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確認できない事実を事実であるかのように吹聴するのはウソつきです

枕にかえて

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

なんとも香ばしい報道を目にすることになった。

反ワクチンに関するデモなどの抗議活動が日本全国各地で開催されているとの見出しから始まる記事で、概要としては東京ドームの大規模接種会場で抗議参加者が会場への入場を一時的に中断するような事態が起こったとのこと。

東京ドームの大規模接種「反ワクチン」抗議で一時中断。陰謀論「Qアノン」関係の団体か

陰謀論を唱える人たちは、平成にもいたし昭和にもいたのだろう。令和になった今でもそこかしこで自らの認識が正しいと思い込んでいる人たちが大勢いる。

別に陰謀論を信じること自体は構わない。他人に危害を加えることなく、自分だけで完結できているのだとしたら、それはそれであり、あくまでも個人で嗜む趣味の範疇だ。

問題なのは今回の報道にあるような他人に危害を加える行為として表現されることであり、それを他人に振りかざすことこそが「正義である」と考える随分と楽観的な思考である。

陰謀論を信じ、それを布教することに使命感を抱くことを趣味の範疇ならまだしも実益を兼ねて行っているのだとしたら、随分と物騒なことだし僕自身が受けたとしたら迷惑千万だと感じてしまうだろう。

なぜ、僕は迷惑だと思い、実際にそう感じ取ってしまうのだろうか、なんてことを考えてみる。

▶︎ 事実かどうかを確認できない情報を吹聴するから

今回の東京ドームで起こったデモ活動へ参加している人たちが発したワクチン接種を希望する人たちに向けたことばの中にワクチン接種をしたら「5年以内に死ぬ」と述べている人がいたと取材に応じた人からのコメントが紹介されていた。

もしかしたらコメントをした人もデモ活動へ参加した人たちを貶める意図があり虚偽のコメントをしているのかもしれないが、少なくともそうすることで利益を得ることはないだろう。

仮に「5年後に死ぬ」といったことを真剣に振りかざし、吹聴しているのだとしたらデモ活動ではなくデマ活動ではないか。

人の生き死にに関わるものだけでなく、健康や医療に関する情報を市井の人が行う場合「この薬を飲んだら、どんな病気にも罹らなくなる」とか言いだそうものなら、明らかにウソつきか騙されている人だという匂いを嗅ぎ取る人は僕だけではないだろう。

仮にどんな病気にもかからない薬があるのだとしたら、製薬会社が公式な手順を踏んだ上で厚生労働省に申請し、効果が十分に再現可能性の高いものだと認められれば正式に認可を通っているはずだ。

そうなっていない時点でダマされているか、ウソをついているのかのどちらかになる。

今回のデモ活動に参加している「(ワクチンを)うったら5年以内に死ぬ」と発している人たちは、医学的な事実を踏まえての発信だとは到底思えない。

5年前にワクチンを接種できていた人間などいないのであって、彼らが数値的・科学的な根拠を後ろ盾に発言しているとはいえないことは明白だ。

ではでは、仮に、仮にだ。

その発言内容が正当なものであったとしよう。5年後には検証ができることになる。楽しみだ。ただ、ワクチンの接種した人は2回目の接種までで80%、5年後に日本の人口は現状の2割にまで減少することになる。

コロナワクチン【NHK特設サイト】接種率の状況など最新ニュース

▷ 陰謀論に嵌まり込む人は「真面目ないい人」が多いのでは

上記は彼らの活動を否定するというよりも僕が抱いた疑問の筆頭内容をぶつけただけだが、これに対する回答はもらえないだろう。

どこに根拠があるのですか、わからないので教えてくださいと丁寧にお願いをしたところで、彼らから根拠が提示されることはないはずである。

なぜなら、彼らはその情報を持っていないから。

では、彼らは愚かな人間なのかというと、僕はむしろ「真面目でいい人たち」なのではないかと「思っている」。

正直、陰謀論だとレッテルを貼りつけて否定することは容易にできるのだろうと思うが、そこになんの生産性もないこともわかっているし、それを試みること自体が僕の自己中心的な欲求みたいなものだろう。

真面目でいい人たちだと「思っている」と表記したように、あくまでも僕が抱いた感想や主観の話であって、彼らの抱く感情や主観は僕が外側から見た際に「陰謀論」だと思えてしまうことを大事にしているだけの話で、僕が科学的な根拠とか数値的な根拠を大事にしているのとなんら変わりない。

僕が映画館で映画を鑑賞することが好きなように、自宅でYouTubeを視聴することが好きな人がいるのと同様、つまるところは好き嫌いの話なのではないか。

おそらく、僕がいくら「映画館で見るべきだ」と説き伏せようとしたところで、相手はYouTubeで十分だし...みたいな状態となり、議論は互いの主張をぶつけるだけぶつけただけの平行線をたどることしか想像できない。

「オッス!オラ悟空」とドラゴンボールの主人公である孫 悟空が述べていると思われがちだが、鳥山明原作の中で主人公である孫 悟空がそのセリフを口にしたことは一度もない。

アニメ作品のみを視聴していた人に向けて「孫悟空はそんなことを言わない」と述べたところでアニメ作品のドラゴンボールしか知らない人からするとウソを述べているのは僕の方だということになる。

結局、ここに記載しているデマがどうとか陰謀論がどうとかという話も、見えてる景色や見てる風景、ひいてはどんな音楽が好きなのかといった趣味の範囲で片付けられることだろうと理解すると「なぜ、あの人たちは陰謀論にのめり込んでいくのか」を把握することができるように思える。

