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「しょうがい」は生活の邪魔となる障害か、人それぞれが持つ特徴か

残念なニュースについて。

投票に行った知的な多様性を持つ方に対して、福島市の職員が「字が書けるのか」と問いかけた末、付き添っていた父親が代筆を行おうとしたところ制度の詳細説明を省き(混雑する時間帯だったとのことですが)、青年が投票できずに帰宅せざるを得なくなってしまった、と。

ハンディキャップについて、僕たちは「しょうがい」といいます。それは生活を行う上でのハードルを指す意味で使われているのでしょうか。その詳細については理解していませんし、調べてもいません。

ただ、以下のサイトでは「言葉の使い方」として、今回の件にも関わるような内容が記載されていますので、よければご覧になってください。

いずれにせよ、今回の市の職員の対応が残念なものだったのは言うまでもありませんし、混雑してきた時間帯だったのは言い訳としても不適切だと思います。

思いますが、もし、経験がない人であれば言い方一つとっても適切に対応するのは何事においても敷居が高いものですから、今回の青年にとっては決して好ましい結果ではありませんし、ご家族からしても怒り心頭なのはいうまでもありませんが、今後の対応に活かしていただきたいと思います。

僕とスペシャルオリンピックス

たまたまではありましたが僕はこれまでの職歴の中で、スペシャルオリンピックス日本・新潟という団体と共に活動をした経験があり、実際に関わってらっしゃるファミリーの方々や、事務局の方々とお会いしてきました。

その機会を得られたからこそ、僕はスポーツっていう一面的な部分しかないものの、非常にアクティブに、アグレッシブにスポーツへとのめり込んでいるアスリート(スペシャルオリンピックスではスポーツに能動的に取り組む人をアスリートと呼称)の姿勢や視線を見てきた立場として、何ら僕たちと変わりないのだと実感しましたし、それまでのある意味では斜に構えたような態度を改める機会になりました。

余談ですが、2018年12月にスペシャルオリンピックス日本・新潟の指導者の方と、パラリンピアンである清水千浪さん、白血病サバイバーであるアルビレックス新潟の早川史哉選手とともにイベントを開きました。開催から終了までに書いたnoteは以下のマガジンにまとめてありますので、お時間があればお読みください。

何がいいたいのかといえば、よく見聞するものかもしれませんが「しょうがい」という言葉を用いて区別したがっているのは、(僕を含めた)いわゆる健常者と呼ばれる側の人達なのではないか、と言うことです。

そんな風に思い至るようになったのは、僕が直接、当事者である人達と関わる機会を持っていたからに他なりません。その時のことを思い返しながら、改めて今回のタイトルにある『言葉』について考えてみます。

受け入れるためのマインドセットが足りてないのか

当時、僕はスポーツ系専門学校の講師として、スポーツビジネスのマネジメント部分を担いたいと志す学生たちの担任を担当しており、たまたまではありましたが、新潟でスペシャルオリンピックスの全国大会が開催されるとのことで事務局長をされていた久保田さんからお話を頂戴し、関わらせていただきました。

僕としてもスポーツが競技スポーツのみに焦点が当たりやすい状況に対して疑念を抱いており、同時に、パラリンピックなどをはじめとした多様なあり方について考えている時期でもありましたので、おあつらえ向きの話をもらえた形でした。

それは当時、運か不運か僕が担任となった学生たちにも授業などで「スポーツの価値ってなんだろうね」と伝えていた内容でもあったので、当時の学生たちも、咀嚼し飲み込んだ上で関わってくれていたように思います。

僕なんかよりも学生たちはアスリートたちと深く、密接にコンタクトを図り、把握と理解をしていたのですが、その内容を共有してもらう機会を面談等を通じて行なっていました。

すると、当然のように「自分たちと何ら変わりはない」「むしろ優れている部分を言葉が邪魔している」「言葉で視界を曇らせていた自分が情けないし恥ずかしい」と言う趣旨の言説があったのが、より僕の認識を確信させました。

多様な人達を受け入れる術を知らない、もしくはマインドセットされていない人たちが区別を従っているだけで、それは外国人を受け入れる際に言語が話せない場合に心理的な敷居が高くなるのと一緒だ、と。

相互を繋ぐためのツールが不足

つまり、多様性の高い人を受け入れるための「言語(つなぐためのツール)」がないために、敷居が高くなっているのですが、言語と一緒で逃げ続け、避け続ければ必然的に取り掛かるためのコストは増大するばかり。

もちろん、生活環境が同じになったこともなければ、学び舎を同じくした経験もない僕が言うのは戯言で、綺麗事なのかもしれません。だけど、現場に立つ当事者の人たちは、その綺麗事を「当然である」というのです。

知らないこと、未経験なことには身構えてしまいますし、それに取り掛かるだけのコストは大きくなりがちですが、それでも「お互いに存在している事実」は変わらないじゃないですか。

また、どちらかがいなくなれば済むって話でもありません。

お互いに存在しているからこそ、わかり合うためには接点が必要なんだよな、と痛感していますし、そんな気持ちを呼び起こすきっかけになるような出来事でした。

お読みいただきありがとうございます。あなたが当該市職員だった場合、どんな対応をしますか。


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#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #許容度の高い エリアにすべく活動中。現在は会社員をしているものの...

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