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スポーツ業界で働いていたことが嘘ぐらいにWBCが無味無臭となってしまった件

どうも、ゑんどうです。

大谷翔平選手の異次元にも程があるほどな主人公っぷりのまま優勝を飾ってしまい、大いに話題をさらってしまった感のあるWBC(World Baseball Classic)が終わって、少し経過しました。

今大会の主人公であると事前認識をされていたのにも関わらず、寸分違わぬ活躍をしてしまえるような天賦の才と過酷な訓練を支えてきた努力には敬意を表すどころか、嫉妬すら抱く隙も与えないほどに完膚なきまでに叩きのめされた心地になってしまいます。

おまけに試合前にチームメイトたちに投げかけた言葉も、相手チームを上から目線で叩き潰すんだとこき下ろすものではなく、最大限のリスペクトを込めながらも、それを上回ることで相手からの尊重を受けようという、あまりにもクリーンで大人すぎる言葉に尻餅をつかざるを得ませんでした。

結果、彼は最終的にチームメイトでもありMLBのMVPを獲得するほどに優秀な打者であるトラウトを相手に堂々たる投球と見事と言わざるを得ないようなえげつない変化度合いと速度のスライダーを投げ込み三振に切って取ってしまいました。

他の選手はおもしろくはないでしょうが、まさに大谷の大谷による大谷のためにあった大会だと言われても否定できません。

しかし、そんな大会をダイジェストでしか見ることができず、日本がアメリカを破っての優勝を達成したのにも関わらず、ボクは心はそれほど沸き立つこともなく、淡々と日々のニュースを消化するのと変わらぬ様相で結果を眺めていることに気づきました。

その点について、ちょっと振り返ってみようと思い、カタカタと打ち始めた次第です。

スポーツで感動することへの疑念

「スポーツを見ていて感動する」と述べる人がボクの周りにもいました。

彼らはフィギュアスケートの羽生結弦が行った演技に感動したといい、スキージャンプの原田が流した涙へ感動したといい、日韓W杯で日本が予選グループを勝ち上がったことにも感動したというではありませんか。

今回のWBCでも、これまでのスポーツ観戦に向けた感情と同等、「感動した」と述べるのでしょう。

しかし、その「感動」があまりにも浮ついた感情のように聞こえてくるのです。選手たちが結果を勝ち得るために取り組んできた過酷な訓練も、そこを乗り越えるための努力も、試合を繰り返す中で迎えた試練も、同じような体験すらしたことのない人間が、最上の舞台で最高の結果を出した人たちを自らの価値観に引き摺り込んで「感動した」と述べるのです。

いや、その感想って安くないですかと。

「感動した」と述べることは簡単です。タイピングすれば1秒にも満たない時間で打ち込むこともできるし、隣に座っている人に向けて言い放つのであれば、音速で空中に霧散していきます

年齢を重ねれば重ねるほどに、スポーツ選手が一般的な社会人とは異なる圧倒的に短い時間軸で勝負していること、その中で結果が出なければ次に取って代わられること、何よりも維持することすら敗退を意味する厳しい世界に属していることを「到底所属できる世界ではない」と認識します。

そんな一般的な感性では理解できないほどに崇高で気高い世界で活躍をするような人間たちが行う行動や結果に向けて、安易に「感動した」なんて述べることができるほどに、我々は努力をしたのか。

過酷な訓練を、熾烈な試練を乗り越えてきたのか。
ボクは到底、そんなことを述べることができないのです。

「感動をありがとう」への疑念

メディアでは「〇〇JAPAN、感動をありがとう!」と喧伝する姿勢を見せてくるだけでなく、盛り上がりをさらに助長するような謳い文句や英雄を作り出そうとします。

時には、戦犯として扱うようなメディアも結果さえ出れば、一気にヒーローとして持ち上げ続けますし、度を超えて実力以上に露出が増してしまい、勝手に抱かれた期待ほどに活躍もできぬまま消えていく選手も生まれてしまいます。

