ラディカル・ゾンビ・キーパー 八
目を覚ました、という感じではなかった。照明のない長いトンネルを目隠しされたまま抜け出たような感覚だった。しかし先に反応したのは視覚ではなく嗅覚だった。便所のような酸っぱいむせ返るような臭いがするが、その気体の粒子一粒一粒はプラチナよりも重い気がした。体中にこびり付き纏わりついて、それらは汗に混じって体を溶かしていく。このままここにいたら塩を掛けられたナメクジみたいに溶けて消えてしまいそうだとラドは思った。
そこはトンネルとあまり変わらなかった。冷たいコンクリートが視界を支配し、工場にあるような大型の排気扇が回っている音がする。天井を見上げるとそれは実際にあった。首が揺らいだ。隣の奴に手をついた。ごつい腕だ。頭がくらくらする。良質のハムみたいに引き締まった腕だ。何かクスリを飲まされているか打たれている。男か。誰だ、リックか?
「どした? 酔ったか?」
「リック、か?」
「ん? なに? 何を言ってる? ラド、酔ったのか?」
リックだ。リック、ただ、黒い覆面をしている。額に雑な白十字がある。
湿度がすごい。空気が直接熱せられているような感じだ。汗が額に粘りつく。逆に唇は割れそうに乾いている。
「面白い奴が来た、いいものが見られるぞ」
リックが向いた先を見やるとナナフシみたいな体つきの男が入ってきたところだった。分厚い扉だった。一瞬覗いた外もこことあまり変わらなそうだった。扉が閉まるとずうんと鼓膜に響く音がした。男はちんぽまでがナナフシみたいだった。ちんぽ、服を着ていない、雑な白十字の黒い覆面だけで、首から下は全裸だ。ラドはリックを振り向いた。リックも首から下は全裸だった。自慢のちんぽがぶらぶらしている。ラドは胸に手を当てた。自分もそうだった。股間に手を当てた。ちんぽ丸出しだった。情けなく皮が被っている。頭がくらくらする。汗を拭おうとした。覆面で遮られた。
「……おい、なんで俺はこんな格好をしているんだ?」
「ん、酔ってるのか? 水、飲むか?」
「いや違う、なんなんだ、ここは」
「待て、後にしろ、始まる」
安物のミーティングテーブルを折りたたんだような板の上に女が寝ているのにラドは気がついた。リックに促されて初めて目の前に女がいたことに気がついた。照明が暗いわけではない、道端に転がる小石や蟻んこみたいに意識しなければまったく気づけない感覚に自分が陥っている感じだった。何かのクスリのせいだろうか、意識したもの以外がまったく気にならない。
「おい、俺になんか、クスリを打ったのか?」
「黙って見ていろ」
寝転がった女は使い古した雑貨のようなコーカソイドの肌をしていた。日本人じゃない。達磨のような輪郭の顔をしている。目を瞑っているが特に表情が気にならない。無表情でもないが恐怖に強張ってもいない、そういう風に気にならない。女を理解しようとしても気にならなくなる、女は寝ていればいい、それでいいように思えてくる、不快な感覚だ。
ナナフシが女に近寄ってしゃがみ込んだ。まもなく猫が車に轢かれたような声が部屋中に響き渡った。
「なんだ? 何をしている?」
「黙って見ていろ」
一定のリズムで女が鳴き声を上げる。それは耳だけを澄ませばアフリカかどこかの民族音楽にありそうだとラドは思った。だがそれは混線する、ナナフシの動きが気になってしょうがない、ナナフシはケツをこちらに向けて女を隠している。
「何をしている?」
「口を塞がないのは、声が出ると力が入るだろ、だから筋肉が絞まってキレイに抉れるんだってあいつが言ってたよ」
「抉れる?」
ナナフシが女の反対側に移って正面を向いた。女に穴を空けていた。細いパーリングナイフのようなもので女の腕にスリ鉢状の穴を次々と手際よく空けていた。ナナフシは子供が蟻の巣をほじくるみたいに実に楽しそうだった。よく見ると、女は脚から腕、首まで皮のベルトで固定されていて、鳴き声と共に体を捩るがまったくナナフシの作業には支障がなかった。抉った部分は一瞬だけ桃を齧ったような色を見せ、すぐにワインを注いだように血が溜まった。それは女が身を捩るごとに少しずつ零れ垂れていく、時折、ナナフシがそれを嬉しそうに舐めた。
