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子どもが”継続しないこと”を注意すべきかどうかで悩む

どうも、ゑんどうです。

「んー、、ちょっと(上手くいかないから)やめよっかな」

隣で絵を描いていた長男くんはそういって席を立とうとし、そこで「せっかく描こうと思って座ったんだから、途中まででもいいから描いてみなよ」と促し再開してもらいました。

ちょっと上手くいかないとか自分の想定していた通りに物事が進まないとわかると、途端に気持ちが萎えていく気持ちは存分に理解できます。

ただ、何も形になさない状態のまま終えることが、果たしていいことなのかどうかでいうと、どんなに不恰好でもいいから形にすることで次が見えてくると考えての注意だったのですが、正直いうとよかったのかどうかが本当にわかりません。

何がわからないのか、どうして注意した方がいいと思ったのかを考えてみます。

■ “継続=善”ではないけれど”非継続=悪”でもない

何事も継続することは力なり、みたいな考え方があるけれど、別に継続することが善きことで継続できないことが悪しきことではないでしょう。

継続することによって得られることはあるだろうけれど、継続しないことによって得られることもあります。継続できるかできないかは結果論的な物言いになるので、渦中にいる「継続するかどうかを判断中」の人たちからすると結果論ほど暴力的な意見はありません。

親の心子知らずとはよく言ったものですが、苦労して送り迎えなどをしている習いごとを「やめたい」と申し出たり、「つまらない」と塾へ通うことを断念したりと、よかれと思って習いごとや塾に通ってもらうことが叶ったかと思いきや挫けてしまい継続しないことを決めたりします。

じゃー、継続しないことがダメなことなのかといえば、別にダメなことではないのです。

継続するだけの魅力を見出せなかったのかもしれませんし、取り組む中で指南役が下手くそだったために前向きに取り組むだけのモチベーションを維持できるような指導ができなかったり。

当人が「なんか違うな」と気づき、やめようと思ったのかもしれませんし、その思考する機会を与えられただけでも立派な体験機会だといえばそうでしょう。

継続するから得られることがあると大人(ぼく)は考えてしまうのかもしれませんが、それは失敗してきた過去を精算したいと思っている自分自身の後悔を子どもに背負ってもらっているのかもしれません。

■ 大人(ぼく)の継続成功バイアスではないか

では、大人が子どもに向けて「継続」を促すのは何故なのか。

これはn=1の話なので、万人に共通した話題になるとは思いませんが、少なくともぼくが子どもに継続することを促すことの背景を考えてみると、継続することによって得られたことがあると思い込んでいるからなのではないかと考えていたりします。

たとえば、ぼくの数少ない成功体験の一つが高校時代に初心者ながらにサッカー部に入部し、最終的には(人数が少なくなかったことが大きな理由ではあるものの)スターティングメンバーとして出場することができたことにあります。

いま、その高校は全国でも競合と評価されるようなチームになってしまったので、当時のぼくを再現できるかといったら無理でしょうから時代が良かったとしかいえません。

周りの同級生部員たちはさまざまな理由で辞めて行き、最終的に残っていたからこそメンバーになる権利を得ることができたので、継続していたことによって得られた成功体験といえるかもしれません。

この一つの成功体験(?)を持って長男くんに絵を描くことを継続してもらうようにしたのであれば、大きな勘違いのような気もします。

ぼくは継続によって成功したのではなく、自己満足を得ただけなのですから。

自分がやりたいとかそうでありたいと考えていたことを実現することができたっていう自己課題を乗り越えたことに満足していただけで、それを成功と呼べるのかといったらわかりません。

また、継続しなかったことによる後悔みたいなものもない混ぜになっていて、おそらく継続によって得られる利点や継続しないことによって失う利点とを考えて助言しているのではなく、継続しない態度や姿勢に向けて叱責・注意している、浅はかな行動なのではないかと思うのです。

■ 促された彼は”続けられる絵”を描いた

結果、ぼくに継続して描くように促された彼は中途半端ながら次に自分が続きを描くことができそうな”続けられる絵”を書きました。

描いていたのはトリケラトプスで、右半身はなく目もありませんが、間違いなく自分が「続きを描きたくなる」ところまで描いてやめたのです。

Triceratops by 長男くん

つまり、彼は自分の感情をすべて載せ切ってしまう、この絵を仕上げることによって気持ちを出し切ってしまうのではなく、気持ちをすべて出し切らないけれど、次回までに気持ちが切れてしまわないような丁度いいところまで出して終えたのでしょう。

なるほど。

ぜんぶを出し切ってしまうと果ててしまいます。やり切った感は出るのかもしれませんが、それでは継続できない。継続して安定的にパフォーマンスを発揮し続けるためには、自身の丁度いいところを探る必要があるでしょう。
今回、彼はそれをやってみせたのです。それがすごいとかすごくないと勝手よりも、この絵の中途半端さ加減に非常に考えさせられたのです。

大人になると「仕上げること」や「仕上げた末の成果や結果」を問われることが多いことから、どうしても中途半端なままで辞めることや途中で投げ出してしまうことにネガティブな印象を抱いてしまっているのですが、そうではないんだと。

余力を残し、次回まで気持ちを寝かせておくんだと。

仮に、この絵を継続しなかったとしても、見返した際に一定の満足感を得つつ、次の題材に取り組むことができるでしょう。そうやって少しずつでも自己承認することによって一歩ずつ進んでいくことを無意識のうちにやっているのかもしれません。

そう思うと、先ほどはすごいとかすごくないって話ではないと書いたものの、素直に「すごいなぁ」と感心したのでした。

おわりに

学校に行けてない彼は、日中、ぼくの隣で学習したり何か気になることを調べたりと自身で決めたタスクを自身の裁量で時間を決めながら取り組んでいます。

朝礼と夕礼まではいきませんが、朝、ぼくの隣に座ったところから自身で何をするのか、何をしたいのかを考えてタスクを決めては取り組みはじめるのです。

それがいいのかどうかは判断がつきませんが、少なくとも学習面でも探究面でも彼のやろうと思ったタイミングと時間をかけて取り組むことができているので、彼自身も満足そうですし、ちょっと困ったことがある際には声をかけてあげられる状態にあることを嬉しいとすら思っています。

ただ、継続しなかったところで何て声をかけたらいいのかはやっぱりわかりませんので、このまま悩み続けながら彼の成人を迎えるのでしょうね。

ではでは。

ゑんどう(@ryosuke_endo


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