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《ショート》『半径1キロの旅。』


その日、私は旅に出る事にした。

といっても、自分の体を癒すための温泉でもなければ、ましてやキラキラと輝く海のあるハワイでもない。

『ちょっとそこまで。』の旅。
自分の身体から半径1キロの旅。
私は、少し迷ってから
何も持たずに、旅に出た。

必要以上に、近寄ることは苦手。
必要以上に、遠くなることも寂しい。
私はそんなこと考えながら歩く。
風が吹いて、マフラーに顔をうずめる。
猫が前を横切る。一瞬、目が合う。
フン、と息を吐いて猫は高い塀の上にしなやかに消えていった。

例えば。
緩やかな坂道の真ん中で、私は思う。
例えば、もっと人生には『余白』が必要なんじゃないかしら。
直線的な言葉で、必要なものだけが
色々とありすぎるんですよ、と
ネオンが輝く街並みの中
誰かに呟くように、私は思う。

坂道の真ん中から、夕日が沈んでいく。
忘れ物みたいな洗濯物が揺れる。
坂道をゆっくりとおばあさんが登ってくる。
お互いに小さい会釈して通り過ぎる。
どこからか夕ごはんのにおいがして
家路を急ぐ子供の笑い声が聞こえる。

『そろそろ帰れば?もう、気が済んだでしょう。』
気が付けば、そう言いたげに先程の猫が私を見下ろしていた。

私は、猫を見上げながら
小さい声で
『わかっていますよ。』と独り言を言う。

どんな事を考えたって、
私は実は幸せなんだ、ということくらい、
本当はわかっている。
わかっているから、私は旅に出るのだ。

身体から、半径1キロの旅。
自分に還るための、旅。


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