「……おい」
「ん、ああ、あいつはガキの頃に友だちの女の子が野犬に噛まれるところを見たらしいんだ、その時に、女の子の抉られた臑を見て、骨が少し覗いた、綺麗なピンク色の肉を見て、勃起したらしい、それはまだオナニーも知らない小学生の頃で、そういうことで勃起するということも最近まではすっかり忘れていたらしいんだが、ミャンマーの軍情報部員による虐待の実態報告書ってのを誰かのルポを通じて読んで思い出して、それで目覚めたと言っていた、そのミャンマーの情報部員は臑に鉄の棒をこすり付けて皮を剥いで肉がベロベロになるまで虐待したそうだ、それであいつは思い出したんだ、自分が、抉られた肉のラインと色、そして滴るワインに興奮するってのをな、見ろ、あいつ、もうすぐイクよ、ちんこが脈打ってきた」
女は両腕のあとに両脚も抉られ、乳首を避けてそれに沿って縦に二本の穴のラインができた。ナナフシは赤々と勃起したちんこを握り締め、首を振る女の両頬を素早く抉ると、生涯で四回目くらいの勢いで射精した。濃い血のワインに白濁の精液が混ざり合い、そういうアイスのデザートを過去にフレンチで食べたのを思い出してラドは吐き気に襲われた。
リックが水を持ってきてくれた。生温かった。余計に気持ちが悪かった。
「……リック、なんなんだ、これは」
「何って、知ってるだろ」
「は?」
ナナフシとは別の男が二人現れた。現れた、いや、始めからいたが、さっきと同じように意識しないと気づけなかった。二人は意識を失った抉られた女を抱えて、扉から出ていった。扉を開けた男も新しく意識化に現れた男だった。一体、この部屋には他にどれだけの人間がいるんだ、見渡したところで視界に入っても認識することができない。ナナフシはあぐらを掻いてちんこに触れながらぼうっと湿気の滴るコンクリートの壁を眺めている。
「見に行こう、隣の部屋だ」
リックに促されるままにラドはついていくしかなかった。ここに一人残ってナナフシの萎れたちんこを見ていてもしょうがない。
部屋の外の通路は狭く、配水管が剥き出しで、隣の部屋も同じように分厚いドアだった。他にもいくつか部屋はあるようだった。
隣の部屋に入るとさっきの部屋よりも鼻に食い込むような刺激臭が待っていた。雑に埋め込んだようなコンクリートの床の色が不自然にまばらだ。
女が投げ出された。また別の男が立っていた。腹の出たチビだ。もちろんこの男も覆面を被っている。
チビは女を気をつけの姿勢に正して仰向けに寝かせ、自分のあごを右手で掴みながらその姿を眺めて、また少し女の位置を正すと、今度は腕を組んで、小さく四回頷いた。チビは部屋の隅にあるステンレスでできた背の低い物置の前まで行くと中から電気ノコギリを取り出した。それはブルーのフォルムでオシャレだったが裸の男には似合わなくて違和感があるなとラドはこれから行われることが想像できたのに悠長なことを思ってしまった。それは想像したくなかったから無意識に回避された思考なのかもしれない。それでも口からは出てしまった。それでリックは聞きたくもない要らぬことをしゃべりだした。そうでなくても勝手にしゃべったかもしれないが。おい、
「そう、こいつは男女問わず体を切り刻むことが好きなんだ、どんな状態になっててもいい、死んでいてもだ、五体が満足ならこいつは喜んでちんこをビンビンにして体を切り刻む、ただ、血が噴出す瞬間とかのたうち回る姿が見たいわけではない、人の形でなくなることが好きな四肢切断欲求でもない、人を切り刻むという行為そのものが好きなんだ、体を切り刻んでいる自分が好き、ある意味、ナルシストだな、子供の頃によく、何の意味もなくティッシュペーパーを丸め続けたことがなかったか? あれと似ている、丸めたティッシュペーパーの山ができるのが楽しいんじゃない、シュッシュッという音と丸める作業が好きなんだ、あとで母親にもったいないでしょって叱られるなんてことは考えない、今、楽しければそれでいい、幼児と一緒だ、いや、今の十代の子供はみんなそうかもしれない、あいつも一緒、そこに人がいれば切り刻みたいんだ、ふふ、危険な人間か? 街に放ったら通り魔になるって? とんでもない、まったくならないね、現にあいつは普通のサラリーマンをしているし、満員電車で通勤している、あいつがやりたいのは切りつけることではなくて、切り刻むことなんだよ、ラド、道を歩いていて急にマスターベーションがしたくなったら、お前はいきなり道の真ん中でしごき始めるのか? いい女を見かけてセックスがしたくなったらいきなり襲い掛かるのか?」
