見出し画像

新学期や新年度だからと期待をしたところで何かが変わるわけでもない

ようこそ、お越しくださいました。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

毎年、年始になると「今年の目標」とか決める人がいる。こうやって書くぼくは”年始の目標”だとか”今年のめあて”みたいなものを決めない。丁寧にいうと決められない。さらにいうと、覚えていられない。

決めたところで覚えていられないし、それを何かに記載して残していたとしても記載したもの自体をどこかに紛失してしまうから意味がない。そんなことを年少時から青年期にかけて経験してきたことも手伝ってか、ぼくは年始に目標だとかめあてだとかって悦に入らなくなった。

何がいいたいのか。

年始だからといって急に何かができるようになるわけでもなければ、突然、やる気に満ち満ちた状態になれるわけでもない。「今日から俺は」といったマンガは好きだったが、大抵の人間は今日からといったところで何にも変わるはずもないのである。

新学期や新年度といった学校や会社における区切りも同様で、中の人たちが急激にある日を境にして突然変異的な成長を果たすこともなければ、超サイヤ人になるような素質も才能も控えてはいない。

何かが変わることなど期待すればするだけ、その期待値を裏切ってしまった自分自身への後悔が訪れるだけである。

▶︎ 長男くんの不登校(傾向)は継続中

「次男くん、小学校に入ったら一緒にひまわり(学童保育サービス名称)で遊べるよ!」

ハツラツとした声が小学校1年生になろうかという体に向けて全力で投げつけられる。それを受けた小さな人間からも「楽しみだね!」なんて形で応答がある。

学校生活が丸2年が修了した長男くんは、2年目の約半分ほど学校へ通うことができなくなった。いわゆる不登校と表現されるものだ。

当初から「問題になるものではない」と考えていたし、いまもそこに変動があるわけではない。不登校状態になったからと彼が人生において不利になるとも思わないし、跳ね返すだけの気概を持つべきだとも思わない。

ただ、上記したような振る舞い/掛け合いを見ていたこともあり、多少なりとも年度が変わることではなく次男くんの生活が自分の生活圏と類似することになる点において「次男くんの変化」に期待をしていた部分があるかもしれない。

まだまだ新年度、新学期は始まったばかりではあるが、今日も長男くん学校へ向けた足を踏みとどめ、顔をしかめつつ、苦しみ悩みながら学校への感情と向き合い続けている。

▷ 「友だちが苦しむ姿を見たくない」

なんだか彼らしいといえば彼らしいのだが、彼は学校のことを考えると腹痛が発生する。まぁ、元から便秘気味だからこそ、腹痛が身近に感じられる身体症状なのだろう。事実、ぼくも中学生の頃に不登校状態を味わった経験があるため、実際に体感を持って発生することを把握している。

彼の中では自らに発生している腹痛は誰かに感染するものだと思っており、それが自分の大切に感じている友だちに感染させてしまうことを、それこそ恐怖感を抱きながら避けたいと考え学校に行くことは他人に迷惑をかけてしまう行為なのではないかと発言していた。

それもあるからか余計なほどに、彼の中では学校に出向くことへの敷居が高くなってしまっていたのは仕方がないようにも思える。彼の言葉を借りれば「友だちが自分のせいで苦しんで欲しくない」のだ。

これについてはいまの情勢で法制度化(義務化)されているわけでもないのに、マスクが常態化されてしまっていることも輪をかけて彼に重責だと感じてしまった結果、彼の中で学校に出向こうとすることの心理的な障壁になってしまっているのではないか。

最後の部分はあくまでも勝手な見立てでしかない。

医療機関を受診した結果、彼の腹痛は他者へ感染させるようなものではないと診断を下されており、その点を彼に伝えると心底安堵している様子を見れたため、もしかしたら、今後は精神的な負担の軽減や解放に繋がるのかもしれないが、それを期待することは幾許か烏滸がましい気もしている。

▷ 解決策などあるわけではないし期待もしていない

別に彼に向けて否定的な意見をぶつけるつもりなど一切ないし、したいとも思っていない。すべきではないと思っているし、したところで何も前向きな結果を生み出すことにはつながらないと思っている。

