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飲食店経営で伝えるべきは物語なのか

 僕が1985年に東京で生まれ、新潟県(燕市)に移住してから2019年12月末まで僕と血がつながっている両親はそば屋を営んでいた。バカみたいに稼ぎのいい商売だったのかといえば違うだろうけど、個人の収入で言うとしっかりと平均年収以上は貰えていたことを考え、35年以上は継続できたことを考えると「うまくやっていた」と言えるだろう。

 最近、僕は飲食店を利用する機会が減った。以前よりもラーメンを食べたいとも思わなくなったし、焼肉店に猛烈に行きたいわけでもなければ焼き鳥店でじっくりと焼かれる様子を見ながら串に刺さっている肉を満面の笑みで待ち受けることもしなくなった。

 (日本では)2020年初頭からはじまったいろいろな情勢があるからなのだろうし、自分自身も年齢を重ねてしまい外食に対する前のめりな気持ちが無くなったのもあるだろう。お酒を飲むのだって、外で飲むぐらいなら自宅で飲みたいものを飲みたいタイミングで飲みたいと思ってしまっている。

 そんな折、唐突に以下のnoteが目に止まり、自然と読みはじめていた。

 どうも、えんどう @ryosuke_endo です。今回は上記のnoteで触れている「飲食店のストーリー発信」について、飲食店の経営には一環として関わったことはないけれど、関係者としての実感を基にした意見を書いていきたい。

▶︎ 意義よりも意味である

 ここ最近はプロセスエコノミーと呼ばれるほどに『過程の露出』や『日常の公開』、『公開情報の日常化』など、あらゆる過程を出すことにこそ価値があるのだと言わんばかりに制作過程や成長過程を共有する時代に突入している。この波には飲食店の経営も飲み込まれる他にない。ただのアウトプットする製品やサービスだけでは他人に評価されなくなってしまったのだ。

▷ 主観による判断を助長するための主観(感想)が増える

 プロセスエコノミーが隆盛を誇っているのはインターネットの普及を前提としたソーシャルメディアの台頭とスマートデバイスのインフラ的な普及によるものだ

 これにより誰もが製品やサービスを受給した自身の感想を投稿・発信できるようになった。つまり、主観が溢れかえるようになったのだ。どこぞのソーシャルメディアを覗いてみれば、やれどこが映えるだとかキレイな見せ物としてのサービスや製品を紹介する投稿に溢れている。

 こんな日常を受け、我々は自分の主観に合いそうな主観を探すことに躍起になっている。

 仕事道具として利用できそうな製品はどれか。
 休みの日にデートがてら楽しめるかわいいスポットや食品をないか。
 家族で楽しむための旅先や移動方法は何か。

 我々はいま、自らの判断を下す前に誰かの主観に触れない時間はないと言っていいだろう。あらゆる製品やサービスが客観的な事実を提示してくるが、それは前提の前提である。それと同様に、自らの属性に近しい人間の投稿する主観も重要な製品やサービスの評価項目なのだ。 

 そうなると、こじんまりしながらも趣の出せる店舗などは水を得た魚かのような心持ちかもしれない。仕入状況や営業中の苦難など、あらゆることをストーリーとして語れる要素を持っている。これはもう、いいとか悪いではなく、そういう時代なのだと理解する他にない

▷ 過程(意味)を出せない店舗やグループは苦しくなるのか

 では、それらを出せない店舗やグループなどの大きな組織は不利なのか。

 中にはソーシャルメディア上で主体的に投稿もせず、影も形もみせないような店舗であったとしても、主体的に発進することによって責任がつきまとってしまうためありきたりな発信しかできなくなりがちな大きな組織体であったとしても「誰かの主観」はどこかしらに掲載されてしまう。

 そう、たとえ自らが主体的に発信をする気がなく、一切発信をしなかったとしても「店舗を訪れた誰か」が勝手に主観をどこかしらで投稿している。

 つまり「関係ない」なんてことは一切ないのだ。

 「インターネットのことはよくわからないから」「どうせ主観を投稿にしたところで参考になんてならない」と自身の掲げる絶対的な料理に対する価値観を持ちつつ、揺らぎない信念を抱いていたとしても誰かの主観までは制御できない。

