の授業を受けているとTwitterでなぜ社会学があれほど馬鹿にされているのかがよくわかる気がする。

そんな社会学に対する私の感情はさておいて、ミスコン廃止の風潮に関して私が感じたことを記していこうと思う。まだ大した文章の書き方も知らない未熟者の書く駄文であるが、どうか最後まで読んでいただければと思う。

今回の出来事の発端は同志社女子大が今年度のミスコンの開催を取りやめるという発表をTwitterで行ったことである。その内容は以下のとおりである。

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学生の総意という形でミスコンを開催しないという決定ならあってもいいと思う。今回私が違和感を感じたポイントは開催中止の理由を”多様性という観点からミスコンを開催しなくてもいいのではないか”としているところだ。

多様性の定義については私もさほど勉強しているわけではないため誤認識があるかもしれない。しかし、私は多様性のためにミスコンがあっても良いのではないかと思うのだ。多様性のために何かが抑圧されていくのは多様性の在り方として正しいのだろうかと疑問を感じる。それは多様性という単語を都合よく使っているだけではないだろうか。

ミスコン反対派の方々は容姿による序列化をかなり嫌っているように感じるが、なぜそこまで容姿による序列化に反対するのだろうか。世の中には様々な序列化が存在し、ほとんどの人は何らかの序列化により地位や立場を得ているはずだ。それなのに容姿の序列化だけを許すことができないのは何故なのだろう。

先日まで行われていた東京オリンピックは運動能力による序列化の頂点を争うコンテストである。アスリートの活躍には感動の声を上げるのに、容姿の美しさを競うミスコンのようなものには反対する。これは何故なのか。

現代社会では学歴が年収に直結する知識社会であり、受験等の学力の序列化において上位に位置する者はある程度の人生を保証される。受験という学力コンテストによる序列化には疑いを持たないのに、容姿の序列化は許せないのは何故なのだろうか。

私は学力による序列化も、運動能力による序列化も、容姿による序列化などあらゆる序列化が存在していてよいと考えている。それぞれが持つ特徴や能力値には違いがある。時に努力ではひっくり返しようのない差が生まれることも事実だ。そのような社会において何か秀でたものを持つ人がそれを用いて活躍できる社会があることは悪いことではないはずだ。

何らかの特徴を持つ人たちがそれぞれの特徴を活かして輝ける社会こそが多様性に満ちた社会の形なのではないだろうか。

皆さんのご感想やご意見などございましたら是非コメントに残していっていただければと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。

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