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無色透明の腐った心 二

新宿文化センター近くの喫茶店で中井信夫はナポリタンを食べていた。食事ぐらい新宿の喧騒を忘れられる静かなところでしたいといって毎日ここでそれもナポリタンを食べているが不便でしょうがない。
 店員のいらっしゃいませという掛け声を無視して影井学は中井の向かいの席に座った。客は中井だけだった。
「中井さん、行くときは行くって言ってからにしてください、また探したじゃないですか。それにここは駅から歩かないといけないから不便なんですから忙しい時は他で署の近くで食べてください。というか弁当でいいでしょう」
ここの飯だって安いわけじゃないんですから、と影井は小声でつけたした。
「お前、わざわざ電車乗ってきたのか? バカか? 歩けよ」
「そんな悠長なこと言ってられる場合じゃないんですよ、僕だって急いでいたんです、携帯電話持ってくださいよ、そうすればすぐ連絡つくんだから。被害者の、身元、分かりました」
 中井は口の周りがオレンジ色になるのも気にせず食べ続けている。
「……斉藤由美、二十一歳、三田在住、高田憲次、二十二歳、川崎在住、小柳隆、二十二歳、横浜在住、三人とも大学生で、同じゼミの仲間のようです。斉藤由美ですが、親はあの、食品小売最大手イードの重役、斉藤浩太でした。よく、テレビでインタビューに答えている、あの人です」
 斉藤浩太はインターネットによる自然食品小売市場の先駆けだった。
一瞬だけ影井に目を合わせると中井はウエイトレスに新しい水を頼んだ。太い眉毛が毛虫みたいだと影井は思った。
「ガキどもは、何であんなことをする必要があった?」
「え? あ、はあ、分かりませんが……」
「お前の意見を聞いてるんだよ、答えろ」
「あ……単純に、小遣いが欲しかったんじゃないですか?」
 水を一気に飲み干すと、爪楊枝を咥えて中井は言った。
「ガイシャの女、有名な重役の娘なんだろ? してた腕時計見たか? ありゃ高え、子供がオヤジぶん殴って小遣い稼ぎしたぐらいじゃ買えねえよ、俺たち大人だって手が出せねえようなもんだ、そんなもん普通にしてる女が小遣いに困るのか?」
 驚いた、何も見てないようでしっかり見ている、さすがベテランと影井は思った。
「お前、気付かなかったのか?」
「す、すいません」
「そんな女が、貧乏な男のために手を貸すか? 危険を犯してまで、なあ。小遣いもたんまり貰ってる、金に困ってんなら普通に貸すだろ。若いっつってもお前ももう三十だろ? いい加減力つけろよ」
 二十九だ。
「は、はい」
「それで、ガイシャと過去の事件に繋がったのか?」
「あ、そ、それです、僕が言いたかったのは、過去四件の事件と繋がりました、全て一ヶ月以内に起こった強盗事件で、手口は女を使い金を脅し取る、美人局です、全て。中井さんのふんだ通りでした……」
「だろうな。大方気の短えマル暴に手を出しちまったんだろ、あるいはイカれたチンピラだな、あの殺し方じゃ」
「はあ、でも、本当に異様というか、テレビみたいな感じでした」
 斉藤由美は咽元から貫通するまでパーリングナイフを突き刺されていた。小柳隆は二本のアイスピックで咽を引きちぎられてから両目を突き刺されたのだろうと鑑識が言っていた。高田憲次は、心臓が抉り出されていた。その凶器だけは見つかっていない。
「そう、映画や小説に影響を受けた奴が真似しただけだ、たいした奴じゃない、指紋も出てる、ド素人だ。で、課長は俺達に何をしろって?」
「ホテル付近で目撃情報を……」
「はあ? 他の奴にやらせとけよ、それかお前一人でやれ」
 中井は立ち上がると伝票を握り、おう姉ちゃんいつも綺麗だな、と言ってレジを済ませて外に出た。見る人によっては完全にヤクザだなと影井は思った。
「ちょっと待ってくださいよ、中井さんはどうするんです?」
「あ? 俺か、俺はガキらを調べる、なぜガキらが犯行に及んだのか」
