見出し画像

インターネット上のあらゆる媒体における民度問題

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

今日もどこかしこで炎上騒ぎが勃発しています。

歌手のAdoさんが行うコラボレーションに否定的な意見を述べる人たちが多数存在した結果、Adoさんが正式にそういったコメントに対して挑戦を仕掛けることになったのがすごく印象的で、こういった否定するコメントには尊重真のかけらもないことを思い知らされます。

炎上と呼ばれる現象は、特定の発言や行動が多くの人の注意を引き、大規模な批判や論争に発展する現象のことだと理解していますが、焚き火や小火ぼや程度のものもあれば、森林火災やクラスター爆弾並みに甚大な被害を被ってしまうようなものもあったりと、焚き上がる火の大きさも着火元のネタと影響を受けている人の母数によって大小変化します。

でね、最近、インターネット上で起こっているいろんな炎上騒ぎを見ていて思うのが、「みんながインターネットに接続できるようになったからだね」って感想と、媒体によって民度が明らかに変わるよねって。

民度って言葉が出てきました。

改めて、民度ってなんだってことを簡単に調べてみると、叡智の結晶であるWikipediaには以下のように記載されています。

特定の地域・国に住む人々または、特定の施設・サービスの利用者(ユーザー)・参加者・ファン等のある集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー行動様式などの成熟度の程度を指す。民度は高いほど良いとされている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6

ほうほう。
今回はインターネット空間における民度について考えるとしたら、各媒体を利用する人たちを集団だとし、その平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー、行動様式などの成熟度を指す、なんてことになりそうです。

態度振る舞いがキレイかそうでないか。そういうことになりそうです。

媒体ごとに存在する民度の特徴

以下は、あくまでもぼくの観測視点でのみ語るものですから何の根拠もありませんので、これをあーだこーだと言われても責任は負えません。それを前提にお付き合いいただけると幸いです。

まず、三つぐらいは媒体特性による民度の特徴が分かれると思っています。短尺であろうが長尺であろうが関係なく「動画を中心とした媒体」、「X(Twitter)などのテキスト媒体」、「noteやブログなどの長文テキスト媒体」といったところでしょうか。

大きな風呂敷を広げますが、そもそもインターネット上に存在する無数のアカウントを総じていうと、ぼくは民度が高い媒体など存在しないと考えています。本当に民度が高い人たちは下世話なインターネットになど触れません。触れていたとしても当たり障りのない態度で距離をとっているでしょう。それを前提に考えていることはご理解ください。

民度が極めて低い: YouTubeやTikTokなどの動画媒体

最悪なのはYouTubeやTikTokといった動画媒体を中心に回遊しているアカウントたちで、動画媒体の特性として「動画内での発言や行動を咀嚼する時間が極めて短い」ことが挙げられます。

瞬間が連続的に進んでいく動画の情報量は非常に多く、その情報量を咀嚼する暇を与えません。

尺が短ければ短いほどに込められているメッセージは圧縮され、視聴している側に求められるリテラシーは高くなるはずですが、そういった瞬間的な享楽を求めて視聴しているアカウントたちは、眼球から脳に飛び込んでくる突発的で刺激的な情報に取り込まれてしまいます。

取り込まれた結果、何が起こるのかといえば、瞬間的で感情的なコメントを書き込むことになりますから、辛辣で否定的な何のためにもならないコメントが多く並ぶことになり、結果として投稿者を傷つけることが目的になりやすいと言えるでしょう。

民度が低い: X(Twitter)などのテキスト媒体

次に民度が低いのは、X(Twitter)などの文字数に制限があるテキスト媒体で、月に1,000円でも支払い長文投稿が可能になっているアカウントでない場合には、140文字の制限がかけられます。

その制限がかけられている投稿に複数のメッセージを込めたとしても、前後の文脈を無視した理解をしてしまうアカウントが目につきます。

小学校や中学校の義務教育期間で受けたテストで、文章から回答を導き出すものである場合、解答を記述するためには問題に記載されている箇所の前後を読むはずですが、なぜかそれをするアカウントが多くないのがX(Twitter)の特徴です。