ラドは首を振った。相槌を打ったつもりはなかった。目の前の女に寸を合わせているチビに向けて無意識に振っただけだ。拒否反応として。
「あいつだってそれと同じさ、道の真ん中で切り刻み始めたら、途中で止められてしまうだろう? まあ確かに、捕まるという概念ではなく、止められてしまうというものなんだけどね、痴漢よりは性質はいいと思うぞ、痴漢は衝動を抑えられない自制心のない馬鹿な奴だ、こいつにはあるからな、家庭もある、絵に描いたような幸せな家庭がな」
チビが電気ノコギリを起動した。ブブブンという威勢のいい唸りを上げた。チビは躊躇うことなくすぐに女の左足首を綺麗に切断した。女が上体をシーソーのように飛び起こして目をひん剥いて声にならない声を上げた。ブブブブという電気ノコギリの唸りで聞こえなかったがチビは舌打ちをする口をした。チビは一端電源を切り、床に埋め込まれている太いフックに革のベルトを通して女の体をきつく固定した。女は足首から事故車がガソリンを漏らすように血をとろとろと流している。チビは電気ノコギリを起動し再び切り始めた。さっき切った部分の少し上、臑の下あたりだ。切り落とすとまた少し上を切り始めた。
「あいつは手足を一ミリの狂いもなく五センチに切り刻みたくてしょうがないんだ、電車で生足を出した女子高生を見かけるとあいつは触れてみたいじゃなくて頭の中で足に五センチのラインを引いて勃起する、あいつはかなり前からここへ来ているが、今までに一度も成功したことがない、あと一歩のところで一ミリ二ミリ狂ってしまうらしい、そう、オレたちにはそんな誤差に気づくことはできない、あいつの中にやたら鋭いセンサーがあるんだろう、前に一度だけおしいところまでいったことがある、あと腕一本だった、肘の関節で刃を弾いてしまったんだ、あいつ、雄たけびを上げて悔しがっていたよ、実はラスト腕一本まで上手くいったのがその時が初めてで、興奮しすぎてその前に射精してしまっていたんだ、それで緊張感が解けていたんだろうな、自分はこの程度で満足してしまうような中途半端な奴だったのか、って自己嫌悪にしばらく陥っていたよ」
チビは右足の太ももで失敗した。あああああああという叫び声を上げて女の腹に電気ノコギリを回転させたまま突き刺してその場に倒れこんだ。細かく千切れた肉が氷を削るように飛び散る。戻ろう、リックはデパートのオモチャ売り場で駄々を捏ねる子供を置いていくように歩き出した。
元の部屋に戻ると何かが違った。一夜で中学の卒業式の夢ばかりを五つも六つも見たことがある。それらはとても短い夢で、降ってくるように次々に差し込んできた。夢の中で実感のない圧迫感に苛まれ、ブレーキの壊れた自転車みたいに何かが駆けずり回る、部屋を見渡すとそんな感覚が襲ってきた。
血と汗の臭いだった。それは戦いのようだった。パズルではないが、一人倒すごとに謎が解けていく快感のようなものだった。床は血のシミでいっぱいだった。覆面を被った男たちが自分たちを除いて五人もいた。部屋はテニスコート二面分くらいはあった。それは快感に近かった。リックの覆面を振り返るともっと黒いシミがついていた、返り血だ。
おかしいおかしいとは思っていた。今、自分はあのDVDと同じ映像の中にいる。それは間違いない、こんなものは他にないはずだし、なにより眼球が快感を運んでくる。眼球が喜んでいる。拒むことのできないリアルな世界に眼球が喜び溢れている。脳みそは複雑だ。脳みそはまだ何も理解できていない。脳みそとは矛盾した快感が迸る。その証拠に人が壊されることにまだそれほど違和感がない。流れ出る血を見てもその臭いで気分は悪くなるがそこに違和感はあまりない。
