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物語は続くことができるー読書感想『街とその不確かな壁』(村上春樹さん)

村上春樹さんの最新長編『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年4月10日初版発行)が胸に深く残りました。本書は、「村上春樹が描いたコロナ禍」として読めると感じました。そして、本書は希望の書である。そう断言できます。「物語は続くことができる」。そんなメッセージを内包した希望の物語です。


本書は「あとがき」、そして発売日と同時に複数の新聞紙面に掲載されたインタビューで著者本人が明言している通り、40年前の1980年に書かれた『街と、その不確かな壁』という習作を「リライト」した作品です。本書のタイトルは「、」があるかないかの差になっていて、発売前から関連性があるのではないかと話題を呼んでいました。

ただ、単なる書き直しではない。本書は『街と、その不確かな壁』について「生煮え」(本書の657ページの著者談)だったという反省を元に作り直し、さらにその続きを紡いだものになります。

原型となっている『街と、その不確かな壁』はその不完全さから書籍には収録されておらず、私は正確な内容は読めていません。しかし、村上作品の熱心な批評で知られる故・加藤典洋さんは『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書、2015年)で次のように説明されているのは覚えています。

恋人は精神的な病いに苦しみ、自殺している。死ぬ前、彼女はいった、本当の自分はここにいるのではない。「高い壁に囲まれ」た内部の世界に閉じ込められていると。彼は尋ねる。「そこに行けば本当の君に会えるのかい?」
そして、彼女が死んだあと、「僕」はそこに向かう。

『村上春樹は、むずかしい』p96

本書は、ここに描かれた設定だけと比べても決定的に異なる点がいくつもある。それだけ、本書は『街と、その不確かな壁』とは別作品だと言えます。

加藤さんは、『街と、その不確かな壁』はベストセラーになった『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』「前史」(『村上春樹は、むずかしい』p96)になったと指摘。『世界の〜』において、内閉世界に飛び込み、そこに住む小さな人々に寄り添うことがテーマになったと解説します。

そう考えると、『街と、その不確かな壁』は村上作品の系譜としてすでに『世界の〜』に取り込まれていたわけですが、「生煮え」の作品を直視し、煮込み直して完全な料理に変える試みはされてこなかった。40年の時を超えて、著者はその苦行、難題に取り組んだわけです。

そして、長い時を経て、「高い壁に囲まれた街」は心を病んだ人の内的世界とは「異なる意味」が付与される。それがコロナ禍だと感じました。

著者は「あとがき」で、本書をコロナ流行後、ほとんど家から出ない形で書き綴ったと明かしています。

さらに、本書の至る所で、直接的にも間接的にも、「高い壁」と「疫病」の関係について示唆している。「高い壁」は疫病が蔓延する世界から自己を防衛するため、いわば排除の論理で築かれたものだという意味が新たに付与されている。

たとえば、「高い壁の街」について主人公は、犬や猫、虫の姿を全く見かけないと指摘する。その理由についてこう推測します。

必要なかったからだ、としか私には言えない。そう、あの街には必要のないものは存在しないのだ。必要のあるものしか、なくてはなならないものしか、存在することは許されない。

『街とその不確かな壁』p401

必要なものしか存在できない街。それは、緊急事態宣言が出た2020年春に叫ばれた「不要不急」という言葉を連想させます。排除の論理は内と外を隔てるだけではなく、内側に生きる人々の営みを次々と引き裂いていき、無味乾燥にしていくことを思い起こします。

その上で、本書はかつてのように「壁から出るのか、出ないのか」「壁はあるべきか、あらざるべきか」という二項対立的な構図を超えた問題提起を試みていると感じます。

それはまず、『街と、その不確かな壁』を改作しただけにとどまらず、その「続き」を描いた点に感じられる。「高い壁」の意味をコロナからの防疫のメタファーに置き換えるだけなら、「続き」を書く必要はない。

しかし、著者は続きを書いた。

さらに、その続きにおいては、この「高い壁の街」にどうしても行きたいと願う登場人物が現れる(誰なのかはもちろんここには書けない)。それは、「高い壁の街」が邪悪で望ましくないものというだけではなく、ある一定の人には必要とされるという、アンビバレンスを物語ります。

本書には「高い壁の街」を巡る直接的な希望も描かれていますが、それが一体何なのかをここに書き記すことは、未読の方の読書体験を削ぐのではないかと感じるので、控えます。

しかし強調したいのは、著者がある種失敗作とみなして、自著に収録しなかった作品をリライトし、その続きを構想し、このような新たな長編として世に送り出したこと、そのこと自体が「希望」と捉えられないか、ということです。

私たちはコロナ禍で多くの時間や経験の機会を失った。いや、それ以上に大切な人や、自身の健康を損ねた人もいるでしょう。そうした失望を撒き散らした疫病の「続き」を、本書を通じて想像できる気がするのです。

あるいは、疫病に限らず、過去のつらい体験、トラウマ。そうしたものを「改変」し、続きを書けるということ。

物語は「続くことができる」というのが、本書の示した希望の姿なのだと思うのです。

著者が「あとがき」で記したこの文章を噛み締めます。

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの真髄ではあるまいか。

『街とその不確かな壁』p661

この真実というのは、「生きる意味」と置き換えてもいいと思います。コロナ禍のような、苦しい時代を生きる中で、生きる意味を失いそうにもなる。生きる意味はそうした「静止した絶望」の中で固定されるようにも思う。

でも、実際は「続き」がある。それを紡ぎ出すことができる。そうした「不断の移行」の中で、人生の意味は確実に変質していく。

それを本書に教えてもらいました。

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