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がんばるってなんだろう

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

「がんばる」って言葉が苦手なんですよねぇ…。

ぼくはネット上に標榜している通り、「意識ひくい系の打たれ弱いモブキャラ」ですから、がんばるって言葉が苦手なこと以上に、そもそも「がんばる」こと自体が苦手です。

がんばるの尺度って人によって違うじゃないですか。

他人から要求されたことを100%以上の成果を伴って成し遂げることをがんばることだって考えている人もいれば、上司等の偉い人たちから言われる理不尽な要望に応えようとする姿勢をがんばるってことだと認識してる人もいたりして。

そんなにがんばることって大事なのかってことを考えてみたく成ったので #ひとり会議 してみることにしました。

興味がある人はお付き合いください。

「がんばる」と個人の成長の関係

まず、がんばることができない、できればしたくない側の人間からすると、「がんばる」ことってのは、時に個人の成長を阻害することがあるのではないかと考えていたりします。

要は、外発的な、誰かに言われて「やらなければならない状況」に追いやられて取り組んでしまうような「がんばり」は本質的な成長とは無縁なんじゃなかろうかってことですね。

だって長続きしないもん。誰かに言われてやるようなことって…。

いや、仕事とかってなればさ、上司とか同僚から言われてやらなきゃいけないこともありますよ。

会社員の嫌なところとして「自分が嫌だと思っていたり納得できていない仕事もやらなきゃいけない」ってのがあると思いますし、フリーランス的な働き方をしている人たちは「仕事を選べる」と思ってる人も少なくはないでしょうが、これ、ステレオタイプ的に捉えると間違えますよ。

フリーランス的な働き方をしていて「仕事を選べる」人ってのは、相当に職務遂行レベルが高く、スキルや実績もあるからこそ、そういった高みに到達できているわけで、スキルも何もない人が急に「フリーランスで仕事を選ぶんだ」って動いたところで、そんなことは実現しませんよ。

仕事を選ぶ側になるんだってことをモチベーションとして、他人からの強制力に応じて取り組むんじゃなく、内発的な動機を見出してから他人からの強制力を受けることができるのであれば、長期的には成長できるかもしれません。

いずれにしても、他人から「がんばらなきゃ」って意味のわからないマウント共に繰り出されるプレッシャーほど不要なものはありません

あえて守護を大きくしますが、日本社会特有の「がんばる」美学ってのは、個人に過剰な負担を強いているのかもしれませんから、他人に「がんばろうね」とか囁いてる人たちは猛省してください。

個人の理想と要求に対する満足度の追求

綺麗事を言ってしまえば、大切なのは自分らしさを追求することだってことになります。そりゃそうでしょう。自分らしさを追求するってことは、その人の生き方や生き様を決めるってことですからね。

生き様を決めるってことは死に様を決めるってのと同義だと思うのです。

人がいつか死ぬことが前提ですから、その前提に邁進していく姿ってのは、生き様であり死に様でしょう。

その方向が自分のために向いているのか、他人のために向いているのかの違いはあるのかもしれませんが、それぞれの価値観に基づいて「頑張る人」もいれば、「マイペースな人」もいるってことなんだろうと。

これってのは、つまりそれぞれの生き方に価値があるってことに集約されてしまい、それで片付けてしまいがちなのですが、どうやら社会ってのはそれではいけないらしい

周囲の基準に合わせるのではなく、自分の満足度を大切にすることが重要だってのは理想論として理解はできるものの、そればかりを優先してしまえば人と人とが織りなす社会形成なんてものはできません。つまり、会社組織なんてのは成り立たなくなってしまうってことです。

どうしたって個人の努力を図る指標が成果や結果に偏中してしまいますが、それをしないと会社は売上もでないし、経費を削減できません。

個人の理想と要求に対する満足度が完全に合致しているのなら、文句の言いようもない素晴らしい関係が構築されていると言えるのかもしれませんが、それが実現できている会社組織など一握りなはず。

そうなってくると課題となるのは会社や組織の評価制度ってことになります。個人の特性に合わせた過程までを含めた評価をすることができるのなら、それよって救われる人が多くなるでしょう。

でも、それは現実的じゃありません。

会社ってのは営利団体であって学校ではありませんから。

自分らしい生き方の追求

完全に自分らしい生き方を礼賛したいいと思っていたのに、それを追求したところで社会的に評価を得ることは決して容易な道ではないことが浮き彫りに成ってしまいました。

いや、個人が自分らしい生き方を追求することと、社会からの評価が合致しているのであれば、それほど有益なことはないんでしょうけど、それを優先した先に幸福があるかどうかは別問題です。

もしかしたら、自分の価値観に基づいて生きることが一番大切だと思っていたのに、他人の価値基準を満たしてみた瞬間に充足感を味わうことだってあるかもしれません。

何をがんばるのか。どうがんばるのか。どこでがんばるのか。

言葉遊びのような気がしないでもないですが、詰まる所は取捨選択、選択と集中だってことで帰結してしまいそうです。

「がんばる」ことと「がんばらない」こと、両方のバランスを取ることが重要だとは思いますが、その頑張りどころを誰の基準で決めるのか。その決定権が自分にあるのかないのか。ないのであれば、そこに自分という人格が関与することに意義が見出せるのか

そんなところなのかもしれません。

ただ、評価する側に求めたいのは、がむしゃらに「がんばる」ことを美徳とするのではなく、その人にとってのがんばりは他人にとって3/10ぐらいのものかもしれないけれど、当人にとって9/10なのかもしれないって想像力を働かせることです。

自分らしく必死に生きることができれば、それぞれに幸福を味わえるのかもしれませんが、それができているのであればこんなことを書かないわけで。

難しいですな。

おわりに

がんばることが苦手なだけであって、嫌いじゃないんですよね。

何をがんばるのかを自分なりに定義できればいいので。

その尺度が他に人と比較すると狭いってのは言えるかもしれません。だから評価されるような事態にならないんでしょうね。

はは…

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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