巷で言われる炎上ネタが転がっていて、報道ネタにされる率が高いのも媒体の特徴だと言えますが、冒頭でも記載している通り、ここに記載されていることがそもそも「真実」を語っていると考えられるのはなぜでしょうか。

実名で顔を出して投稿しているのであれば信憑性は高くなりますが、匿名でアカウント名もよくわからない上にアイコンはアイドルものだったり、真っ黒だったりするアカウントの投稿を真に受けてしまうことは、人生を生きる上でのリスクが高いのではないかと心配になります。

民度は中程度: noteやブログなどの長文媒体

あらゆる媒体の中でも、noteやブログなどの長文を書くアカウントや読むアカウントの民度は比較的・相対的に他の媒体よりも高いと言えます。

なぜなら、長文はそもそも誤解や論理的な飛躍がないように説明するために書かれているためであり、それを書けるアカウントと読めるアカウントの相互性によって成り立つものだからです。

つまり、文字を読めるかどうかの違いだってことになります。

動画媒体と比較し、文字を読むことは時間を要することでもありますし、その理解や解釈が求められますから、それができないアカウントは途中で離脱し、読めるところまでの理解で終わってしまうことから興味すら抱かなくなってしまいます。

だからと言って、民度が高いのかと言われたら罵詈雑言を並べ立てる記事もあれば、フェイクニュースや陰謀論を唱えるだけの記事もあったりしますから、諸手を挙げて民度が高いのだと宣言することなどできません。

それでも動画しか見れない、短文の読解力をもてないアカウントが立ち並ぶ他の媒体と比較すると、マシな方であると言えるでしょう。

インターネット上に民度を求めるべきか

ここ数年、報道番組でも「X(Twitter)での投稿が…」とか「Instagramで…」だったり、「動画投稿サイトYouTubeに…」なんて具合に、ニュースのタネ(ネタ)として各種媒体から情報を取得するような傾向があります。

たしかに、そこを利用し投稿している人たちの発信行動は、その投稿されていること自体は事実であるものの、その内容までが事実であるかどうかは担保されていません。

何かしらの事件や事故に対する感想(反応)ならまだしも、その投稿自体が元ネタになるような事案や事柄を、さも事実であるかのように扱ってしまうことには少し恐怖感すら抱いてしまいます。

ましてやFacebookのような実名を前提とした媒体であったとしても、著名人の許諾も得ずに詐欺広告が出回っており、それを取り締まることもなく広告配信をさせてしまうような媒体の民度がいいのかっていうと、そもそも治安が悪いって話であって、媒体への信用度って意味では最低だと言わざるを得ないでしょう。

そういった詐欺広告が走っているってことは、そこに騙される人たちが一定数は存在し、そういった人たちがいるからこそ広告を走らせても元がとれるってことですからね。そういった意味でも治安が悪いだけでなく民度も低いと言えるのかもしれません。

じゃー、インターネットに民度を求めるべきかって話ですが、求め続けるべきだと思うものの、それは他人にではなく自分にってことで帰結します。

他人はいくら指摘しても変わることはありませんが、自分の行動であれば変えることはできます。これまでにどうしようもない否定的で誹謗するようなコメントをしたり、批判的な物言いしかできなかったのであれば、それを改めることからすることができるのは自分だけです。

また、炎上などの際に燃やし続けている人たちのコメントを冷静になって追いかけてみると、なんと愚かな行動や発言なのかってことが分かるのではないでしょうか。

おわりに

散々と好き勝手なことを書いてきましたが、冒頭でも書いている通り、ぼく個人が抱いている各種媒体への感想ですからね。

ただ、新聞だろうがテレビだろうがラジオだろうが雑誌だろうがインターネットだろうが、それを取り扱うのも人間であれば、それを受け取る側も人間だってことを前提に考えると、下世話な人たちが下世話なネタをお互いに楽しんでるんだなってことなんだろうと理解しています。

つまり、人間って愚かだねってことなんでしょう。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


#えんどうnote 、マガジンをフォローすると通知が届きます!

X(Twitter)もやってますのでフォローしてください!

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!