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透明性のパラドックスー読書感想「トーキング・トゥ・ストレンジャーズ」(M・グラッドウェルさん)

人間関係には「透明性のパラドックス」がある。他人の内面は「見える」と思うのに、自分の内面は「簡単には理解されない」と思う。そのため人は人を誤解し、場合によっては破局を招く。マルコム・グラッドウェルさんの「トーキング・トゥ・ストレンジャーズ」は、コミュニケーション能力「以前」の問題を教えてくれました。「自分とは違う人」「分かり合えそうにない人」と付き合っていくために、私たちが知っておくべきことが本書には記されています。(濱野大道さん訳、光文社、2020年6月30日初版)


嘘つきっぽい嘘つきしか見破れない

マルコムさんは「透明性」を理解する例としてドラマ「フレンズ」を挙げる。男女の友人グループのドタバタは、たとえ音声をオフにしても大体のあらすじを追える。それは、各登場人物が悲しいときは悲しい表情、本当のことを話しているときは真実らしい表情で演じているからだ。他人と接するとき、私たちは「相手の態度が内面を映し出している」と信じている。つまり人の心は一定程度、透明だと思うことが、コミュニケーションの前提になっている。

しかし、実際は人は嘘をつく。それは、「自分の内面は全て態度に出るわけではない。私はそんな単純ではない」と信じているからだ。この結果生じること。それは、相手の「不誠実な態度」を見て「正直な人」を嘘つきと決めつけるか、「誠実な態度」をとる「嘘つき」を見逃すことだ。

この「嘘つき」なのに「誠実な態度」をとるパターンに人はめっぽう弱い。本書では「不一致の人」と呼ばれる。この問題を研究するティム・レバイン氏の調査結果によれば、不一致の人を見抜けないのは経験豊富な法執行官でも同様だ。

(中略)典型的な態度で話す”一致”の発信者については、ベテラン尋問者たちの答えは完璧だった。同じ映像を見た一般の判定者の場合、正答率は七〇〜七五パーセントほど。しかし経験豊富な専門家たちの全員が、一致の発信者の全員を見分けることができた。ところが”不一致”の発信者の映像を見たときの彼らの成績は、目も当てられないほどひどいものだった。正答率はわずか二〇パーセントで、そのうち「誠実に振る舞う嘘つき」に対する正答率は十四パーセントだった。(p222-223)

プロですら「嘘つきらしい嘘つき」しか見抜くことができない。この事実は他人と接する時に大きな教訓になるはずだ。

つまり私たちの脳は「らしくない人」に対しては判断力を失う。透明だと思い込んでいる人間性にねじれを感じたとき、それをうまく処理できない。だから誤解してしまう。攻撃してしまう。このクセを自覚していれば逆に、自分が攻撃的になった時に「もしかしたら目の前の人は、らしくない人なんじゃないか?」と立ち止まることができるように思う。

言い方を変えると、私たちは他人に「らしさ」を求めているんだろう。優しそうな人が優しい時、その透明で真っ直ぐな理解の経路に快感を覚えるのだろう。まったくの思いつきで言えば、いま、この国のリーダーに対して不支持率が高まっているのは、彼が「リーダーらしいリーダー」ではなく「参謀らしいのにリーダー」だからというのも一因なのではないかという気がしてきた。


人のデフォルトは信用

私たちはなぜ人に「らしさ」を求めるのだろう。なぜ透明性を信じたいんだろう。そのヒントは少しページを戻すと見つかる。人のデフォルトは信用だからだ。

マルコムさんは豊富な例でこのことを立証する。たとえば、CIAの中にいるキューバ側のスパイを見抜けないのはなぜか。英国チャーチル首相の前のチェンバレン首相が、アドルフ・ヒトラーに直接会ったことを理由に彼の人間性を信じてしまったのはなぜか。理由は共通している。信じようとしたから信じたのだった。

最も印象深いのは、女性体操選手のスポーツドクターが、実は施術中に性犯罪を繰り返していたのに、長年訴追されなかったケース。この時、被害者の1人は「彼はそんなことをしていない」と擁護した。しかし他にも被害の訴えが相次ぎ、証拠が積み重なることでついに自分の被害を自覚する。そして証言台でこう語ったのだった。

 ラリー、わたしは今週、非常にむずかしい選択をしなくてはいけませんでした。あなたの味方をしつづけるか、女の子たちの味方をするかを選ばなくてはいけなかったんです。ラリー、わたしは彼女たちを選びます。彼女たちを愛し、守ることを選びます。あなたを心配するのも、サポートするのもやめることにします。あなたの顔をまっすぐ見て、あなたがわたしたちを傷つけ、わたしを傷つけたと告げることを選びます……今日、あなたがわたしの眼を見て、理解してくれることを望みます。限界が来るまでわたしはあなたを信じつづけた、と、(p158-159)

マルコムさんはこう指摘する。

 限界が来るまでわたしはあなたを信じつづけた。デフォルトの信用にたいするこれほど完璧な説明があるだろうか?(159)

全面的に同意する。これほど胸をえぐられる言葉はない。人は限界が来るまで相手を信じつづける。たとえ尊厳を奪う暴力に遭っても。


では人を疑えばいいのか?

違う。マルコムさんは人を疑うためにこの本を書いたのではなく、人と向き合うために書いている。では、「透明性のパラドックス」と「デフォルトの信用」をどう生かしていけばいいのか。それは「限界を受け入れる」ということだ。

マルコムさんのこの文章が胸に残る。

 われわれの社会のなかにいる見知らぬ他人について知りたいことがなんであれ、それは頑丈なものではない。アマンダ・ノックス、ジェリー・サンダスキー、ハリド・シェイク・モハメドについての”真実”は、光り輝く硬い何かではない。しっかり掘り下げて判断すれば、かならず見つかるようなものではない。見知らぬ他人について私たちが知りたいことは、脆くて壊れやすい。不注意にどすんどすんと歩いていけば、踏みつけられてぐしゃぐしゃになってしまう。ここから、ふたつ目の警告を導きだすことができるーー見知らぬ他人を理解するための探求には限界がある、と私たちは受け容れなくてはいけない。(p313)

人の内面に、たった一つの真実はない。私が複雑で繊細な内面を持つように、相手心もも踏みつければ壊れてしまう。こう書くと陳腐にも思えてしまう「限界」こそ、もう一度肝に銘じる必要がある。他人を理解することには限界がある。だからこそ分かり合えないのではなく、それでも分かり合うためには相当の辛抱と慎重さが必要になる。

これを自覚することは、どんどん難しくなっている。たとえば、先日の米議会占拠事件を起こした市民の胸中はなかなか想像できない。「異常」だと切ってしまいたくなる。これは反面は本当で、いくら掘り下げても真実はないだろう。でも「限界」までの「不完全な理解」はできるのに、心がそれを拒否してしまっている部分がある。

先日読んだ、「ネガティブ・ケイパビリティ」(帚木蓬生さん、朝日選書)が思い出される。大切なのは「限界」の前に立ち止まることなんだろう。相手の前にいれば、不透明な靄は少しずつ見通しが良くなり、ちょうどよく信じてちょうどよく疑うこともできるようになる。はずだ。


次におすすめする本は

宮野真生子さんと磯野真穂さんの「急に具合が悪くなる」(晶文社)です。がんを患って死が忍び寄りつつある哲学者・宮野さんと、人類学者磯野さんの往復書簡。お互いの思想を高濃度でぶつけ合う様子は、「分かり合う」ことの難しさと豊かさを同時に感じさせてくれると思います。

「ネガティブ・ケイパビリティ」の詳しい感想はこちらです。




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