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エンパシーって?『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で多様性について考える



この本が話題になっていた頃。
大々的に話題になっていると知らずに書店で平積み状態の黄色い表紙を見つけた。
著者の名前には見覚えがあった。
「ブレイディみかこ」
私が大好きな水野敬也さんのブログで1度目にしたことがあった。
まだ著書発売前のブログ記事ということで、何年も前から執筆活動をなさっていたブレイディさんには大変失礼ながらも、この水野敬也さんのブログ記事は非常に印象に残っていたため、

この人、誰?の人やん

という今となっては自分の頭をひっぱたいてやりたいくらい著者に対して何も印象を持っていなかった。

そこから、我が家の土曜日朝の定番となっている「王様のブランチ」内で発表される週間ブックランキング内で大々的に取り上げられたり、
書店に行く機会があれば、高頻度で目にしていたが、なぜか頑なに読まなかった。

私には保守的で内向的な悪い癖がある。
ある本を周囲が熱狂的なまでに賞賛すればするほど、自分が読んだ時に「大したことなかったじゃん」という社会と自身のギャップが生まれてしまうんじゃないかという訳のわからない負の感情を抱いてしまう、というものである。
例えば、直木賞受賞作品なんてものは、ちょっと斜に構えて「どれどれ」くらいの程度で遠巻きに眺めてしまい読む機会を逃してしまうことが多い。

要するに、私は偏屈アラサー野郎なのだ。

なのだが。
その偏屈アラサー野郎に読書の機会を与えるきっかけがある。
それは、文庫本化だ。
私の中では文庫本化すれば、安心して読んでいられるという1つの指標がある。
そんな私の目の前に、昨年「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が文庫本化して現れた。

そう、読む時が来たのである。

これは買いだな!と目にも留まらぬ早さでレジに持って行った私は、自分がいかに読みたいと思っていたか、加えて自身の偏屈さに嫌気がさしたが、まぁこれが私である。

早速読んだブレイディさんの著書は、まぁ、端的に言って、クールだった。
痺れ上がった。
そして己の無知さに恥じた。

様々な賞を受賞されたブレイディさんの著書の感想なんて、ネット上にも山ほどあるわけなのだが、なんなら新潮社のホームページには池上彰さんの書評まで掲載されているわけなのだが、ここは私の記録の場である。
私の無知を晒しつつ、記しておこうと思う。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

ブレイディみかこ 著/2019.6月発行


まずはこの本の概略から、記載しておこうと思う。

優等生の「ぼく」が通う元・底辺中学は、毎日が事件の連続。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子とパンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。落涙必至の等身大ノンフィクション。

新潮社ホームページより https://www.shinchosha.co.jp/book/352681/

ここに出てくる”パンクな母ちゃん”がブレイディみかこさんのことである。
そして”ぼく”がブレイディさんの一人息子だ。
ブレイディさんは地元の高校を卒業後、音楽好きが高じて日本と英国を行き来する生活を送るうちに、英国人男性と結婚、英国のブライトンに住んでしまったって方だ。
今って高じてって言いかたするのだろうか。

ちなみに、ブレイディさんのプロフィールも掲載しておく。

1965(昭和40)年福岡生まれ。県立修猷館高校卒。音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返し、’96(平成8)年から英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業で数年間勤務したのち英国で保育士資格を取得、「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。2017年『子どもたちの階級闘争』で新潮ドキュメント賞を、’19年(令和元)年『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でYahoo!ニュース 本屋大賞2019年ノンフィクション本大賞を受賞。他の著書に『花の命はノー・フューチャー』『アナキズム・イン・ザ・UK』『ザ・レフト』『ヨーロッパ・コーリング』『いまモリッシーを聴くということ』『労働者階級の反乱』『ブレグジット狂騒曲』『女たちのテロル』『ワイルドサイドをほっつき歩け』『ブリークン・ブリテンに聞け』『女たちのポリティクス』などがある。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』著者プロフィールより

