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PTA加入しなければ子どもに差別的な対応をしてもいいのか問題

 どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

 またPTA関連の話題なのですが、大和市内の市立小学校のPTAが配布した文書の内容と、それに対する一部の保護者の反発について報じています。内容としては以下に引用した通りなのですが、こういう事案が起こるたびにP TAって組織の運営における齟齬みたいなものが生じていることを実感せざるを得ません。

4月の新学期を前にPTAが加入の意思を確認する文書を配布した。文面には、非加入世帯は登校班に入れず、物品を提供しないなどと受け取れる記述があり、一部の保護者が反発し混乱を呼んだ

 ハッキリいって今回の事案は日本中のPTAにおいて、どこでも起こりうるものですし、現在進行形で起こっていることなのだろうと思います。でも、それって根本的に間違ってませんかねぇ…なんてことをダラダラと書いていきます。

 あ、ちなみに、これを公開する時点で我が家はPTAの幹事として中の人をやっている人間でして、どちらかと言わずに「謎の組織」PTAに対する興味本位から前向きに取り組んでいる側の人間です、っていうポジションを明かしてから中身に入ります。

今回の事案における本質的な問題

 まず、大人な意見からしていきます。今回の事案、ちょっと賢い大人であれば「加入していない子ども世帯と加入している世帯とで対応を分けざるを得ないでしょう。だって加入していない子どもに対して加入してる子たちと同じ対応したら、公平性がないじゃないか」と考えることでしょう。

 当然、年間で千円単位の加入金を支払い、場所によっては引き落としで有無を言わさず強制的に加入をしているようなPTAもあるのかもしれません。それは所属する子どもたちに向けて「一律な対応」をするためなのだろうと予測しますが、それこそが本義的には違法性が問われてもおかしくありません。

 保護者の意思に反して加入を強制することは、結社の自由を定めた憲法第21条に抵触する可能性があり、保護者の同意なくPTA会費を徴収することが仮に行われているのだとしても法的根拠の乏しい不当利益に該当する可能性があります。

 PTAの任意加入原則が守られていないってのは、それだけで問題なのです。

 誰もがご存知の通り、PTAは本来、保護者の自由意思に基づいて加入・活動する任意団体です。子どもたちの学校生活がより実りのあるものにしようと結束する能動的な人たちが参加するからこそ、活況のある組織体になっていくものだと誰もが想像できるでしょう。

 今回の事案では、加入しない場合に子どもが不利益を被るような内容の文書が配布されましたが、これは実質的に加入を強制するものであり、任意加入の原則に反することになります。

 設立の目的や活動内容が大きく異なることは承知のうえで書きますが、PTAへの加入を強制することは、宗教団体へ強制的に加入させるものと同じです。なぜ、宗教団体への強制加入は問題で、PTAへの実質的な強制加入は問題だと思わないのかは多くの関わる大人たち、特にPTAの執行部は大いに再考すべきことでしょう。

運営内部の温度差と「面倒さ」

 なぜ、そんなことが起こるのでしょうか。繰り返しますが、本質的に「子どもたちのため」に運営することが目的であり、そのための活動資金を徴収する組織なのであれば、違法性の疑われるような行為に走ってしまうことは本末転倒のように思えます。

 これについては複雑でさまざまな要因があるのでしょうが、現役の保護者世帯として実感していることを書いてみます。

 まず、保護者間でPTAに向けた意識の差異があること。

 PTAに積極的に参加する保護者と、加入に消極的な保護者との間に意識の差異があることは否定できません。特に運営執行部や会長や副会長などを担おうとする人たちと、末端で構成員として組み込まれる人たちとの間には大きな温度差があります。

 そりゃそうでしょう。PTAなんて「謎の組織」の長を担おうとする人たちと、できる限り関わらず、子どもたちが在籍する中でなんとか役割を逃れたいと願いながら生活をする人たちとの間に熱量に差があることはおかしなことでもなんでもありません。

 そうやって上役の人たちが美辞麗句を並べたて、ある会合などでPTA活動の意義を堂々を語れば語るほど、その目的を再確認すればするほどに、相互熱量には差が開いていくばかりなので、くじ引きやポイント制などで「仕方なく」役割を担った人たちは、後ろ向きな役割を担ったことで「面倒さ」を喧伝する宣教師となり、忌み嫌う風習がドンドンと強くなっていきます。

 なんでこんなことになるのかといえば、PTA活動の意義や負担について、保護者間で十分な理解と合意形成がなされていないからに他ならず、結成当初の時代背景と現代のように多様な価値観を持つ保護者がいることを前提にしている状態では、再定義をしなければならないはず。

 ですが、そんなことは行われず、前例踏襲型のまま今日に至るわけです。だから、誰かが「ちょっと待った」をしなければ今回のような事案は今後も起き続けることでしょう。悲しいけどね。

「子どもたちのため」とは「保護者のため」ではないか

 で。

 本義的に話をしたいのは、「子どもたちのため」を謳うことと「親が犠牲になる」ような認識を与えることが≒(ほぼ=)として成立していることっておかしくないですかってこと。

 子どもたちが笑顔で過ごせるようにすることが目的なのであれば、最も近くで共に暮らす保護者が笑顔で過ごせるようにすることも内含されていなければならないでしょう。

 保護者が自宅で「PTAのことが面倒だ!くそぅ!」などとつぶやいてしまうような状態は、健全なのかといえばそうじゃないことは明白です。

 そこで「あなたたちのために大人は嫌だと思うことでもやらなきゃいけないの」とか「こうやって大人が苦しみながら、学校に通ってるみんなが楽しくなるようにしてるんだよ」とかって恩着せがましい呪いの言葉を吐くような事態に陥っているのだとしたら、すでに末期状態だと言えます。

 いま、保護者の中にはいろいろな人たちがいます。

 結成当初からの慣習で平日の昼間に会議や活動などを行うことを前提にしていたとしたら、残念ながら「活動に参加できない…どうしたらいいのか…」と困り果ててしまう保護者が出てしまう時代なのです。

 もうね、こういった問題が起こるたびに学校内で保護者間の軋轢が生まれてしまってるんだなって悲しくなりますが、学校に通っているすべての児童が仲良くできないのと一緒だなって思うと仕方のないことだとは思います。

 ただ、このまま惰性で運営していっても、いつの日か破綻する日が訪れてしまうのは明白ですから、どうにか立ち止まって運営方法等を見直すP TAが少しでも増えていけばいいなぁ...。

おわりに

 過去に、PTAの歴史やら問題点やらを考えたnoteを書いていますので、興味がある方はぜひ。

 同じように、PTAに関連する内容を書いたものをまとめてもいますので、こちらもどうぞ。

 ではでは。

 ゑんどう(@ryosuke_endo)


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