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note×standfm ある画室にて/画室 三拍子ワルツさんコラボ配信/主客合一のその先へ☕️



皆様、如何お過ごしでしょうか?

10月に入り秋らしい日々が続いておりますが、読書の秋本番、皆様はどんな
書籍をお手に取っておりますでしょうか?

最近は中原中也、リルケ、キーツと詩集を開いておりますが、先日、standfm長田弘さんの「世界はうつくしいと」という詩集について配信をしておりました。


■第1089回 世界はうつくしいと/長田弘



──── 美しい
ことを素直に美しいと言葉を紡ぐことの大切さを思う一方で、
それを阻害する自分自身の心の弱さや同質性均一を求める引力の存在に
気付きます。

ルーマニアの社会心理学者のセルジュ・モスコヴィッシ同質性が高いからこそ差別格差が生まれるという鋭い洞察を提出しております。
「みんなとおなじ」は安心感を醸成できるかも知れませんが、一方でちょっとした不和でも埋めることが出来ない程の溝がそこに立ち現れてしまうと考えますと、引力に抗えないのか?と考えたくもなります。


セルジュ・モスコヴィッシ/Wikipedia



今日も私は何とか引力に抗いながら・・・詩人の神秘さに魅了され、そして美しい風景や描写に出会える様に円環を持続的に運動を続けて参りたいと思います。







               * * *



さて・・・
前置きはこのあたりにして・・・先月は、standfm内でのコラボ収録やLiveもあり、刺激的な日々を過ごしておりました。
今回は先日、二週にわたって配信をして下さいましたが、画室・三拍子のワルツさんとのコラボ収録について・・・文字起こし+αで書いて参りたいと思います。


今回のコラボの相手、画室・三拍子ワルツさんの番組はこちら👇


──── 今回は事前にお題を頂いておりまして・・・西田哲学という巨大な思想について手元にある書籍を読みながら何を思うのか?をお話させて頂きました。

お話を頂いた時にとてもタイムリーだな・・・と思いました。

これをお読みのまれびとの皆様の中には報道で西田幾多郎の幻の本が見つかるという報道をご存知の方も居られるでしょうか!?

その貴重な本とは・・・「西田氏実在論及倫理学」というものだそうです。


▼朝日新聞のリンクでございます👇


西田が旧制第四高等学校で教壇に立っていた時代に書いた講義ノートや、学術雑誌に掲載された論文がもとになったとされるいる様でございますが。
ワルツさんからお話を頂いた時に、今まで難解な西田哲学を敬遠してきたわけですが、何かの啓示だと思い書籍を再び開く事に致しました。

西田幾多郎/Wikipedia



長尺ではございますが、宜しければ・・・


【前編】画室・三拍子「子育てパパさん 御来訪」


【後編】画室・三拍子「子育てパパさん 御来訪」





────脚下照顧の存在

西田幾多郎の巨大な思想の肌触りを感じたくて「善の研究」「思索と体験」そして、西田の生涯の友でもある鈴木大拙「禅とは何か」「東洋的な見方」「日本的霊性」マイスター・エックハルト説教集ウィリアム・ジェイムズ「純粋経験の哲学」を読める限り読んでみました。

・善の研究


・禅とは何か


鈴木大拙/Wikipedia




他にもアンリ・ベルクソンの書籍も以前から読んでいた「物質と記憶」「創造的進化」「時間と自由」「哲学的直観」あたりも読んでみました。

アンリ・ベルクソン/Wikipedia



また、調べところ西田の肉声も残っておりましたので、動画も視聴してみました。西田幾多郎鈴木大拙の思想を往復運動する中で聞こえてきた
かすかな「音」。

背後の流れに耳をそばだてた時にサラサラ、シトシトと聞こえる「音」・・・それは「脚下照顧」という音でございました。


  「脚下を照顧せよ」と・・・ほとんど「リズム」として私の感覚器官が受け止めましたが、脚下とは自分の足下のことでございます。
そして・・・自分の足下を顧みるとが・・・自己を振り返り、本来の自己との邂逅へと通じるだと直覚を致しました。