抉られた女を運んだ二人の男が今度は業務用の大きなフリーザーの扉を開けた。中から青白い女が倒れこんだ。死後硬直なのか凍っているのか棒状になったまま倒れこんだ。
臑毛のない別の男が赤いポリタンクを持って近寄ってきた。
「おいおい、もうあれをやるのかよ」
リックがそう呟くのと同時に、臑毛のない男はポリタンクに入った液体を女に振りかけた。振りかけるというよりも流すに近かった。液体は、ガソリンだ。
リックは勃起していた。
「オレはこれが好きなんだ、いや、ガソリンの臭いが好きなんだな、子供の頃、親父にガススタンドへ連れて行かれるとこれが本当の幸せじゃないかなって思うくらい嬉しかった、他に代え難い喜びだった、オレの天国はガソリンの臭いで満ちていてくれ、そう思った、綺麗だぞ、どういうカラクリか知らないが、凍らせたあとにガソリンで人間を焼くと炎の色が違うんだ」
臑毛のない男が火のついたマッチを落とすと顔もよく見られなかった青白い女が不思議な色の炎を上げた。赤のようで緑のようで青のようで白のような炎だった。リックは自慢のでかちんぽをしごき始めた。覆面の奥では恍惚な表情をしているのだろうか。ラドは炎をしばらく見つめてから、あることを思い出した。小さい頃、画用紙にクレヨンでいろんな色を重ねて塗りたくって一面を真っ黒にしてそれから爪楊枝で引っ掻く、というのがたまらなく好きだった。確か石を集める前にハマっていた遊びだ。引っ掻くと花火のように折り重なった色が飛び出してくる。それを一緒に習った同級生は花を描いたり猫を描いたりいろいろやっていたが、花火みたいだ、という思いに捉われてしまって自分はどうしても花火しか描けなかった。この炎はそれに似ている感じがした。ある一点に引きずり込まれる感じがするのだ。人は馬がニンジンを目の前に垂らされるようにビジュアルイメージを植えつけられるとそこから目が離せずある一定の方向へ想像が引きずられてしまう。人間は元々想像を楽しむ動物で情報が少ないほど想像力は働く。それは訓練次第でどんな人間も強い想像力を備えることが出来る。そしてその強い想像力は植えつけられた既在のビジュアルを破壊するだけの力を持っている。それは自分の想像と目の前にぶら下げられたビジュアルとの違和感を打破するものだ。この炎は、そういう強い想像力も許さないほどの違和感を感じさせ、そしてそれはある一点へ導いている。自分は特別な存在ではない、数多ある地球の一因子に過ぎない、というところへ。
ラドは驚くほど冷静な自分に腹が立った。目の前で行われているのは殺人だった。フリーザーから出てきた女は死体だったのかもしれない。でもその前の抉られた女は生きていた。そして電気ノコギリで切り刻まれ腹をぐちゃぐちゃにされた。これは殺人だった。強盗に入って家主に見つかり突発的に脈略もなく人を殺すようなのとはわけが違った。それを見て勃起し射精する奴がいた。リックもだ。自分は地球の一因子に過ぎない、罪ではない、これはあまりに当たり前なんだ、普通に起こっていいことなんだ、こういう例えが適切かは分からない、ウンコ味の極上のステーキと極上のステーキ味のウンコ、どちらを食べるか、答えは明白だ、前者だ、だがどこか腑に落ちない、味さえよければウンコでもいいように思えてしまう、それにとても似ている曖昧さが冷静に頭に渦巻いていることがラドはとにかく腹が立った。人が当たり前のように殺されていることにではなくそこにだ。むしろ人が殺されることにはまったく違和感がない、それは当たり前の出来事、自分たちは地球の一因子に過ぎないからだ。
だが次の瞬間にその思い、感覚は全て吹き飛んだ。リックが射精を終えるのと同時に新しい女が運び込まれた。女は身を捩って激しく暴れていたが、相撲取りのような体格の男にがっちりと抱え込まれている。ラドは全身に鳥肌が立った。女は口から血を垂らしている。舌を出しきり、その舌は先を三本の釘であごに固定されていた。ラドはガタガタと震えた。寒さ以外でこんなに震えるのは初めてだった。女は目隠しをされていた。汗で髪がびっしょり濡れていた。確認しないでもすぐに分かった。ニナだ。