「……でもそれは被疑者死亡ということで」
「うるせえな、気になるからやるんだよ」
 中井は自販機でタバコを買うとすぐに封を切り一本咥えて火をつけた。
「何が気になるんです? 教えてくださいよ」
 中井はちっと舌打ちをしてタバコを一吹かしすると言った。
「あのガキどもは金に困ってない、かといって快楽ではやってない、何かあったはずだ、そうさせる何かが」
「……裏に誰かいて、指示でもしているとか? 弱みをネタに」
「それならまだいいがな」
「どういうことです?」
「わからねえから調べんだよ。ところで、その過去の四件、常に三人か? 証言は全部一致してたのか?」
 影井は手帳を広げると、あ、これだ、と指でなぞりながら言った。
「女の方は一致してませんが、男の方は坊主頭だったという統一した証言が取れています。背格好も似顔絵もほぼ同じです」
「二人ともか? 男二人とも坊主か?」
「……いえ、男は、一人、女一人です」
「四件とも?」
「はい」
「じゃあなんで今回は三人なんだ? 男を一人増やした理由は? 何かあったんじゃないのか? 三人に増やした今回に限って反抗されて殺されてるのはなぜだ? ……まあ、過去にもっと犯してるだろうから、今回に限って三人だったわけじゃないだろうけどな。他には本当に繋がってるものはなかったんだな?」
「はい、おそらく、女を買った、被害者にも罪の念があって、被害届けも出せないのではないかと」
「ちっクソオヤジどもが」
 新宿三丁目駅の改札口も人が少なかった。
「あの、なぜ、快楽でやったのではないと思うんですか? 今の若い奴らならあり得ますよ。特にお金を持ってるボンボンは、貧乏人を虫けらぐらいにしか思っていないということも」
「勘だ」
「カン!?」
 影井は大げさに身を反らすとサラリーマン風の男にぶつかってしまって、すいません、と軽く頭を下げた。
「なんだかわからねえが、なぜあのガキらが始めたのかを調べねえとこの事件は解決しそうにない。そう感じるんだ、現場を見たときからな」
「刑事の勘、ってやつですか」
「お前もテレビの見すぎだよ」
 一分遅れで到着した電車に乗り込むと、中井の頭にある女の顔が浮かんだ。それは十五年前に起こった殺人事件の被害者だった。腰まで伸ばした黒髪が印象的で、そして、笑顔が忘れられない女だった。この女のことを思い出すと決まって顔の古傷が疼きだす。俺は、俺の勘は、はずれることを知らない、もう裏切ることはない、もう二度と……電車の窓に映る自分の顔を見て中井は、老けたな、と思った。十五年前は俺も若かった。

 大学で聞き込みをした中井たちだったが有力な情報は得られなかった。その中で河井春奈という比較的仲が良かったのではないかという女が浮上したが、ゼミやサークル、バイト先、自宅からもすでに姿を暗ましていた。千葉の実家にも姿はなく、両親の反応から匿ってはいないことはわかった。
中井たちは斉藤由美ら三人の自宅を漁ることにした。
 慶応義塾大学の裏手は閑静な高級住宅街と昔ながらの商店街が同居していて、そのいかにも歴史ある東京という風景が中井には虫唾が走る思いだった。金を持っている奴にはろくなのがいない、今では口にしなくなったが一時期は口癖のように吐き捨てるように言っていた。
 住宅街の中頃に斉藤由美の実家はあった。まず、その背丈の二倍はあろうかという真っ白な外壁に中井は蹴りを入れた。
「な、何してるんですか?」
「あ? ムカつくんだよなんかな、こういうでかい家」
「見られたらまずいですよ」
「誰も見てないからやるんだ」
「く、暗いですね、何かあったんですか?」
 中井は唾を吐くと正面、玄関へ向かいインターホンを押した。間もなく女の声が返ってきた。
「はい」
「あ、警察ですが、斉藤由美さんのお宅ですね?」
 中井はカメラに向けて手帳を開いた。
「またですか。もうお話しすることはありません」
「私らの他に刑事が来たんですか、何を聞かれました?」