▷ 根本的に努力は報われないことを前提にした方が生きやすい

見えている景色や見たい景色、ひいては好きな景色の違いなのだとした場合、それぞれの好き嫌いについて論じたところで双方に納得のいく解を得られるとは思わない方がいい。

なぜなら、好き嫌いに理由を求めたところで回答できる人など多くはないことを我々は体感的に知っているからだ。

以下の記事でもコロナウィルスを陰謀論だと考えるパートナーに悩まされる女性について書かれた記事だが、本当にこんなことを述べる人がいるのかと思えることを陰謀論で片づけたがる人たちはさも当然であるかの如く述べてくる。その様は清々しいほどだ。

「コロナ信じるなら離婚」と言われ 「陰謀」に悩む家族たちの2年

僕は上で陰謀論に嵌まり込む人は「真面目ないい人」が多いのではないかと書いたが、付け加えるならば「努力をすることで報われる」と考えている人という項目も入るだろう

つまり、この世の中は「正義と悪」が存在し、努力はウソをつかないため努力の先には自らが求める答えや正解があり、それを果たすことは悪を駆逐することにつながると思っているのではないか。

冒頭で「(ワクチンを打てば)5年で死ぬ」と発言した人がいると紹介したが、おそらく世の中にはコロナウィルスによって利権を貪っている悪い奴らがいて、その人たちの思惑に乗ることは世界を悪くすることなのだ、と。

それはそれで非常に見どころのありそうな物語ではあるが、果たしてそんな意見を貫いたところで誰の何に得があるのか。誰にもないだろう。と、僕は思ってしまうのだが、それはすでに書いた通り、僕と彼らの見える景色や見ている景色、見たい景色の違いによるものなのだろう。

なぜ、彼らが東京ドームでの接種を中断させるような行動をとったのかといえば、彼らはそうやって努力をすることで世界を正しい方向に戻せると考えているのだろうといえる。

▷ 正義を振りかざしてもいいけどウソはダメ

努力が叶ったり報われたりといった世界線を真剣に考えている人は、世の中には「答え」があると考えているのかもしれないが、僕たちは「そうとはいえないこと」を知っている。つまり、努力をしたところで叶うわけでも報われるわけでもないことを知っているのだ。

努力をして誰もが自らの願う姿になれるのだとしたら、誰もがプロ野球選手になれるしJリーガーになれてしまう。

実際はどうかといえば、一部の限られた人間がクラブや球団との契約を結べるだけであり、その中からさらに一部の人間だけがスター選手として活躍できる。

それを当然なことだと受け止められるのに、どうして他の分野ではそうだといえないのか。

そうやって自分には関心の薄い、もしくは関心のない分野であれば努力が報われないし、そうであることを受け止められるのに、自分が関わりたいと考えたり関わることで変えられると信じ込みたい場合には受け止めることを拒否する。

そんな姿勢で正義を振りかざしたところで誰が信用するのか。

自分の中だけで完結するのならまだしも、他人に自己の考えを強要しようとするのなら、相応の「理由」が必要なものの冒頭で記載している通り、そこには明確な根拠もなければ順序立てた説明もない。

上記文中、彼らの見ている世界は彼らが見たい世界であり、僕が見たい世界とは異なるのだと理解するのだと書いた。それならば相手の好きを否定できないのだから受け止めざるを得ないはずだが、こちらの主張は否定され続ける。

ただ、ただ一点だけお願いしたい。ウソはやめてほしいのだ。

信じたい正義があるなら、それでいい。信じることで救われるのであれば、それでいい。正義を振りかざして生きたいのであれば、それでいい。だけど、正義を振りかざすくせにウソをばら撒くのは決してやってはいけないと僕は思うのだ。

こんな風に書いたところで届くわけがないことはわかっている。ここまで書いてきた文字数の分だけ僕の人生を無駄にしている可能性を否定しない。

だけどウソが蔓延することで傷つく人がいるのは疑いようのないことは事実である。しかもそれは無用な傷だ。まったくもって無駄な傷である。そんな傷だらけの世間なんて、僕は嫌なのだ。そんな世界になってほしくないし、子どもたちに見せたくはない。

まぁ、無理だろうが。

そんな観測日記でした。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

陰謀論の魅力は何か

そう、結局は魅力的なのだろう。そして、自分に自信がなく不安を抱えているからこそ、縋りつけるような事柄があれば喜んでのめり込んでいく。そこから解脱するために必要なのは、自身で気づくことしかないのだが、その気づきも本人が必要な時にしか発動されない。悔しいばかりだ。

母親を陰謀論で失った

真剣だからこそ、自分の周囲にいる人たちを思えば思うほどに言葉が苛烈になり、情報が偏っていく。行き過ぎてしまった結果、それまでの関係性が瓦解することなど簡単だ。その時、考えを理解できないと諦める必要はない。そもそも他人の考えなど理解できるはずがないのだ。

陰謀論

こうやって陰謀論について長々と書いている僕も、ある意味では陰謀論的なものの見方をしているのだろう。おそらく陰謀論的なものが好きな人たちが間違って僕が書いたこの文章を読んだ際に思うことは「かわいそうに」なのだろうと思う。ただ、広告などで考えなど変えられることぐらいは知っている。

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

母性のディストピア I 接触篇

冷静になるためには良質な文章に触れるべきだ。特に虚構と現実の間にある、それらの隙間を埋めるための現代とは、歴史とは何か。描かれる群像劇の裏にある物理的な僕たちが過ごす社会には何があるのか。そんなことをゆっくりとした時間をかけて読むことができる書籍だ。

▷ 著者のTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

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