指が痺れて悴んだみたいに動かなくなった。痛いほどだ。見ると両手の指が全て紫に変色していた。お前の番だな、リックのその言葉で人を殺すには自分では意識的に作り出すことのできない感情の高ぶりが必要なんだと分かった。その状態に達した時、人は全てを破壊したくなるんだろう、今、リックがものすごく殺したい。
「なんで、あれはニナだろ、なんで、ここにニナがなんでいる」
「おいおい、ラドが連れてきたんじゃないか」
「は!? 連れてきた? 誰が、俺が? ふざけるなよ、ここはどこなんだよ、待てよ、ここはどこだよ、俺はなんでここにいるんだ、なんだよ、わけが分からない、は、ここはどこだよ、俺はなんでこんなところにいるんだよ、おい、リック、リック!」
「なんだ、どうしたラド、何を言ってる、お前がここに来たいと言ったんじゃないか」
「何のために、何のためにこんな所へ俺が行きたがる、なんだ、何した、リック、なんだこれは、どこだ、ここはなんだ、ニナ、ニナはどうした、なんでここにいる、説明しろよ、意味が分からない、とりあえずニナは離せよ、意味が分からない」
「記憶がないのか? 頭でも打ったのか? この前オレのとこへ来た時も具合が悪そうだったな、じゃあ始めから説明しよう、お前が女を二人連れてオレの元へ来た、あの映像と同じ所へ連れて行けとラドは言った、あの映像? 俺は聞いたよな、するとお前は答えた、人を壊して勃起している奴らにオレも交ぜろ、ってな」
「言ってない、ニナをお前の元に連れて行ってなんかいない、これまでにもお前にニナを会わせようなんて思ったことは一度もない、クスリかなんか打って、お前が攫ったんだろう!」
「おいおい性質の悪い酔っ払いだな、本当に覚えてないのか? お前が連れて行けというから連れて来たんだ、ここは誰でも来られるような場所ではない、オレたちと心の深淵から繋がりのある人間しか来られない、お前がそれを告白した、オレは繋がりを信じた、だから連れてきたんじゃないか」
「ふざけるな」
「ふざけていない」
ニナが抉られた女と同じ板にベルトで固定された。ニナはもがくがその度に口から血が飛び滴った。
「やめろ!」
飛びつきかけたラドの腕をリックが掴んだ。バットで殴られたように重い握力だった。ヘソの下にホクロが見えた、間違いなくニナだ。
「興が冷めるようなことするなよ、ラドが望んだことだ」
「望んでない、何の意味がある、何をする、離せよ」
「ラドもオレたちと同じ人間だ、それはオレは知っていた、いつかここへ来ると思っていた、お前はただ目覚めただけだ、ただ、受け入れればいい」
「ふざけるな、その手には乗らない、離せ、ニナを離せ」
「……お前が言うように何かの間違いだったとしても女はもう帰せない、こうなった以上、もう帰すことはできない、他の連中がそれを許してはくれないよ」
鎖骨の飛び出た男が現れた。バチバチという音を立てて手元が光った。スタンガンに似た電極棒のようなものを持っていた。コードが大きな電圧器に繋がっている。青白い光が目に焼きつく。
「分かった、何も言わない、ここのことは誰にも言わない、一生言わない、すぐに忘れる、だから離してくれ、忘れる、何もなかった、忘れる、だから離してくれ、忘れる、何もしない、一生監視してもいい、忘れる、誰にも話さない、だから離してくれ」
腕を引き離そうとすると余計にリックの手が食い込んだ。伊達に軍人をやっていない、もう二の腕から下の感覚がない。
「日本人の女はどうなるかまだ分からないが、このアジア女はもう諦めろ、どうにもならない」
「日本人? なんだ、誰だ?」
「ラドが連れてきたもう一人の女だよ、少女のようだったが」
「ナオか? ナオか?」
「名前までは知らない」
鎖骨の男がニナの頬に電極を当てた。バチという音と共に煙が上がった。
「やめろ!」
ニナの声にならない叫びがケンと聞こえた。ケン、ケン、助けて、ケン、リック!