離見の見とは言いますが、舞台で必死に配役を演じている自分を観客席からぼんやりと見てみる。

自分が何に喜びを感じ、何に恐怖するのか?を改めて考えるきっかけとなる対談でございました。






────  監獄の誕生

西田が善の研究を書いたのは1911年、彼が46歳の時だったそうですが、発刊する少し前に次女と五女を相次いで失くしているという、大きな喪失体験をしているようです。

我が家にも二人娘がおりますので、その体験・・・今まで無邪気に遊んでいた自分の子供が、骨となり、骨壷に入るというのは如何なることであるか・・・と深い悲しみの底を歩いていたことと思います。

そんな悲しみの底を彷徨う中で生への絶対肯定をより強めて行った様に感じることが
できます。善の研究は、生きずらさを感じている方や、自らの現存在に抑圧を感じる方は、是非、お手に取って頂きたいと思います。

どこまでも無限分岐する世界にあって、現代人は形而下に囚われすぎて居るように思います。自らで監獄を誕生させながら、自らで監獄の囚人と化して居るように思います。

パノプティコン/Wikipedia  


形而下
とそして、形而上に想いを馳せながら、具体と抽象を行き来することで巡ってみる。即物的に判断しがちな状況を、一旦、立ち止まって考えてみたり、呼吸を整えることで世界がこれまで以上に、美しく感じられる様に思います。


神聖ローマ帝国のキリスト教神学者マイスター・エックハルトが興味深いことを語っております。

「人は神を意識した瞬間には退行が始まる」


マイスター・エックハルト


神そのものを見る、人間は自らと一なるものとの双方の一致点を求め
ながら、彷徨い、そして自ら一つなるものになって行く様に思います。
それは自我が芽生える以前の未分化の状態で唯だ、それを観ることの様に
思えて参ります。

そして、エックハルトはこうも語っておりますが、「神を知るとは被造物である己を知ることであり、旅立つことである」と。
旅立つことで今度は帰還する。


ロード・オブ・ザ・リング桃太郎もそうですが、戻ってこないと物語は
成立しないことでしょうし、魂が神を知る旅立ちは帰還と共に横たわっている様に思います。旅立ちとそして、帰還するという円環運動とその流れ
そのものが「生」であり「死」である様に思います。


────  主客以前の意識

主客分化以前の純粋意識・・・
日常ではなかなか出会わない言葉です。

諸説ございますが二歳半くらいから自我<セルフ>が芽生えるとも言われており、我が家の娘たちそうであったのか・・・などと想像をしております。
段々、私/我となって自我が形成されていくわけですが、この<主><客>が分化する前の未分化な状態まで肯定的な退行をすることで言語を超越した超越的な何かに合一し、本質というものに近づける様に思えて参ります。

古代ギリシャの哲人、新プラトン主義の創始者、プロティノスはすべての存在の始原となる「一者」について語っております。

一者という無限の存在統合者は何か・・・善美の源泉であり、知性から精神が、精神から自然が生じるという流れだと思われます。

プロティノス/Wikipedia


人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができるという思想が私はとても好きですが、一者のようなものを自分では無い
他者との相対関係、或いは、自分では無い他者では無い自分から観照することで、自分だと思い込んでいた存在は他者との相互作用相互浸透で成立するこの瞬間に立ち現れる脈流の様な流れなのだと今回の対談を通して、
感じることが出来ました。





────  晩年の円熟した「場」の思想

西田の晩年の思想は・・・場所の思想「場」の研究だったとされておりますが、絶対無、これは「無」としか表すことができない、「無」の場所に包摂された、それは自然世界との相互作用相互浸透的な直観として自身の哲学を洗練して行く行程の様だと漠として感じます。