「何って、ご存知でしょう? 同じことをまた言わせるんですか」
「私らとは違うんですよ、担当が、何を聞かれました?」
「……由美の友人関係やら一日何をしてたかだの、一体、そんなこと聞いてどうするんですか、由美は、由美は、殺されたんですよ! もう、放っておいてください!」
 インターホン越しにすすり泣く声が聞こえた、が、中井は何も変わらなかった。
「ご両親とは仲が良かったんですか? 交友関係はご存知でしたか? 男友達とか、事件当日は何をしてましたか? 最近何か変わった様子は? 一緒に住んでいたら顔色ぐらい分かるでしょ?」
「……」
「中に入れてもらえませんかね、前に来た刑事は入れました? 由美さんの部屋調べさせてください、あなたの娘さんのように、次に殺される娘を増やさないために、ねえ、荒らしたりしませんし、もちろん立ち会ってもらいますから」
「……帰ってください」
「奥さん、殺人事件なんですよ、協力してもらわないと困るんですよ」
「帰ってください!」
 それでインターホンは切れた。
「……中井さん」
「端から期待してねえよ」
 次に二人は京急本線で横浜へと向かった。
 比較的車内は空いていたが中井は座ろうとしなかった。時折差し込む強い陽の光に顔をしかめ、右手に握られたタバコに力を込めた。セブンスターだった。死んだ叔父が吸っていたのもセブンスターで、影井はそれが懐かしかった。
 京急蒲田を過ぎた辺りで影井が言った。
「ところでいつも思うんですが、あの喫茶店の人たちに捜査の進行状況を聞かれてしまってもいいんですか?」
「あ? ああ、ありゃ身内だ、外には洩れない」
「え? どういうことです?」
「話すと長い」
「じゃあ短めにお願いします」
「お前なあ」
 と言って中井は舌打ちをした。
「……俺の元相棒の店なんだよ」
 横浜駅で降りた二人は平沼踏切を越えた所にある小柳隆のアパートにいた。東急ハンズの側にある不動産屋でカギを借りたときに、若者の雑踏で苛立ちを増した中井が暴れないかと影井はハラハラした。不動産屋のオヤジは聞き訳が悪かった。
「小汚えアパートだな。やっぱ貧乏だったのか」
「だから言ったでしょう、親が無理して大学へ入れることもあるんです」
「見栄を張りてえだけだろ」
 二階の一番奥が小柳隆の部屋だった。
 カギを開けた中井は土足で上がると、手袋をはめて部屋を物色し始めた。
「何してる、お前も何か手がかりになるようなもん探せ、メモとか、ノートとか」
「あ、はい」
 便所、風呂の換気口、流しの配水管まで一時間以上探したがそれらしいモノは見当たらなかった。
「通帳を見た限りでも、格別お金には困っていませんね。仕送りも十分にされてますし。何か特別に貯金して欲しい物でもあったのでしょうか」
「わかんねえな、こいつは坊主じゃない方だろ?」
「ええ、そうです」
「だとすると協力していた側かもしれない。主犯は坊主か女だな。友情のために命落とすか、バカが」
「……」
「行くぞ」
 中井はタバコを取り出し最後の一本を咥えると、アパートの二階からクシャクシャになったセブンスターを放り投げた。影井にはそれが目に付いてならなかった。
 元住吉駅を出ると西日が眩しくて中井はイライラしたが影井は平気そうだった。
 横浜銀行の角を右に曲がり法政第二高が見え始めた所にある十二階建てのマンションが高田憲次の自宅だ。ファミリーマンションだった。
 契約者は高田憲次の父である高田浩二で、そこに高田憲次が一人で住んでいた。
 不動産屋が同行し、オートロックを開けた。
「さ、こちらです」
「は、オートロックのでかいマンションにガキが一人住まいか」
 中井が見上げた所にちょうど監視カメラがあった。中井は舌打ちをした。
「やっぱりこんなもんなんですかね……」
「……さあな、金持ちの多い大学なんだろ、普通じゃねえよ」
 エレベーターで九階まで上がると、その一番手前が高田憲次の部屋だった。
「今、カギを開けますので」
「ああ、兄ちゃん、中に入らないでいいからな」