「なんだ、うるさいなさっきから、お前が望んだことだろう」
「言うぞ、ここから逃げ出して、全部ぶちまける、マスコミに、警察に、全部ぶちまける、おかしい、それに気づかなかった、どうかしていた、これは殺人だ、人殺しだ、拷問に近いハードな遊びなんかじゃない、SMじゃない、殺人だ、人が死んでる、お前ら、何やってる、こんなことが許されるわけがない、こんな世界は存在しない、どれだけ地下だろうが裏だろうが、こんなことは許されない、言うぞ、ぶちまけるぞ、これは人殺しだ、ニナを離せ、バラすぞ、リック、お前だって捕まる、もう笑えなくなる、これは殺人だ、言うぞ、バラすぞ、話せ、殺すか、え、なら俺も殺すか、ああ!?」
「……誤解をしているな、まず、オレたちはラドを拘束したりはしない、だから逃げるという表現は間違いだ、帰りたければ帰ればいい、オレたちは困らない、なぜなら、お前はリークしたりはしないからだ、お前はオレたちと同じ人間だ、オレがよく知っている、同じ人間だ、だから連れてきた、ラドはオレたちと同じ人間だ、そうでなければ連れてこない、確かに、お前が見たという映像、どこから漏れたのか、お前の手元に届くような甘い管理だった、それは少し冷やりとしたよ、でもラドでよかった、ラドはオレたちと同じ人間だ」
「ふざけるなうるさい、俺はお前らと同じじゃない、変態じゃない、女が壊される姿を見て勃起するような変態じゃない、これはただの人殺しだ、キチガイの集まりだ!」
ニナの顔が治安の悪いスラムみたいに黒ずみ変形してきた。綺麗な滑るような白い肌はどこかへ消えてしまっていた。
「人殺しは罪か? ラド、罪ってなんだ? それは法を犯すことか? だから殺人は罪なのか? ラド、法律は人が勝手に作り出したものだ、神の理ではないよ」
「異常だよ、お前らは狂ってる、正気じゃない、狂ってる」
「では聞くが、正常とはどういう状態だ? 他人を思いやることか? 誰かを助けることか? 人を傷つけないことか? ラド、どんな人間もエゴイストだ、度合いは違っても、どんな人間も自分のことしか考えていない、人間は生きる限り誰かを犠牲にしている、子供は親を犠牲にして生きていく、優しい言葉は自分のためにある、どんな人間も必ず見返りを求めている、それを否定する人間がいる、それを認めない方が異常なんだ、なぜ腹が立つ? なぜ鬱になる? 他人に気を使いすぎたからじゃない、自分の思い通りにならないからだ、優しい人間がこの世で一番欲深い、それだけ他者に何かを求めているからだ、いいか、自分が自分であることを認めることが正常なんだ、他人のために存在するように錯覚させるこの世が狂っているんだ、自分を受け入れろ、自分は自分だと、自分は他人ではない、他人は自分ではない、自分は自分だ、受け入れろ、オレたちはそれを受け入れた、確かに、オレたちは他人とは違う性衝動を抱いている、だがそれを否定することはない、それがオレたちなんだ、オレたちはオレたちでいいんだ、ラドもラドでいい、性的倒錯という言葉がある、これは社会規範に反するということだが、これは人間が勝手に作り出した社会に反するだけであって人間そのものには反していない、自分を認めないことの方が罪なんだ、受け入れろ、受け入れないことは人間としての罪だ、ラド、お前も全てを受け入れなければならない、全てを受け入れることが正常な状態だ、オレたちはオレたちを受け入れている」
「快楽のために人を殺している、ただの快楽殺人だ」
「ラド、身元のない人間を殺したらどうなるか知っているか? 戸籍のない人間を殺したらどうなるか知っているか? 戸籍がない、つまりこの世に存在しないとみなされる、だから罪にはならない、それが人間の作り出した社会だ、矛盾しているだろう? 存在の証明できる人間を殺したら罪になるが存在の証明できない人間を殺しても罪にはならない、社会に判断基準なんてないのさ、己の中の神にしかな、つまりそれは、全てを受け入れた状態で何を見るか、だ」
ニナの顔は真っ黒に焼け焦げ、煙を吹いている。鎖骨の男はニナの白い体に電極を当て続ける。あの柔らかな温かい肌が失われていく。ラドはこれが現実ではないような気がしてきた。夢の中にいるように感覚がないような気がしてきた。アパートに行けばニナに会える。コーヒーを入れてくれる。あだ名の話をしてくれる。きっと、これは現実ではない、眼球が歪んだ快感を与えてくる。まだベッドから出ていない、夢の中だ、きっと。