解決策を講じるべきなのかどうかって点も含め、彼に向けて具体的な提示をしたいわけでもない。あるとしたら「別に気に病むことはない」程度で、学校に行けなかったとしてもそれ自体が大した問題なのではなく気に病んでしまうことと、その状態を引きずってしまうことにある。

だからというわけではないが、少なくともぼくは現状の不登校状態の彼に絶望をしているわけでもないし、それを最終的に解決するのは当人以外の誰でもない。

妻さんはどうしても感情的な面で期待値が上がったり下がったりすることに若干の苦労をしているようではあるが、その様子を当人に向けてしまわないよう懸命に取り繕っているが、当人はそんな母親の様子などお見通しだろう。

子どもは小さな大人であり、年齢が低いだけの立派な人格保有者である。

だからこそ、彼には期待しなければならない場面もあれば、支援をする必要があると実感する場面もある。使い分ける必要などないとは思うが、同時に何もかもを保護養育者が差し伸べなければならないことなどない。

繰り返すが、最終的には彼が自身でどうするのかを決めることであり、それがずっと不登校状態であったとしても仕方のないことだ。

だからといって、保護養育の責任を負うぼくや妻さんが何もしなくていいのかというと、それは別の問題であり、全力で支援しなければならないだろうし手助けをしてあげたほうがいい。

彼を未熟な人間ではあるが、情けない人間ではない。

▷ 人に変わることを求めるな

これはもう、耳にタコができるぐらいにいわれてきたが、他人に変わることを求めたところで変わるはずがない。なぜなら、その当人にとって自分という存在はちっぽけな存在であり、当人からしたら他人であるからだ。

だからこそ、他人に変わることを求めるのではなく自分自身が行動変容を起こすなりして変わっていくことが必要となる。

我が家の長男くんに向けた対応となると、当人に変わることを求めたところで仕方がない。当人が何を感じ、何を得て、何を不安に思うのかなんてことは共感もできなければ完全に理解することなどできないのだから。

そうだとしたら、彼のとる行動や態度などを踏まえて、こちらが態度を変化させる他にない。軸となる物だけは忘れずに、だ。

そんなわけで、またしばらくは彼の解決したい事柄に向き合う時間が増えることになった。なんだか贅沢な時間ですらある。あと10年もしたら、このような状況になったとしても物理的な距離感がまったく異なるだろう。

だからこそ、大事にしたいと思う。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

子どもが不登校になって良かったこと

非常に真っ当な親子関係を築けているのではないか。親側が何も知らないことや何も考えていないことを子どもとの問答から気づくことができたと自覚できている時点で、かなり優良な関係だ。「普通」や「常識」といった価値観に縛られている人間には到底できないものである。

不登校の子に必要なのは、現実逃避が出来る場所だと思う

現実逃避について懐疑的な感情を抱く人は少なくはないだろう。しかし、誰であれ逃げたいと思っていることの一つや二つは経験があるはずだ。そこで逃げなかったからこそ...といえる人もいれば、あそこで逃げていれば...と思う人もいるだろう。大事なのは選択できることだ。

まさかわが子が不登校になるとは。不登校の子を持つ父の葛藤と心境

文中で使われる「社会で通用するのか」も、よくよく考えてみたら「自分が知っている社会」でしかないことに気づけばいい。聞き分けのない大人たちは、つい上から目線で「社会は甘くないぞ」とか「そんなん娑婆でやっていけるわけない」などいうが、君たちはもっと社会を知れ。

▷ 紹介したい関連書籍

例解学習国語辞典〔第十一版/ワイド版〕

長男くんが三年生になったのを受け、授業で利用するからという理由で国語辞典を購入したのだが、開いてみて懐かしい感情と同時に、すごくおもしろいことに気づいた。この辞書をつくるのにどれだけ多くの定義が積み重ねられているのか。すばらしい仕事である。

▷ えんどうのTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

リンクを踏むと僕のTwitterアカウントへ飛びます

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!