そして、円熟した哲学の境地として・・・


「絶対矛盾的自己同一」という究極の思想に辿り着く訳でございます。



自己同一自己矛盾とを、それも絶対的な形で、いっしょくたにし、合わせ呑んでしまったということで私は理解致しました。

自己と世界が同根同一であるわけですが、矛盾しながらも同一であるという、この概念を初めて聴いた方にはなかなか理解し難い概念だとは思いました。そして・・・改めて書籍を読み返す中で、一即多 多即一を想起致しました。

自分と世界の完全一致しているときには、恐らく、「無我の境地」に至るのだと思いました。



これは読書体験でも時々感じますが・・・自分が書籍なのか?書籍が自分なのか?もはやそんなことには執着もせず、読書体験をなしつつある中で既に書籍に成っていることの様に思います。ゲシュタルト崩壊し自我が薄まり、神の恩寵を受けやすい高次の次元へと上昇すり。

ふっと、アンリ・マティスのダンスの絵画を想起させらますが、媒介回転運動の只中にこそ、人間の人間性が降り立つ様に思います。

アンリ・マティス/ダンス/Wikipedia参照



──── 矛盾を超えて

が同時にある地点を目掛けて重なる。
鈴木大拙の語るは即非を想起させられます。

これは・・・私の大いなる誤読で恐縮ですが、全ては整っているにも関わらず、人間自らで自我を生成することで、一つを分割分類し、分析的に言語や数字で境界線を引くことで世界を理解し記述した様に勘違いをしている様に思います。

世界は既に整っており、過度な自我の拡張は更に人間の自我を拡張し、
人々の心を分割細切れにすることで人間のを枯らす様な気がしております。

今回は画家でいらっしゃいます、ワルツさんと二時間を超える対談でございましたが、対談中に想起させられたのが・・・

八不の思想でございます。
不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来の八つの否定的な表


生もなく
死もなく
始めもなく
終わりもない。

自ら一なるものはなく
他と別であるものはない。

初めて生起するものはなく、
存在しなくなるものもない・・・・


差異の体系によって分別して世界を分析的に把握する分別智はもちろん、
人間が形而下の世界をしなやかに弾力性を持って生き抜くためには重要ですが・・・

一方で赤ちゃんが、どろどろの混沌とした世界から・・・
言語を媒介せずに直観的に把握する無分別智というものに至るには
悟り開くこと、或いは凡夫はせめて解脱思考を回すことになるのかも
知れません。




「私」と「あなた」「わたしたち」と「あなたたち」
他者化して境界線を勝手に設けて、自らでつくあげた世界の差異に、自らで苦しむというのは、そろそろ愚かだからやめてしまうような社会にならないだろうか?

なんて漠然と自分の内側で発酵をさせている状況でございます。
区別するのを一旦やめて、判断を停止してみて・・・純粋な意識の彼方に。

そして世界を再構築できないだろうかと?
老子の思想「無為自然」へと回帰出来ればと思います。


自分の生きることと死ぬことへの絶対的な肯定のためにも引き続き向き合いたいお題でございます。

絶対的な生と死を同時に肯定しつつ、人間の目的は創造にある、作ることだというところまで誘われることになりました。

人間は合理的でもあり且つ工作的でもあり、人間の現存在は「場」を創造することなんだろうと今回の対談で大いなる誤読をさせて頂きました。




                                                           * * *



──── ここからは毎度の宣伝でございます。

読書術研究家の日々の活動👇

【stand.fm 子育て×読書体験ラジオ】
→ 2020年4月5日~配信をスタートしており本日(2022/10/8時点)で1,104本の音声コンテンツを配信しております。番組開始から丸2年を経過し、現在は29ヶ月ほど継続して参りました。
リアルの場ではお会い出来ない方ともゆるい弱い繋がりが持てて、毎日刺激的な日々を過ごしております💡

【POTOFU】
POTOFUも活動URLをまとめました。
SNSの活動はTwitter、Instagram、Gravityも活用しております。


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読書全般にご興味ございましたら、是非、お立ち寄り下さい。またのご来店、心よりお待ちしております。有難うございました~

どんな「書籍」を読んでいるか言ってみたまえ、君がどんな人か
言い当ててみせよう。


ブリア=サヴァラン/Wikipedia


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