 ましてや「誰かの主観」が気に入らないからと削除するなんて決定権もない。それを削除できるだけの証拠を自身が集めなければならないからだ。

 しかし、店舗の経営を担いながら証拠集めなどやっている暇はない。ところが、否定的な主観だけが残る形になろうものなら、それを見かけた生活者は少なくともそれが頭に入ってしまう。それが前提認識となってしまうのだ。

 それによって訪問数が減ってしまおうものなら売上に響くのは言うまでもない。日本の人口は毎年50万人以上子どもが少なくなっているが、それは50万人以上の人が死んでいなくなってしまうことと同義である。

 店舗経営においても、訪問するはずだった人が訪問しなくなってしまうことは売上が減少することと同義で、それを防ぐためには「否定的な誰かの主観」を「肯定的な誰かの主観」で覆い尽くすしかない。

 それが面倒だと蹴り出してしまうのは簡単だ。しかし、それを覆すだけの人気と知名度があれば問題ないものの、そうではない新しい飲食店は開店当初、いや、開店前からその闘いを強いられる。

 面倒だなんだと言ってられないのだ。

▷ 誰が飲食店を潰すのか

 客が寄り付かない飲食店など、経費の垂れ流し製造機でしかない。

 「味がおいしい」などというものは人の味覚によるものだ。これは僕の父親もよくボヤいていた。ラーメンを食べるのが好きな人と、カツ丼が好きな人、これらは一つの人間に両立する嗜好だが財布は一人に一つである。つまり、どちらも美味しいと思っていても千円で食べられるのはどちらかの店舗だけなのだ。

 結局、飲食店は常に強靭な闘いに慣れるようなタフガイでなければ生き残れない。継続できなければ地域に根ざすことなどもない。1、2年で店舗が入れ替わり立ち替わりしてしまうことが新陳代謝などだといえば聞こえはいいが、つまるところ誰が生き残れるのかを賭けた「チキンレース」なのだ。

 経営能力もさることながら、味覚や調理センス、経験だけでなくプロモーションやプロデュース能力までを含めた総合格闘技として、現代の飲食店経営は取り組んでいかなければならない。

 味一本だけでのしあがっていけるほどに甘い世界では無くなったということだ。(それまでも甘い世界であったと述べるつもりはない)

 それを望んでいるのは誰でもない、我々生活者である。コンビニの24時間営業も、電車の定時運行も、それぞれに過分とも言えるほどの期待値を設けているのは生活としてそれらを利用する我々なのだ。

 果たして、そこまで求めていいものなのか。しかし、ここまで「誰かの主観」が市民権を得てしまっている以上は仕方がない。それを踏まえた上で『何をどうやるのか』ということになる。でも、日本はこれからどんどんと貧しい国になっていくのは確定しているのだから、それほど強欲になってしまうことは自分たちの首を絞めることにつながるのではないか。

 そんな風に思う今日この頃である。

 ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

上で紹介した記事以外にも女将さんの文章は非常に細かな気づかいが感じられる丁寧な文章だ。こんな風に文章を書けるのだから、店舗経営における課題や欠点を明文化できるのだろう。きれいなお店が想像できる。

飲食店経営の大変さを丁寧に明文化してくれているという意味では、吉田さんの記事は「これから飲食店を経営しよう」と意気込んでる人は読むべきだろう。

宗教に絡めつつ、プロセスエコノミーを批評するのはあどりさん。いいとか悪いではない。それにのめり込みすぎることは、これまでになかった概念を享受できない人たちには厳しい世の中になるよね、なんてことだったりするだけだ。

▷ 紹介したい書籍

関連があるのかと言われたら、ただ、僕が読んだ本の中でもしっくりと来た内容だったという点で紹介したいだけだ。しかし、僕はnoteを書くようになってから他人の話を受け入れやすくなった。よく聞くことは知性がいると書かれているが、知性のない僕でもそれとなく理解できた気がする。


▷ 著者のTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。


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