「受け入れることだ、ラド、拒むことはない、全てを受け入れろ、ラド、受け入れろ、お前は今、戸惑っているんだ、女を助けたい? 違う、お前は戸惑っているんだ、本当の自分の台頭に戸惑っているんだ、ただそれが怖いんだ、女を救うことでそこに気づかなかったことにしようとしているだけだ、ラド、受け入れろ、受け入れれば何をしたらいいか見えてくる、これはお前にとって絶望でもなんでもない、受け入れれば見えてくる、それは光だ、光が道を示してくれる、受け入れて、それから立ち向かえばいい、そこから行動に移せばいい、全てを受け入れた人間に圧力をかけることができる人間なんていない、オレたちがそうだ、ラドもそうなれる、全てを受け入れろ、お前はお前になれる、その力は壮大だ、全てを受け入れろ」
ラドは拳を振って語るリックのむき出しの股間に思い切り蹴りを入れた。ラドは蹲って唸るリックの腕を振り解いて鎖骨の男に飛びついた。鎖骨の男は電極を向けたがそれをラドはかわして顔面に拳を浴びせた。歯で手が切れて顔に血が飛んだ。ラドは馬乗りになってもう一発というところで相撲取り体型の男に取り押さえられた。うつ伏せに寝かされ背中に乗られ、息が微かにしかできない。ニナは、体のあちこちが黒焦げていて、もう動かなかった。
リックが立ち上がってゆっくりと近寄ってきた。
「ラド、何を怖がっている? 自分を知ることがそんなに怖いのか? 怖がる必要なんてない、確かに受け入れることで今までの自分とは大きく変わってしまうかもしれない、だが、それが成長だ、人間はそうやって成長していくんだ、成長するためには、何かを犠牲にしなければならない、その犠牲を怖がってはいけない、怖がっていたらお前は一生赤ん坊のままだ、受け入れることは失敗ではない、劣等でもない、キッカケだ、自分の内面の本性に、真実に気がつくキッカケだ、そこを避けてはだめだ、お前は自ら選ばなければならない、今は苦しくてもいい、受け入れなければならない、その苦しさに恐怖する必要はない、その先にはそれよりも大きな光が待っている、困難を避けていては光は射さない、人間はひとつひとつを受け入れて成熟していくんだ」
背中から圧迫され苦痛を感じていてもラドはまだこれが現実ではないように思えてならなかった。
「ラドは今、拒否や拒絶というかなり強い、単純な嫌悪を抱いているんだろう、人が死ぬことが理に反していると刷り込まれて生きてきたからだ、だがよく考えろ、そこに明白な理由は見つからないはずだ、どんなことでもいい、物事をどこまでも突き詰めて根底にある原因を探ったことはあるか? ある、ない、どちらでも構わないが、それは漠然としすぎている、そうだな、例えばラドはトマトが嫌いだとしよう、なぜ嫌いなんだ? 酸っぱいからか? デロデロしているからか? いつからだ? なぜ嫌いだと思ったんだ? そう、その原因は漠然としすぎている、味が嫌い、これは明白な理由ではない、もっと根底に何かがあるんだ、そういう漠然としたものではない世界がこの世には存在する、人間の中に存在する、その存在に気づくことが出来るのかっていうのは、人間の本質を問われるところだとオレは思う」
ニナが担がれた。部屋を出ていった。ラドはそれを目で追うしかなかった。
「気づいているんだろ、自分が勃起していることに」
情けなかった。リックに抵抗しながら、汚れていくニナを見て隆々と勃起していた。それが全てだった。勃起に抵抗するために言葉を発していた。眼球もちんこも喜び溢れていた。脳みそもそれに侵されていた。残された小さな心だけが最後の抵抗をしていた。全てが夢であってほしかった。そう願うことだけの抵抗だった。
「ラドも分かったはずだ、オレたちがどういう存在なのかを」
「……俺たちは、地球の一因子でしかない」
「そうだ、オレたちは特別じゃない、オレたちはオレたちを主張してはいけない、オレたちはオレたちであることを受け入れるだけの存在だ、オレたちは地球の一因子であり、宇宙の一因子だ、それ以上でもそれ以下でもない、それを受け入れなければならない、特別ではないということを」
横須賀ベース前の裏路地にある立ち飲み酒屋のカウンターに並ぶリックの姿はなんとも滑稽だった。あれは笑えた、そんなことがなぜか思い出された。
