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無色透明の腐った心

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#連載小説

無色透明の腐った心 終

無色透明の腐った心 終

 まるで秋風のような優しい風が窓から飛び込んできた。それは迷い込んできたというほうが適切かもしれない。卓上の風鈴が奏でるメロディが、前垣英司にはなんだか寂しげに聞こえた。
隣に座る母がリンゴの皮をむく手を休めて、しばらくその迷い風と戯れた。
 風で捲りあがったカーディガンを前垣がなおすと、ありがとう、と母は言った。
 前垣は窓のサッシに手をついて外を眺めた。何度見てもそこは静かで穏やかだった。例え

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無色透明の腐った心 六

無色透明の腐った心 六

 タクシーに乗り込むとハルナは運転席の後ろに座り、うつむいたまま行き先を告げた。
 運転手は明るい返事をした。中畑という名前だった。頭が薄かった。
 車では運転席の後ろが上座だと、何かのテレビでやっていた。助手席が下座で、これは事故時の死亡率で決められているらしい。それを知ってからはいつも運転席の後ろに座るようにしている。
「夜遅くまでお仕事ですか? 大変ですねえ」
 シャンパンゴールドのショルダ

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無色透明の腐った心 五

無色透明の腐った心 五

 新刊コーナーのポップを見て、発売日がとっくに過ぎていたことに気がついた。それでも目当ての本は大量に積まれていて、人気がないのかなと思いながら手に取った。なんたら新人賞を受賞してからの三作目、作者は大学中退でひきこもりやストーカーを経験した二十五歳の青年、期待の新人だ。でも楽しみにしていたのは自分だけだったのだろうかと思うとなんだか悲しかった。
 文藝コーナーには先月から気になっている「氷目」とい

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無色透明の腐った心 四

無色透明の腐った心 四

 鈴木聡は高校を中退しているがそこらの偏差値を自慢しているだけの中身が空っぽな大学生よりよっぽど頭が良いだろうなと高橋良夫は思った。前に税務署で短期のアルバイトをしたときに知り合った一つ年上の先輩がこの世には地頭の良い奴と悪い奴しかいないんだと言っていたが鈴木は地頭の良い奴だろう。地頭とは脳みその出来のことをいうらしい。
「客だ」
 オリーブ色のTシャツを着た、髪を右巻きにしている若い女がモニター

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無色透明の腐った心 三

無色透明の腐った心 三

 始めから分かっていたことだけど、楽しくもなんともない。ていうかつまらなすぎ。一体何が楽しくて、あんな馬鹿みたいな顔して笑うことができるんだろう。そんなに機嫌をとってまでセックスがしたいのなら、テレクラにでも行けばいいのに、出会い系サイトでも漁ればいいのに。怖いんだろうなどうせ、事件に巻き込まれたりするのが、だから、こうやって、お酒を飲ませて、タダでやらせてくれそうな娘を探してるんだきっと。世の中

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無色透明の腐った心 二

無色透明の腐った心 二

新宿文化センター近くの喫茶店で中井信夫はナポリタンを食べていた。食事ぐらい新宿の喧騒を忘れられる静かなところでしたいといって毎日ここでそれもナポリタンを食べているが不便でしょうがない。
 店員のいらっしゃいませという掛け声を無視して影井学は中井の向かいの席に座った。客は中井だけだった。
「中井さん、行くときは行くって言ってからにしてください、また探したじゃないですか。それにここは駅から歩かないとい

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無色透明の腐った心 一

無色透明の腐った心 一

横浜駅相鉄口交番前にその男はいた。
ストライプの入ったミディアムグレーのスーツを身にまとい、短髪に黒ぶちメガネ、小太りのその男は鼻の下に掻いた汗を拭うことなくただそこに佇んでいた。行き交う人々を見るわけでもなく、かといって一点を見つめて何かを考えているようでもなかった。
雲が紫に染まってきたなと思うとその男からメールが入った——今どの辺りまで来た? ——もうすぐ、とまで打ったが直接行くことにした。

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