縮退に抗えー読書感想「現代経済学の直観的方法」(長沼伸一郎さん)
資本主義は「縮退」を避けられず、だから破滅を免れない。抗うためには「面倒なこと」に向き合わなくちゃ。長沼伸一郎さんの「現代経済学の直観的方法」を読んで、そんなメッセージを受け取りました。経済学の本なのだけど、冒険小説のように胸が熱くなる。ドラマがあり、分かりやすく、学びが深い。資本主義の始まりから行く末まで、長距離スコープで見通せるようになります。(講談社、2020年4月8日初版)
「なぜ?」に答えられるようになる
この感想では9章あるうちの最終章「資本主義の将来はどこへ向かうのか」について書いていく。そこが一番スペクタルで、読む手が止まらないほど感動したからだ。でも本当は、最初から順に紹介しまくりたい。それほど面白い。
なぜなら、本書を読むことで経済における様々な「なぜ?」に答えられるようになるからだ。言い方を変えれば、長沼さんは経済学の素人が持つ疑問を出発点に、経済学的現象を解き明かしてくれる。たとえば以下のような問い。
Qなぜ経済は成長しなければいけないのか?
Q近代資本主義を拡大させた要因は何か?
Qなぜ農業は工業・サービス業に比べて弱い立場にあるのか?
Qなぜ共産主義は社会に浸透しにくいのか?
Qなぜ発展したはずの先進国内で経済格差が拡大しているのか?
長沼さんはこうした問いを考えるために基本的に一つのキーワードを示してくれる。シンプルで力強い。たとえば最初と二番目のクエスチョンは「鉄道」、農業については「機動力」、共産主義の障害は「外交ゲーム」、最後は「アメーバ」という言葉を使って答えられる。しかもどの言葉も決して専門的ではない。
答えられるようになる快感がこれほど格別だとは思わなかった。経済学に対して「楽しい」という感情を持てる。もちろんすぐに別の専門書を取るわけではないのだけど、少なくとも苦手意識が薄れるのは本当にありがたい。
希少性を燃やして富を生む
最終章は資本主義の未来はどうなっていくのかを考える。一言で言えば、破局が避けられない。原因は「縮退」だ。
縮退とは、強者だけが生き残ることを指す。メダカ、タニシ、ゲンゴロウ、藻、いろんな生物が存在する池をイメージしてみる。そこに巨大魚と強力な水草を投入すると、最終的にその二種類しか残らない。すると巨大魚が水草を食べて、その排泄物で水草が育つという循環が完成する。経済に置き換えると、中小事業者が駆逐され、大企業と巨大金融機関だけがいる世界になる。
長沼さんはここで「希少性」というキーワードを持ってくる。希少性の観点から見れば、縮退する前の状態の方が希少なのだ、と。
これが悪い状態であることは一応は常識でもわかるが、もっと論理的にはその良し悪しの根本的な理屈はどう考えればよいのだろうか。その際にはこの話の本質が「偶然そういう生態系がうまく成立することが、どれほど稀で難しいことなのか」ということに注目すれば良い。(p376)
要するにこの場合、問題の本質は「劣化した状態では注意深くセットすべき相互作用の個数が減っている」ということで、その際には、もし多数の細い流れの矢印が1本の太い流れの矢印に統合されて消失しても、合計流量が同じなら物事は劣化した状態で一応の安定状態を作ってしまうのである。(p378)
本来であれば生態系は様々な小さな存在の間で矢印(エネルギーの交換)が行われ、それをバランスするためには無数の調整が必要になる。それが実現した状態は希少なのだ。だから縮退して強者だけが生き残った状態は、希少性の観点からすれば「劣化」した状態だと言える。
長沼さんの議論がさらに面白くなるのはここからだ。
そしてここで現実の社会を眺めると一つ注目すべきことがある。それは縮退が進行して希少性の低い状態に移行する過程で、しばし金銭的な富が引き出されているということである。(379)
縮退し、希少性の低い状態に移行する過程で富が引き出されている。「大企業がどんどん巨大化して儲けを増やしている」現象を「希少性」を軸に見直すと、とたんに面白くなる。
これは、石炭・石油を燃やしてエレルギーを作ることと同じだと長沼さんは言う。数十年の時間で生み出された石炭・石油の方が希少性は高い。それによって出来た工業製品の方が希少性は低い。ここでもやはり富が発生する。
つまり社会の話に戻れば、私たちは縮退の過程で希少なものを燃やして富に変えている。それは地域社会の伝統や歴史、制度だ。
たとえば家事代行サービスは、お祖父さんやお祖母さんが近所でサポートすることが難しくなったし、共働きが浸透してきたからこそ普及し始めた。これは「家族で助け合う」という伝統をなくす代わりに、代行サービスという富を発生させていると捉えられる(当然ながら、だからといって家事サービスが悪いわけでは断じてない。あくまで現象面の話だ)。
微妙なバランスで成り立っていた社会が「縮退」する過程で富を取り出しているのが、現代資本主義の本質である。これは資源開発にあたって環境破壊が加速した現実と相似形。石油がいつかは枯渇するように、縮退する過程で社会そのものが成り立たなくなることは十分想定される。
面倒なことに力を注いでみる
では資本主義は絶望的なのか、と思ってしまうところで長沼さんは踏ん張る。9章後半では、縮退以外のありようについて模索している。この議論もエキサイトでハートフルだった。ここではそれを紹介するよりも、自分自身が感じたことを書き留めてみたいと思う。
社会・経済の縮退、その危険性については基本的に同意する。一方で、社会における希少性の高い伝統や制度には、資源とは異なる「負の価値」が内包されていることを無視できないと思う。
たとえば先ほどの家事代行サービスの例では、いくら今まで家族内の支え合いがあったと言っても、そこには同時に数多くのハラスメントが存在した。「女性が家事をすべき」という押し付け、同居する義家族による圧力などなど。それらを解放する縮退は、生きやすい世界につながる要素も多分に含んでいる。
だから可能であれば、「縮退か反縮退か」ではなく、無理やり負の価値を内包した伝統・制度を保持するのではなく、縮退した後に消滅した伝統・制度を再構築する方向で考えてみたい。
それはどういうことだろうと言えば、「面倒なことに力を注いでみる」ということだろうかと思う。あんまりまとまっていないが書いてみる。
たとえば家族で助け合う伝統でハラスメントが存在していたのは、成立過程で女性が虐げられていたからだと思う。本来であれば「妻」の権利を保障しなければいけないことを怠った。「妻だけは下に置いていい」かたちで伝統を固めてしまったからこそ歪つなんだと思う。
言い換えると、伝統的家族の成立過程でも縮退があった。「妻」が置き去りにされたということなんじゃないか。「妻」も調整対象に含めるのが「面倒」だったのでは。そこにちゃんと向き合っていれば、もう少しマシな伝統になるのはず。
だから、縮退しつつあるいま「面倒なこと」に目を向けたい。復古ではなく、あらゆる面倒を極力取り込んだ制度を想像してみる。そうしたときに、今より、そして昔より生きやすい「希少なもの」を生み出していける気がしている。
次におすすめする本は
斎藤幸平さん「人新生の『資本論』」(集英社新書)です。資本主義によって環境破壊、破滅的な気候変動は免れないということを丁寧に立証していて、問題意識は「直観的〜」とかなり似ています。最終的な代替案が、斎藤さんの場合は晩年のマルクス思想なのが違い。このパートも説得力がありました。