文章(文脈)が読めない人は損なのか

こんな記事が出てました。未読の場合は、時間が読んであれば読んでいただいた上で、僕の記事を読んでいただけるとリンクしやすいかなぁと思いますが、別に読まずともいいような記事にしようとは思ってます。

まず、タイトルだけで判断はできないですし、内容を読まないとダメだなぁというところで、いや、そもそも文章が読めないのであれば、この記事すら読めていないのではないか、と。

それより、何よりも、該当記事が掲載されているJB pressのスマートフォン用サイトの読み込ませ方がいい感じだったんですよ。

PCで読む分には次ページへ進んでいく(クリックしていく)のは仕方ないかなぁと思う部分ですが、スマートフォンでも同じ様にされると、結構面倒なんですよね。

それを下にスクロールしていくたびに自然と次ページへ遷移する形で構築してあり、さも1ページで読んでいるかの様な読者体験を与えてくれます。

良いページ体験でした。


で、話を戻しまして、文脈云々なのですが、読んでいて心が痛かったのが、メールを読めない人がいるという山口正洋氏の指摘。

文章が読めないっていうのは、どういう人に多いのかを考える必要があるのですが、感情的に反応しがちな人だな、というのは実感値です。統計的にデータがあるわけではないので、そうでないという実感の人もいるかと思います。

ただ、感情的に反応する人は得てして、単語にすごく敏感なので、自らの抱く悪いイメージの単語が出てくると、えらい形相で迫ってきたりします。

僕の大好きな映画、Back to the futureの主人公であるマーティ・マクフライは「chicken(臆病者/腰抜け)」と言われることが大嫌いで「Nobody calls me chicken!(僕を腰抜けって呼ぶな)」とついつい反応してしまいます。

マーティはどんな状況、場面であろうと、文脈など関係なく、自らを腰抜け呼ばわりされることを全力で、それこそ全身全霊をもって否定しにかかります。

感情的になる例で(僕の中では)最たるものだと理解しているのですが、物語の中で、マーティーはそれが原因(つい反応してしまったこと)で不利な状況に立たされたり、追い込まれるような環境になってしまいます。

もちろん、物語における抑揚をつける意味で使われているのは理解できるのですが、現実世界の僕たちが目の当たりにしているものとなんら変わりはないのではないでしょうか。

僕の周りにも、マーティーとは言わずとも、ついつい"文字"や"単語"にだけ過剰とも言えるぐらいの反応を示す人がいます。

だいたい2パターンいて、1つはルール化されている様な人。それこそ、どういう文脈で、誰がどんな場面でそれをいうのかを考えている人。

2つ目は意識せずに、(マーティーの様に)どんな場面であろうと、自らの不利益になることが目に見えている場面であろうと関係なく(本人はその状況が見えてない中で)感情を一気に沸点まで持ち上げる場合。

1つ目のパターンの人は、文章が読める人であり、文脈を理解した上で、ある程度演じている部分もあります。あえて、自分の立場をわかりやすくするためにしていることもあると僕は思っています。

しかし、2つ目のパターンの人は、マーティー然り。決して得することはないでしょう。なぜなら、その人は、その言葉や文字がどういう文脈で使われているのかを理解できていないから。


確かに存在する文字や言葉に"だけ"過剰に反応する人ってのがいますが、じゃー日本の根幹教育である「国語」は間違った方向に進んでしまったんでしょうか。

思わず文部科学省のサイトから学習指導要領を見に行ってしまいました。

【昭和26年】

【平成元年】

【現在】

まぁ、時間があるときに少しずつ見比べてみるとわかるのですが、昭和26年から30年おきに国語における目標を総括的にみると、優等生的なイメージです。

いや、もちろん、他の年代においても同様の見え方がするのですが、完全にドラえもんに出てくる出木杉くんをイメージするのがわかりやすいんですよ。

きちんと話を聞けて、クラスの中で討論になれば自分の意見をビシッと言えて、興味のある分野に関する本をたくさん読んで、学級新聞や文集をきっちり書き上げられる...

御多分に洩れず、全てにおいて出木杉くんができていることですね。

出木杉くんレベルまでとは言わずとも、きちんと文脈を読むことができる様になるためにはどうしたらいいのでしょう。

そもそも、文脈が読めない人が多いって本当なのでしょうか。そうなると、村上春樹などを筆頭に、文筆家が生まれたことすら怪しくなります...


おそらく、文字や単語・言葉だけに反応してしまう人は、文章の中でそれを使われていることを見たことがないか、実感したことがないことが多かったのではないか、と。

つまり、interactive(双方向的)なコミュニケーションというか、協調するということが若干苦手なのではないかと思うんですね。

一方的に言われること、いうことをコミュニケーションのあり方として身につけて、もしくはそういう環境で強制的に身につけさせられた結果、文脈を読むという高度なスキルを身につけるのではなく、文字や単語にだけ反応する様に最適化されてしまったのではないか、と。

過去に同調と協調の違いについて考えた記事にも通ずるのですが、これは日本の体育会的な教育の悪しき風習だと思っていて、上意下達を良しとし、立場でマウントすることで相手の行動を制御しようとする人は一定数存在します。

それは、普通という言葉を多用する人にも見られることです。

あまりにも均質的なことを立場や年齢が上の人間があまりにも求めすぎた結果、行きすぎた受け取り方をしてしまった人たちは、あまりに文脈を読みすぎると不利益を被ることがわかってきたので、仕方なく、その環境に最適化してきた結果なのではないでしょうか。

だとしたら、あまりにも不幸な感な結論ですが、今後、僕たちの生活はオープンなものになっていくでしょうし、今はその道半ばです。

オープンになればなるほど、多様な状況や環境、つまり色々な背景を持った人やそれに対して悩みを抱える人などとコミュニケーションをとっていくことが求められます

その中では必然的に文章や文脈を読めることが求められるでしょうし、それが前提になっていくと思います。そうなった時に、言葉尻や揚げ足をとることしかできない人は、もしかしたらコミュニケーションを取れずに孤独になっていくのかもしれません。

タイトルに戻りますが、結局、文脈を読めない人は損なのです。圧倒的なまでに損をしてしまう可能性が高い。だから、少しずつ、本を読みましょう。

この文章をここまで読んでくれる人は、文章が読める人たちなのかもしれませんが、もし、周りに文字や単語、言葉にだけ反応してしまう人がいたら、自分のオススメの本を紹介してあげてください。

そして、それについて感想を述べあって下さい。その意見を掘り下げて見て下さい。そうすることで、自分がなぜ、そう思ったのかという文脈が発生することになります。

みんなで本を読んでハッピーになりましょうよ。


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