「感動をありがとう」の裏にあるのは、「結果を出してくれてありがとう」であり、「数字を取れるコンテンツとなってくれてありがとう」となり、「私たちのメシのタネになってくれてありがとう」です。

各種メディアはタイムラインの潮目を見ることに必死で、リアルタイム性を重視します。いき過ぎたメディアは、あまりにもタイムラインを重視するがために、ソーシャルメディア上からニュースソースを取得するほどになりました。

本来であれば、話題となるニュースソースを提供するのは新聞やテレビといった大衆向けのメディアであったはずが、いつの間にかタイムタインの潮目を気にし、そこで消費されるコンテンツを収集することに躍起になってしまっているのです。

つまり、どんなメディアであっても、即時性があって数字を獲得できる見込みのあるコンテンツを生成することが至上命題になっており、普遍的で一般的な言説をネット上に載せることには価値がなくなっているとすら言えるのがタイムラインの潮目を見ることなのです。

では、そこで言われる「感動をありがとう」とは何なのでしょうか。

結局のところ、「私たちにご飯を食べさせてくれてありがとう」以上の意味に聞こえなくなってしまいます。あの「ありがとう」は、具体的に何をしたことに対する感謝なのでしょうか。

余暇時間を注ぐだけの価値に対する疑念

もう少し踏み込むと、そもそもスポーツに余暇時間を注ぐだけの価値があるのかを問うてみたくなるのです。

ボクは元来、スポーツが好きな人間でしたし、スポーツに未来を託すだけの価値があると考えていた側の人間です

何より、スポーツは言語を超えたコミュニケーションを可能にしてくれる非言語ツールであることに大いなる価値があると考えていましたし、その考えが揺らぐことは小学生の頃から何ら変わることはありませんでした。

しかし、いま、ボクはそれ以上に余暇時間を注ぐだけの価値があるものに夢中で、それ以上のことを見つけることができずにいます。

それは家族、子どもとの時間です。

スポーツを観戦に行くこともしましたし、スポーツをやってもらい楽しさを感じてもらうこともしましたが、その主体は彼らであって、ボクではありません。

ボクが楽しむために彼らをスポーツの世界に引き摺り込むようなことをしたくなかったし、スポーツの世界が労働集約的で、マンパワーへの依存度の高い泥臭い世界であることを知っているからかもしれません。

スポーツを勤しむ人たち、それは競技スポーツのこともあれば健康増進を目的としたスポーツのこともありましたが、彼らを指導する現場に10年ほど関わったことで、そこに時間を費やすことによって家族が犠牲になっている様子をマジマジと目の当たりにしてきました。

そこに未来を感じられなくなったからかもしれません。

ボクは家族、子どもたちとの時間をどうやって確保するのかに全力を注ぎ、さらに多くの言葉を紡ぎ出すためのコミュニケーションや楽しみを共有できるだけの時間確保などに躍起になることにしたのです。

この時間は、いずれ終わりを告げることはわかっています。わかっているからこそ、四半世紀にも満たない時間でしかないからこそ、その時間に向けて必死にならざるを得ないのです。

それ以上に価値のあることなんて、正直、見出せる自信がありません。

おわりに

スポーツが嫌いになったのではありません。過度な期待をしなくなった、というのが正直なところでしょう。

スポーツの世界で活躍する人たちは本当に眩しくて、刹那的だからこそ、儚さを感じてしまい、ついつい、その状況に同情してしまうことと感動をごちゃ混ぜにしてしまうのかもしれません。

だからこそ、過度な期待や感動といった言葉を安易に使ってしまうことに対して懸念があるのです。疑念を抱いてしまうのです。それだけ、ボクはスポーツが好きなのかもしれません。

WBCで優勝したことがとてつもない実績であるからこそ、ただただ消費されるだけのコンテンツとして扱われることには大いに心地悪さを感じますし、そんな姿勢を打ち出してしまう人たちを心の底から軽蔑している。

そんな昨今でございます。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo


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