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義務教育期間で最も学んだことは「恋愛」マーケティング

自分は義務教育を受ける場(小学・中学)を、

恋愛をする場所

と捉えていました。

話はかれこれ数十年前に遡ります。
小学1年、入学したばかりの私は、
すぐに一人の女の子を好きになりました。
その子は、入学間もない頃に行われた自己紹介タイムの中で、
「絵を描くことが好き」
と自分の一番好きなことを皆に教えてくれました。

私はその瞬間その子を好きになりました。

他の子で、絵を描くことが好きと言った女の子がいたかどうかは覚えていません。
しかし、その子は「可愛かった」のです。
そこにさらに「絵を描くのが好き」という、
本人のおっとりとした性格や、彼女の周りにありそうな優しい世界観を想像させてくれる要素が付加されたような気が(勝手に)して、一気に心が傾いたのです。
この子に好かれたいな、と思いました。

まだ6歳でしたが、
確実に恋であったと思います。
幸い、なのか、
自分も小学校入学と同時に「絵画教室」に通い始めていましたし、
元々絵を描くことが大好きでしたので、
もしかしたら、自分の画力を吸引力にその子の気を引くことが出来るかも、
と思いました。

そして、
自分の図画工作の授業への取り組み姿勢は完全に変わりました。
とにかく、
好きなあの子に一目置かれたい、その一心で必死に真剣に絵を描きました。
雨の日、
外で遊べない休み時間には、
自由帳のようなモノや大きめの画用紙などに様々な絵を描きました。
漫画のキャラクターであったり、
ちょっとしたデッサンのようなものまで。
絵画教室で習った、学校では教えてくれないちょっとしたテクニック(陰影のようなもの)まで駆使した、少し完成度の高いものを常に意識しました。

その子が、どちらかと言えば、
ファンシー?寄りの可愛らしい絵を描いていることをリサーチしていましたので、
自分の絵にも、
その子が気に入りそうなファンシーな要素なんかも敢えて入れたりもしました。
それまでは、自分の描きたいものだけを描く、
自分のためだけの自分本位だった絵描きが、
「他者(マーケット)=好きな子」を意識した絵描きに変わった瞬間でもありました。

そして、その子をちらりと見れば、
やはりその子も絵を描いていました。

そんな休み時間に、
机にかじりついて画用紙に絵を描く自分の姿を見たクラスメイトが、
わらわらと周りに集まってくるまで、そんなに時間はかかりませんでした。

「上手い」
「すごい」

と言う言葉も周りの子供達から容易に引き出すことができました。

もちろん、これが狙いでした。

恋するその子が「大切にしていること=絵を描くこと」で注目を浴びる、
自分以外の人間が気にならない訳がない、と思っていました。

なぜなら、
絵を描くことが大好きな自分が、
やはり同じく絵を描くことが好きな「可愛い子」のことが気にならない訳がないのですから、その読みはあながち間違っていなかったと思います。
よって、当時の自分は確信的にその子の自分への意識を感じていました。

絵を描くことが好き
と言っている女の子には「絵」を以てアプローチすべきだ、
と幼心に考えての行動だったのです。

そして、
結論から言えば、自分なりのマーケティングおよび、
それに即した行動の甲斐あって、この恋は上手くいきました。
しばらく後、
その子の好きな人が「自分」である、と言う話を、
その子の一番の友人から聞かされました。

もちろん、
なんせ小学1年生です。
それを以て具体的に何かが始まるわけではありませんでした。
ただ、その子が自分を好きでいてくれている(筈)と言う感覚は、
自分に自信を与えてくれましたし、
絵を描くことはもちろん、日々何をするのも楽しくて仕方ありませんでした。
もしかしたら、
否、間違いなく、
所詮は6歳児の感覚です。
その子の云う好きも何も、
その感情の振幅には精神的な成長によっても個人差もありますし、
そもそも恋心と呼ぶにはまだまだ可愛らしいシロモノであったに違いありません。

当然ですが、
まさか自分がこれを心の糧にその後の人生を生きた、と言う話ではありません。
自分はその後しばらくして、違う人を「好き」になってしまいましたし、
その子も次の日にはドッチボールの上手い鈴木くんに惹かれていたかも知れません。

大事なことは、
「恋愛」を成就させるための相応の対応力の向上や魅力作りは幼くても学べた、
と言うことと、
ほぼ無条件で多くの異性と同じコミニュティに投げ込まれる義務教育期間にこそ、
それを学ぶ素材に溢れている、と言うことの認識です。
今更、自分なんぞが言うことでは無いと思いますが、
つまり、そう言うことです。

学校社会にも、大人社会の縮図たる、様々な外的要素が存在します。
自分の友達や先輩、先生、保護者、異性と言う存在そのもの、
ルールと暗黙の了解の差異、
様々なジレンマや矛盾、
学力、運動能力、ルックスに端を発する、
権力やヒエラルキー、
リア充と陰キャ、
そんな、多くの自分でコントロール出来ること、出来ないこと、
全てがない交ぜになっている、
しかし、一般的には生活全般に於ける自己責任の幅が非常に小さく、
(超絶苦学生は除きます、すみません)
お金という概念がまだ挟まれない、
この学校社会だからこそ、
学べる恋愛がある、と思うのです。

自分はこの義務教育期間にたくさんの恋愛(片思い多く含む)
をしてきて、
そして社会に出て、その後もそれなりに恋愛をしてきましたけど、

今、改めて強く思います。
義務教育期間中の恋愛、半端なかったな・・・と。

いわゆる、恋愛に於けるネクストステージたる肉体的な接触こそ皆無に等しかったわけですが、

気付きや学びの量、
ワクワクの質、

大人の恋愛とどっちが良い、悪いではなく、
義務教育恋愛は上記どっちも半端なかったと思います。

だからです。
今、学校がつまらない、行きたく無い、
と言っている子供達、理由はそれぞれですから、
一概に何かを訴えることはしませんが、

少なくとも心身ともに健康である限り恋愛をどんどんして欲しいですし、
それによって成長出来ることの最大項目は、
他ならぬ「マーケティング」力だと思います。

別に今の学校教育の現場に何かを申したい気持ちもサラサラありませんが、
少なくとも、
今、大人になった我々が、
あの頃経験した、
恋愛の原風景みたいなものから学ぶべきことはあるのでは無いか、と思います。

おしまい


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