高じてって書いてあるわ。
いうよね。うん。

で、ブレイディさんの本を読んで、めちゃくちゃ衝撃だったのは、
「英国の中学生ってこんなに自分の意見をしっかり言えるのか!?」
ということだ。
自分の中学生時代なんて「学校だる」だの「〇〇が☆☆とチューした」だの「◇◇先生ってイケメン」だの、なんか、こう、、、THE・ジャパニーズ思春期だったように記憶している。
こういう印象を持った方は少なくないらしく、この本に対する感想の中には「育児本」として捉えていらっしゃる方も少なくないそうだ。

で、この息子くんのことを考えると、私の無知さに恥ずかしくなり、穴があったら入りたいくらいの気持ちになる。
いや、正確には無知に対する恥よりも、何も考えていないことに対する恥なのかもしれない。

現にいま無職だし。ま、これは一旦置いておこう。

で、ブレイディさんが言うには、この本を書いた、いやブレイディさんが執筆活動をする上で何を書きたいと考えているかについて、youtubeに上がっていたインタビュー動画がある。

そう、この感じだ。
新聞社のインタビューに対して、日本の新聞コラムは面白くないとも取れる発言をしちゃう清々しい方なのだ。
まぁ現に新聞のコラムは面白くない。

清々しい、エッジの効いたライター。
私はこの手のライターにめっぽう弱い。

ここからは本書を読んだめっちゃ個人的な感想を書き綴る。
前回の感想と違わず、ここ以下は興味のない方は去っていただいてOKだ。
なぜなら、読んでいる方の貴重な時間を潰しかねないからだ。
ここから下を読むと決めた方は、不愉快な気分になったとしても自己責任でお願いしたい。


  1. 自分の靴を脇に寄せてみる「エンパシー」とは

  2. 中堅管理職のおやっさんの靴を履いてみる・・・

  3. 子どもをみくびらない大人でありたい



1.自分の靴を脇に寄せてみる「エンパシー」とは


本文の中で人種差別に該当する表現がよく出てくる。
著者であるブレイディさんもそうした言葉を浴びる機会が多々あると書いているのだが、それはブレイディさんの息子くんも同様であるそうだ。
本文中に出てくる話なのだが、ブレイディさんと息子くんの2人で街を歩いていたときのこと。
ホームレスのおそらくヤク中かアル中であろう男性から「ニーハオ、ニーハオ」とニヤニヤした顔で話しかけられたのだそう。

私たちアジア圏に住む者から見て欧州圏の方の見分けがつかないように、またその逆もしかりということだ。

話しかけられた時のブレイディさんの反応としては、無視に徹したそうなのだが、その男性の前を通り過ぎた後、息子くんと交わした会話がものすごく心に残っている。

息子くんはその男性がなぜからかってきたのかについて分析し、ブレイディさんに話した。
まず1つ目は、息子くんは友人たちと歩いていてもからかわれないのだが、東洋人である母親と一緒にいるとからかわれたということは、母親と一緒にいる時は自分も東洋人なんだと認識されるということ。
2つ目に、一緒にいる人が友人だろうが母親だろうが、自分は東洋人として認識されているということ。単に女性と子ども(ブレイディさんの息子は年齢の割に小柄なんだそう)という弱者コンビだったからからかわれただけということ。

ここで、息子くんからさらに3つ目が提唱される。
ホームレスの彼は単純にお金が欲しくて、親しみの意味を込めてニーハオと声をかけたのではないかということ。ニーハオは英語でのハローに当たるため、単に挨拶だったのではないか。

ほう。確かに。
ここで、この3つ目に対してブレイディさんは否定している。

「それは違うと思うよ。そういう言い方じゃなかったもん。嫌な感じでにやにやしていたし、そんな親しみは感じられなかった」

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p.156

もちろん現場を見ていたわけではないのだが、なんとなくブレイディさんが否定したくなる現場だったんだろうということは想像できる。

ここで、この否定に対して息子くんが冷静に切り返す。

「でも、決めつけないでいろんな考え方をしてみることが大事なんだって。シティズンシップ・エジュケーションの先生が言ってた。それがエンパシーへの第一歩だって」

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p.156

・・・。

いや、もうぐうの音も出ないってこのこと。

冒頭で私の青春時代を披露してしまったことに、今更ながら後悔した。
中学生の私はエンパシーなんて言葉知らないし、果たして考えたことがあるかどうか怪しい。

息子くんが言っている決めつけずにいろんな考え方をするって、年齢を重ねるごとに難しい、とよく聞く。
私自身、年齢を重ねてきて感じるのは、自分の価値観がどんどん鋭くなってきているなぁってことだ。
断っておくが洗練ではない。鋭利になっているのだ。