「え」
「ここからは警察の仕事だ。ドア前でも見張ってろ」
「は、はあ」
 玄関からまっすぐに廊下が伸びていて、左にトイレと風呂、右に三部屋、廊下の先にリビングがあった。その右奥がキッチンになっている。真っ白な壁紙と整頓され尽くされた部屋に中井も思わず靴を脱いだ。
「ここに一人で住んでたのか? 誰か他にいたんじゃないか?」
「中井さん、寝室に来てください、ノートが」
ベッドルームは八畳ほどで、ダブルベッドが部屋の半分を占めていた。サイドテーブルに置かれたノートを中井は開いた。そこには一回目の犯行から事細かに名前、人数、時刻、金額等が書かれていた。
「こいつ、バカだな、ここまで詳細に書く必要ねえだろ、捕まったら即余罪がでるじゃねえか、よっぽど捕まらない自信があったのか、それともただのバカか」
「犯行はほとんど二人で行ってますね」
 影井は横から覗き込んで言った。
「全部で十二、十三回か、見ろ、始めの二回はタカシ、小柳隆が加わっている、今回の十四回目まではそれから一度も加わっていない、一回目は、先月の初め、一月半ぐらい前か」
「女が違いますね」
「始めの内は大体交互だな。ハルナってのは河井春奈だろ、四人でやってたってわけか、始めは、途中でこの二人が抜けるのか」
「小柳隆が今回協力したことから、仲間割れのようなものではなさそうですね、おそらく河井春奈も途中で怖くなったんじゃないかと」
 中井は顎を掻いた。
「あり得るな、三人と連絡がつかなくなって、しょっ引かれたと思って、自分だけでも捕まらないようにと逃げたんだろ」
「あ、中井さん、ここに、百って書いて丸がしてありますが」
 ノートの左下に小さく、百、と殴り書きしてあった。
「百、百回? 百人?」
「百万?」
「百万、それが一番可能性のある百か、百回、百人相手にする前に百万は貯まるな、こいつ、百万貯めたかったのか、そんなことが動機か?」
「……これだけの家に住めれば、小遣いには不自由してなさそうですけどね」
「……小林隆の身辺を調べた方がいいかもな、身内に不幸があって、デカイ病気とかな、治療費が百万かかるとかそんなことかもしれない」
「それなら中井さんが言っていたように金を貸すのでは」
「金の貸し借りで容易く関係が壊れることをガキなりに知っていたのかもしれないぞ、それならば力を合わせてってんで、とにかく考えても分からねえ、他に何かあるかもしれない、探そう」
 中井はリビングとキッチンを探し、影井は書斎らしき部屋を探した。本棚に並んだ全ての本のページの隙間を調べても、本棚の裏側を調べても、ゴミ箱の中を調べても、その部屋からは何も出なかった。
「影井」
「はい」
「隣の部屋にパソコンがある、俺はよくわかんねえから、調べてくれ」
「はい。あ、中井さん」
「なんだ?」
「腐心、てどういう意味です?」
「なんだ急に?」
「いや、ここに」
 腐心という言葉が書かれた色紙がポプラの額に入れられ壁に掛けられていた。
「何かをしようとして、考え悩むって意味だろ、あんまりいい意味じゃない、変な言葉が好きなんだなこいつ」
 パソコンのパスワードは設定されていなかった。インターネットも常時接続だった。
 メールの中に差出人不明のものがいくつかあった。それらは全て文字化けしていた。
「中井さん!」
「何かあったか?」
「これを見てください」
「これがどうした?」
「差出人が友人や知人ではないんです、高田は几帳面な性格のようで、住所から携帯のメールアドレスから、とにかく細かくすべての情報をアドレス帳に登録しているんです、企業からでもない、差出人の不明なメールなんです」
「だからどうしたんだ? こんな変な記号だらけの意味分かんねえメール、ただのイタズラかなんかだろ」
「普通ならDMやイタズラで済むんですが、返事をしているんですよ、高田は、このメールに」
「返事? あいつには読めたってことか?」
「返事を見てください」
 影井は送信の項目をクリックした。メールを開く。