「オレたちの人生は宇宙の法則の一部分でしかないんだ」
誰かのルポで東京都では国際結婚が一割もいると読んだことがあった。その内の八割のカップルが日本の男とアジアの女で、それはアジアの女を扱う斡旋業者がいるからだった。自分がもっと馬鹿だったらニナと簡単に結婚しただろうか、とその記事で真剣に考えたこともラドは思い出された。タイの女はみんな優しいんだ、記事の最後にそう書かれていた。
「世界は誰かが動かしているんじゃない、全ては宇宙の法則の一部分なんだ、秩序や調和もない、それも方程式の一部分だ、オレたち人間はそれを受け入れるしかないんだ」
ナオに言ったことは間違っていた、全てを受け入れるのが人間の完全体、人間はそれを目指す、それが人生、そんなものは間違っていた、そんなものにはなりたくない。
「これはラドが生まれる前、オレが生まれる前、もっともっと前、宇宙が誕生する前から決まっていたことだ、宇宙はある一定の法則の上に成り立ち誕生した、地球も同じ、地球の生物である人間も同じ、その一生もある一定の法則の上に成り立っている、抗っても仕方がない、予め決まっているんだ、人間はこの言葉が好きなはずだ、これは運命だ、誰にも変えられない、式なんだよ」
背中に乗っていた男が退いた。ラドは動かなかった。ニナはもうバラバラになっている。
「さっき、オレたちのことを快楽殺人者だと言ったな、それも式でしかない、オレたちは宇宙の法に則った式の上を歩いているだけ、どうあがいても、結局、ここへたどり着く、そういう風に作られてしまっているからだ」
ニナは死んだ。ニナは殺された。生き返ったら素敵じゃないか、じゃ済まされない。すんなり受け入れてはいけないことだってあるんだ。
「質量保存、相対性理論、ひも理論、人類がこれからも何億年と生き続けられればありとあらゆる事象が全て式で解明されるようになる、その時、人間の一生も式で解明できるようになる、人間も猿もゴキブリもネズミもカニもイグアナもコンドルもみんな式の中の記号にすぎない、アルファベットだ、数字だ、それと一緒だよ、ラドがここへ来たことも、そうやって突っ伏すことも、全て予め証明ができる、オレたちはそういう存在だ」
自分の周りで本当に大切だと思える人間が死んだことが一度もなかった。バイクで殺してしまった女もただ好奇心で付き合っただけだった。だから何も感じなかった。戦争で多くの人間が死に、日本の自衛隊員が死んでも何の実感も湧かなかった。テレビの向こう側の出来事だった。それは映画と同じだった。ニナは死んだ。夢ではない。全てを受け入れる? 人間の完全体? 神? そんなものにはなりたくない、人間はそんなものには絶対になれない、なる必要がない、弱くていいんだ、だから人間なんだ、受け入れられないものがあるから人間なんだ、弱い人間でいいんだ、人間は弱くていいんだ、耐えられなかったら逃げてもいいんだ、逃げ惑っていいんだ、ニナのいない生活を絶対に受け入れたくない、逃げて逃げて逃げて逃げて、絶対に受け入れない。
「ラド、宇宙の外側には、何があると思う?」
リックが覆面を取った。いつもの、楽しそうに話をするリックの顔だった。
「科学者が笑っているんだよ、この宇宙を作った、別の宇宙にいる科学者が、こうやってさ」
リックは笑った。心臓が暴れるほど無垢な笑顔だった。キッカケと始まりを与えてくれた、ラドはその笑顔を見てそう思った。リックは殺す、ただ、感謝の念でいっぱいだった。
最後は、どうなる?
「最後? 決まってるじゃないか、計算が終わるんだよ、ただ、それだけだ」
リックから教わった言葉が頭に浮かんだ。君が新しい人生を望む時は僕は否定はしない。墜落する飛行機の乗客が必ず残す言葉、ラドは笑った、自分は残される方だった。
「そうそう、日本人の娘は解放されると思う、さっきも言ったように、戸籍のハッキリしている日本人を殺すのは穏やかではない、さすがにそこは考える、ましてや少女だ、オレたちも馬鹿ではないからな」
リックは手を差し出した。ラドは受けて立ち上がった。その手はやけに冷たかった。
ラド、リックは覆面を被り直すと、言った、
「we have no choice」
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