例えば、自分の意見と合わないものを一刀両断しがちになったり、断つのは悪いかなと思ってささーっと逃げがちになったり、価値観が似た人たちと一緒に過ごして、さらに自らの価値観を研いでいく。
果たして、これがグローバリズムの渦の中で揉まれている現代人なんだろうか。
どうりで日本は経済成長が遅れるだけだ。
もう日本の政治家はどうなってるんだ!

と、考えが飛躍しまくっていると、自分の胸がズキッと傷んだ。
いやまてよ、と。
本1冊買うのだってさんざん迷って、もしかしたらハズレなんじゃとか読みもせずにグダグダ言って、文庫本化して初めてレジへと闊歩しやがる保守的で内向的なやつ=私なんだと。
それが自分の価値観を鋭利に研いでいるんじゃないか、と。

こうして、自分自身に自らの鋭利な価値観が突き立てられるという皮肉な構造が出来上がってしまった。

こんな短期間にぐうの音も出ない事態が2回も起こるなんて、そうそうない。
ただし。ラッキーなことに鋭利な価値観は鋭利であるがゆえに脆い。
ひょんなことから簡単に崩せるのだ。
そして私は飽き性だ。飽き性のいいところは変化を楽しめることだ。
例えば、ずっと気になっていた本を読むとかいったことで、自分に変化を加えることができる。


そういえば、息子くんは本書の中でエンパシーについてこう説明していた。

自分で誰かの靴を履いてみること

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p.92

ほら!誰にだってできるじゃん。
まずは他人の靴を履いてみよう。


2.中堅管理職のおやっさんの靴を履いてみる・・・


本書の中で、なんとも言いようのない怒りがこみ上げてきた箇所がある。
それはブレイディさんと息子さんが地元・福岡へ帰省した際のエピソードだ。
ブレイディさんのお父さん(まぁおじいちゃんだね)と3人で行きつけの小料理屋へ行った時の出来事。

ちょっと想像してみて。
まぁ、よくいるじゃない?
グダグダいうことしか出来ない40〜50歳くらいのおじさん。
酒に酔ってさ。もう何言ってるか分かんないくらいクダ巻いてさ。
日頃の鬱憤を晴らすべく、自分の今の境遇をいろんな人のせいにして文句ばっか言ってるやつ。
こういうやつはさ、居酒屋で仲間内だけでグダグダやってるうちは、まぁいいのよ。好きにすれば。
でもさ。10代の男の子捕まえて、グダグダ絡みにいくのはちょっとキレそうになるというかさ。
ハラスメントに厳しくなったからって、社内で気をつかってるからって、日本語のわからない少年捕まえてアルハラはOKでしょ!みたいなやつさ。
『お前何様だよ!何を言っても言い返せない子どもをいじめる暇があったらもっと稼いで国に税金納める程度のことでもしやがれ!!』
って言いたくなるわけよ。(まぁこの言い方もよくないけど)

まぁ私の怒りはこんな感じよ。
もちろん本文にはこの時の描写があるんだけれども、ちょっと詳細は書きたくないわってくらいひどい日本人が出てくる。
あーここだけフィクションであれ!って願ってしまうくらいにひどい。

ただ、私は前述してしまっているわけですよ。
そう。
エンパシーは他者の靴を履くことだと。
こんなしょうもない酒飲みのおっさんの靴でも履いてみることから始まるんだと。

このおじさん、改め”アルおじ”はどうしてこんなにも荒れていたのか?
こんな人(詳細は本を読んでください)でも人の子だし、もしくは人の親かもしれない。
(アルおじの奥さんからの連絡で、アルおじは帰宅するのだ。子どもがいる可能性もある。)
そんな人がなぜ思春期の男の子を捕まえて、小学生のいじめみたいなことをやってのけたのか。