「……同じじゃねえか、変な記号だらけで」
「おそらく、一度見たら二度と見られないような仕掛けがしてあったんでしょう。高田のことですから、フリーメールも複数持っていると思いますし、いったん署に戻って詳しく調べてもらいましょう」
 中井は下唇を噛んで、舌打ちをした。
「そういえば、中井さんの方は何か出ましたか?」
「いや、台所には調理用具が山ほどあったがな。見た感じではおそらく高田憲次が料理好きなんだろうが、一応近くの家政婦協会を当たってみよう。掃除は家政婦がやっていたかもしれない」
 中井は腕時計を見た。
「署に戻るか」

 捜査は難航した。ラブホテル殺人事件の犯人は一向に手がかりを示さなかった。目撃者は一人もいなく、ホテルからの足取りは一切つかめない。犯人の顔を見たであろうフロントの女は通報時には姿がなく、その日の午後に自宅で殺されているのを発見された。死亡推定時刻は午前十一時で、その間の女の行動もまったくつかめなかった。
 一方、中井たちもパソコンや被害者の身辺からは新たな情報は得られず、河井春奈の行方も過去に接点のあった者たちをしらみつぶしにあたったが、影すらつかめなかった。
「中井さん、もしかして」
「ん、ああ、もう死んでるかもな。この四人は、始めから狙われていたのかもしれない。まったく、ふざけてやがる」
 捜査本部は公開捜査に踏み切った。全国に情報提供を呼びかけた。

テレビには下らない情報番組が映っていて、セレブ御用達のレストランをランチで楽しむという特集をやっていたが、中井はそれを見るではなくただ横になって眺めていた。タバコの焦げが目立つ枕代わりの座布団はとっくの昔にぺしゃんこになった。
腹が減ったのでしぶしぶ起き上がると中井は頭を掻きながら台所へ向かった。足の裏に「生本プレイ今すぐお電話!」と書かれたビラが張り付いて、それをクシャクシャに潰すとゴミ箱に放り投げた。珍しくストンときれいに入った。流しには焦げた鍋や油まみれのフライパン、食器等が乱雑に置かれていて、冷蔵庫を開けると振動でそれらがカタカタと音を鳴らした。中を覗いても食材は何もなかった、いつ買ったか分からないイチゴジャムだけが虚しく片隅に置かれている。今から文化センター側の喫茶店へ行ってナポリタンを食べたいかといったらあまり食べたくない、よく考えたら味なんかどうでもよくなってきていて、自分でも何がしたいのかよく分からなかった。ただ一つ確かなことは、俺は俺しか信じられない人間になってしまったということで、それが良いのか悪いのかすらも分からない、ただ、少なくとも、影井にだけはそうなってほしくなかったしまた、今回の事件で死んでほしくなかった。
中井は苦笑した。今回の事件で影井が死ぬんじゃないかという一瞬の妄想が情けなかった。また、その米粒ほどの不安が自分を突き動かしているようで、あいつはバカだが情と根性はある、あいつが死ぬときは俺が死のう、娘に対してもそんな思いは抱いたことがなかった。ちっと舌打ちをして、歯が痛え、と呟くと中井は散歩がしたくなって、とりあえず、一服した。
ジャージの下に焦げ茶のストライプTシャツと健康サンダルという出立ちで中井は近所の商店街に立ち寄ると、出来立てのコロッケパンを買って食べながら噴水のある大きな公園へと向かった。
平日の午後で日差しも強いせいかあまり人はいなくて中井には都合がよかった。
噴水の側のベンチに座り、時折飛んでくる噴水のしぶきが心地よかったが向かい側のベンチに座っているサラリーマン風の男が気になった。外回りで一息ついているにしては色が白すぎる。事務職をリストラされてハローワークに行ったがどれもあまりパッとしなくて肩を落としている、そんな感じか。あんな覇気のない目つきをしてたんじゃどこも採用しないだろう。高身長と痩せた体型が余計にそれを目立たせる。憐れな男だと中井は思った。
幼稚園の制服を着た女の子を連れた若い母親が目の前を通り過ぎて、そういえば娘もあんな時があった、いや、あんな時しかほとんど見てないなと思ったら少し寂しさを覚えた。今から十四年前の三十五歳の時、中井は妻と娘と別れた。親権は自ら妻に譲った。
中井は立ち上がると当てもなく公園内を歩き回った。公園の正面に噴水広場があり、奥には芝生と林道、散歩道、ジョギングロードが続く。人口の小川もあり、そこにヤゴを根づかせたといって地元の新聞社が数年前に取材をしていた。
ポケットに手を突っ込みながらタバコを吸って歩いている制服姿の高校生らしき男子学生三人とすれ違ったが、制服警官時代はよく注意したなと思うだけで特に気にもとめなかった。ただ、ああいう輩に因縁つけられたら腕の一本ヘシ折るぐらいの力はまだあるそこらのオヤジとは違うと思うと妙に嬉しくなったが、刑事だから当たり前かと思うと自分がおかしかった。
公園を一回りした後、中井は古本屋に立ち寄った。海外文学というプレートの貼られた棚を眺めていたが特に海外文学が好きなわけじゃない。そもそも本は読まないのだが、学生の頃に読んだゲーテの「若きウェルテルの悩み」がなんとなく気になった。これを読んでから本が嫌いになった。
反対側の棚に回ると、そこには懐かしい顔があった。
「小林」
「ん、お、お、おお、中井じゃないか、久しぶりだなあ、しかもこんな所で会うなんて」
「帰ってたのか」
 小林徹は中井の大学時代の友人で、就職すると地方を転々とするようになった。
「お前の結婚式以来だっけ?」
「バカ、五年ぐらい前に仕事でこっちに来たことがあっただろ。事件で、ほとんど話すことが出来なかった」
 小林は立ち読みしていた本をパタンと閉じると口を大きく開けて、ああそうだ! と言った。
「そうだったな、思い出した。お前は、なんだ、とうとう首になったのか?」
 好き勝手やっていることだけは記憶しているのかと思って中井は苦笑した。
「相変わらず一人なのか?」
「余計なお世話だ。くだらないことは覚えてやがる」
「飯でも食わないか? 暇なんだろ? こんな所うろついてるんだから」
 シャツをめくり上げて腹を掻きながら小林は言った。
「忙しいが付き合ってやるよ」
 中井は小林を連れて行きつけの小さな居酒屋へと向かった。
 商店街の端の路地を入った所にある「なかまち」という色褪せた暖簾をさげた店に二人は入った。店先まで続く石畳の小道が中井はたまらなく好きだったが、それを口にしたことは一度もない。
「いらっしゃい! あ、中井さん、久しぶり、珍しいね、連れがいるなんて」
「ああ、大学の同期だ。テーブル借りるぞ」
 二人は席につくと、まず冷えたビールで乾杯した。
「どうだ、仕事の方は」
 中井の無精ヒゲについたビールの泡が小林にはおかしかったが触れずに言った。
「いやあ、しばらくは移動はないと思う。五十になって、俺もようやく落ち着けるよ。いつまでも技術指導員じゃきつい、やっと、課長職だ」
「そうか、よかったな」
「暇な時はこうやって飯でも食おう、学生の頃のように。まあ、お前にはなかなかそういう時間はないかもしれないが」
「ああ。でも、お前も家族がいるだろう、いいのか、夕飯の支度でもして、カミさんが待ってるんじゃないのか?」
「構わねえよ、息子も帰ってくる時間バラバラで、揃って食事をすることなんて滅多にない、それに、お前に会えたんだ、言えば女房も分かる。でも珍しいな、お前が一日休みなんて。おっと」
運ばれてきた枝豆を食べながらしゃべっていた小林は口から枝豆を落っことした。
「いや失敬。あれか、今は暇な時期なのか? 俺のイメージだと夏は変な事件が多そうだけど。全裸で女のケツを触ってまわるとか」
「いねえよそんなやつ。今、捜査が煮詰まっててな。だけど、俺には、嵐の前の静けさというか、近い内に何かが起こる、そんな予感がしてならない。だから、今の内に休んでおくことにしたんだ。本部も方角を見失って荒れてるからな、無駄に近づかない方がいいんだよ、とばっちりを食う。……そう、お前の言う通り、夏は確かに変な奴が多いよ。警官が狙われることもある」