1つ目は「子ども=無礼OK」であると判断したからではないか。日本では子どもの権利についてないがしろにされる傾向がある、と私は常々思っている。子どもに対しては、どんな無礼を働いても許されると勘違いしている大人が結構いると思っている。仮に大人対大人の関係だった場合には、そういう行動は取らないんじゃないかってことを、深く考えもせずに取ったりする。

例えば、私が父方の祖父母と同居していた小学生の頃。叔母の結納が自宅で行われることになった。で、その後会食という流れだったのだが、私を含む姉妹全員が結納から会食までの数時間、2階に追いやられ、物音を立てずにお菓子を食べて過ごすよう命じられたことがある。トイレは1階にしかなかったので、こちらも極力使わないようにと。この扱いに対して、腑に落ちなくて今でも鮮明に覚えている。なんで私たちは隠されなければならない存在なのか、と。
要するに、我が家の大人は子どもにも丁寧な説明が必要だと認知していなかったのだ。子どもと言えど、考える能力はあるし、感情だってある、ということを大人になるにつれ忘れた人たちなのだ。

この”アルおじ”もそういう大人だったのではないかということだ。

2つ目に、彼は単に泥酔していただけということ。普段の鬱憤がたまたま運悪く(息子くんからしたらたまったものではないが)ブレイディさんの息子くんへ向いてしまっただけなんじゃないかということだ。

今はどんなに働いても給料の上がり方は緩やかで、かつ社会保険料はかかるから給与天引きされる金額は上がる一方だし(今年度から健康保険料はちびっと下がったけど)、管理職になるとハラスメントだって厳しくなるし、もうやってらんねーな!!ってな感じの鬱憤がお酒の力によって爆発しちゃったのかもしれない。

で、3つ目は、もともと性根の腐った人間で、会社でもお荷物的存在で、誰もアルおじに手を差し伸べてくれる人がいなくて、結構寂しい人生を歩んできてて、そこに未来のあるキラキラ輝く子どもが現れて来ちゃったもんだから、ただコミュニケーションが取りたかっただけなんだけど、いかんせん性根が腐ってるから言葉遣いがわかんなくてコミュニケーションに失敗しちゃっただけ。

まだいろんなことが考えられるけれど、いろいろ考えてたら、「まぁ次があるしとりあえずブレイディさんの息子に謝っときな」って言いたくなるし、私の怒りの拳も下ろしてもいいかなって思う。

このことから学んだことは、他者の靴を履くことで、自分の怒りは抑えられるということだな。


3.子どもをみくびらない大人でありたい


最後に、ブレイディさんが書いた文章の中で好きな一文がある。

さんざん手垢のついた言葉かもしれないが、未来は彼らの手の中にある。世の中が退行しているとか、世界はひどい方向にむかっているとか言うのは、たぶん彼らを見くびりすぎている。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p.221

ここで言う”彼ら”というのは、子どもたちのことだ。
先にも述べたが日本は子どもの権利をないがしろにする傾向がある、と私は考えている。

子どもは確かに目を離すと危なっかしいところもあるだろう。ただ、それは経験がないからだ。大人だって経験のないことを始めようとすれば最初は失敗の1つや2つや3つするだろう。それと同じように子どもには積まなければならない”経験”と言うやつが山ほどある。

そう。ただそれだけなのだ。
年齢に応じて保護者のサポートを受けながら経験を積めば、(その辺のアルおじよりも)子どもたちには無限の可能性が広がっているのだ。

先にこの世の中に生まれてきた私たちにできることといえば、子どもたちをみくびらないこと。ただ、そこに尽きる、と私は思う。


終わりに


この本は、私にとって政治・社会に興味を持つきっかけになった本だ。
そして何よりもブレイディみかこという人について、大変興味を持った一冊でもある。(この後、ブレイディさんの著書を読み漁ったのは言うまでもない)

昨日アップした記事の中で推し活の話をしたのだが、よくよく考えれば、私の推しはいたのだ。

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