 小林はビールを一本頼むと、そうか、と言っておしぼりを揉んだ。
「お前は鋭いからな、昔から。そのせいで人より気苦労も多いんじゃないか? 覚えてるか? 学部で、俺たちのヒロインだった恵美ちゃん、ちょっと元気がなくってさ、彼氏とケンカしたのかとか、お腹の具合が悪いのかなんて周りは言ってたのに、お前が、彼氏が無断で中出ししてそのまま妊娠しちゃったのか、なんて言うもんだから周りは笑ったけど実は図星で恵美ちゃん泣いちゃって」
 中井はタバコを取り出すと一本咥えた。
「お前はくだらない昔話をいつまでも覚えてるな」
「すごい怒ってたな」
「あれから一切口利いてくれなかった。滅多なこと言うもんじゃない。勉強になった」
「ははは、失敗は成功の元か。糧になってるならいい思い出だ」
 スーツ姿の男二人組みが店に入ってきた。店主が威勢のいい声をかける。中井には何度か見たことのある顔だった。同じようによく来ているのだろう。
「……佳代は、元気か?」
 佳代子、中井の別れた妻で、小林と同じで同期だった。よくつるんで一緒に遊んでいた。
「最近は、会っていない」
「娘にもか」
「……ああ」
「会ってやれよ」
「……」
 中井は刑事になってからタバコを吸い始めた。今ではヘビースモーカーだ。
「子供ってのは、親に会いたいもんさ。俺は転勤族だから、親父やお袋にほとんど会えなかった。会おうと思えばそりゃ会えたんだが、忙しくて億劫でな、そうしてたら、親父に死なれた」
「……」
「死に目にも会えなかった。お袋に泣かれたよ、なんで五年にいっぺんでも帰ってこなかったんだって。俺は笑ってしまったよ、気づいたら、十三年も帰っていなかった」
「……実家は、熊本だったな」
「ああ、お袋の所には今、妹夫婦がいるから寂しくはないだろうが、これからはちょくちょく帰るようにする。土産買ってきてやるよ」
「いらねえよ」
「遠慮するな。まあ、だから、娘には、お前の方から会ってやれ。別れてるんだから娘から会いに行くのは佳代に、母親に後ろめたいって思うんじゃないか? お前から会いに行ってやれ、きっと喜ぶ。親に会って喜ばない子供はいない、まあ、忙しいとは思うけどさ」
 灰皿にタバコを押しつぶすと中井は、顎の辺りを撫でながら言った。
「……顔に傷こしらえた、マル暴みてえな男に会いたいか、年頃の女が、変な誤解を招くってんで嫌がるだろ」
 口の右下から顎にかけてと、左のこめかみに深い傷跡が残っている。眉毛も、その部分だけ切れたように生えていない。
「そう言われたのか?」
「いや、そうじゃないが……」
「らしくないな、弱気なんて。いつもの無謀なお前でいればいい」
 小林が笑ってみせると、うるせえ、と中井は殴るマネをした。
「ヤバそうなんだろ?」
「え?」
「今回の事件」
「……そう感じるだけなんだがな」
「なおさら会っとけよ、そういう時は。死んだら後悔も出来ないぞ、お前の勘は悪い方によく当たる」
「……そう、だな」
「中井、死ぬなよ、まだ人生は半分だ」
「へっ、俺はそんなにやわじゃねえよ」
 ははは、と笑うと小林はポケットに手を突っ込んで、そうそう、と言って一枚の紙切れを取り出した。
「さっき、変な男に会った。いきなりこれを差し出して、これから会う人に渡してほしいと言うんだ」
「なんだそりゃ? 新手の宗教か?」
「俺も始めは断ったんだが、これから会う、知人、仕事の同僚や近所の顔なじみではなくて、旧知の友と呼べるような腹を割った付き合いをしている人に再会することが出来たら、その時にその人に渡してほしいって言うんだ、変わってるだろ? ちょっと面白そうだったんで、受け取った。そしたらこの通り、お前に会えたってわけだ」
「占い師かなんかか?」
「いや、普通のサラリーマンみたいだった、スーツ着てたしビジネスバッグ持ってたな。まあ、でも、言われると普通ではないような変な奴だった」
 中井はその紙切れを手に取った。ワープロでこう書かれていた、ムスメさんはお元気ですか?
「すごい偶然だろ? お前には娘もいるし、な、やっぱり、占い師かなんかの宣伝かな」
「……だろうな」
 タバコが、やけにまずかった。

 十五年前のあの日、俺はそうなることを知っていた。何日も前から分かっていた、感じていた、俺には、見えていた。親子は殺された。俺の目の前でだ。助けることが出来なかった。自分を信じることができなかった。母親は黒く長い髪が印象的で、笑顔が忘れられないくらいに優しかった。その息子は俺の娘と同い年だった。母親は大企業の社長の愛人で、一方的に関係を断ち切られたことを理由に慰謝料を迫った。社長の側近に殴られ被害届けを出した。話を聞きに出向くと、俺の目の前で、親子は口封じのために轢き殺された。俺が取り調べたその社長は救いようのないどうしようもないバカだったが、金で、不起訴になった。マスコミにも一切洩れなかった。それからすぐに俺は同じ車で轢き殺されそうになった。顔の傷はそのときの傷だ。複雑骨折した足にも傷跡が残っている。それで俺の相棒が社長と側近をボコボコにして警察を辞めたんだ。一切事件にしない代わりに、懲戒免職だ。そのときに相棒は俺に言った、お前は人を救える人間だ、自分を信じろ、そうすればお前は誰よりも人を救える警察官になれる、辞めるのは俺だけでいい、と。俺はその言葉を信じて、佳代子に離婚を迫った。次は死ぬつもりで親子を助ける、死ぬために生きる父を持った子供は不幸だ。だから離婚した。佳代子は納得しなかった。当然だ、俺も納得していないんだからな。だが俺はもう、後戻りは出来なかった。
 中井は体を起こすと傍らにあった灰皿を思い切り壁に投げつけた。くだらないことばかり、覚えてやがる。

中井は日の出前に新宿署に出てきていた。浅い眠りに腹が立った。
鑑識員のその男は、露骨に驚いた表情をした。
「どんな気まぐれだ? まだ朝にもなってねえってのに。荒れるぞこりゃ」
「黙れ。羽田、これを、調べてくれないか?」
「なんだこりゃ」
 中井から紙切れを受け取ると、羽田はそれを頭の上にかかげて、蛍光灯に透かして見ているようだった。
「これがどしたんだ?」
「あんまり触るなよ、実は、指紋をとって調べておいてほしいんだ」
「おっと、なんかの証拠か? だったら始めからちゃんと包んどけよ」
「いや、俺の指紋と、友人のも既についてる、証拠ってもんじゃないが、気になるから調べておいてくれ、じゃあ、頼んだぞ」
 そう言って後にしようとした中井を羽田は、
「おいおいそれだけかよ、で、何処に行くんだ? 帰るのか? すぐ済むかもしれないからコーヒーでも啜って待ってろよ」
 と呼び止めたが中井は振り返らずに片手を挙げて、帰って寝る、とだけ返事をした。羽田は、やれやれ、と呟いて冷めたコーヒーを口にした。

 昼過ぎに文化センター側の喫茶店で中井は影井と落ち合った。
「中井さん! 飯食ってる場合じゃないですよ!」
「あ? 飯ぐらい静かに食わせろよ、なんだ?」
 ナポリタンにフォークを通していた手を止めて中井は言った。
「鑑識の羽田さんに何か渡しましたよね? それから出た指紋が、ラブホテルのと、一致しました」
「なに?」
 中井は慌しく立ち上がった。 
「東口交番前の巡査が被疑者らしき男を見ていて、似顔絵もできました」
 影井はカバンの中から四つ折りになった紙を取り出して中井に手渡した。
「こいつ……」
 それは噴水で見かけた男だった。

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