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D みと 戦争平和心理学哲学
引用自由です。報告の義務もありません。この文章は右翼左翼新興宗教関係ないです。念の為。心理学と哲学の文章です。
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ウクライナ紛争の見方、例え話。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #スキしてみて
プーチン大統領は、恋人のウクライナと結婚して、大ロシアという家庭を作りたいと思っていた。
もともと昔のソ連時代には同じ屋根の下で暮らしていたので身内だと思っていた。片思いしている。
ところがウクライナはNATOと言う新しい恋人が好きなので、プーチン大統領を振って新しい恋人と結婚しようと言い出した。
そこでプーチンは嫉妬心に駆られ、別の恋人と結婚する位なら殺して、持っているものを奪い取ろう(穀物などの資源)と考え
奪ったものを新しい別の友人(中国)などに売って儲けようと考えた。
普通なら強盗殺人は罪になるのでそんなことをしてはいけないと考えるものだが、プーチンは独裁者なので、わがまま放題してきたので歯止めがきかなくなっており
周りにいる人も誰もが怖がって本当のことを忠告する人が周りにいなかった。
誰が見ても完全な強盗殺人罪にあたる。
あまりにひどいので、友人だった中国さんもドン引きしているところ。
わかりやすく言うとこんな感じ。
レッドチームは消え去る。ウクライナ紛争に見る一党独裁性の構造破綻
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ロシアウクライナに侵攻し、プーチン大統領の正気を疑う声が強まったことで、一党独裁型の国家資本主義や社会主義の根本的構造問題が明らかになった。
共産主義は民主集中制のもとにすべての国民の資産お金富人材を国家の管理下に置くと言う名のもとに、1人の独裁者とそれを支持する道の下に置くために、その独裁者が途中で狂いだして戦争を行い始めても、誰も止めることができない。
国家資本主義であれ、社会主義であれ、一党独裁のもとに1人の人間に権力を集中させてしまうと、その独裁者が狂った戦争を始めても誰も止めることができなくなっている。
2022年2月から始まったロシアとウクライナの戦争ではこれがはっきりしている。
これらを防ぐために民主主義では、定期的な選挙と、メディアと新聞などの情報の自由と、それらを守るために法の下の平等と警察権の独立と、裁判の三審制などの仕組みがあり、これらをわれわれは民主主義と呼んでいる。
これらの仕組みが整って機能していれば、仮に狂った大統領が戦争を始めても、弾劾裁判などを行って弾劾することができる。
現在のロシアにはその仕組みが働かないことが問題なのである。誰の目にも狂った指導者と分かっているが、大統領を止めることができない事は、これらの国家資本主義や共産主義や社会主義などの一党独裁性と言う構造が、根本的なシステム欠陥の仕組みであることの証明となっている。
今後一党独裁の優位性を声高に叫ぶものは信用を失っていくことになるだろう。
ウクライナ紛争2020年2月下旬から、ロシアは隣の国に強盗殺人を行っている。プーチンは明らかに判断能力を失っていて核ミサイルを大量に持つ危険な独裁者となっている。独裁制がなぜ廃止されるべきなのかプーチンが表している。民主主義では愚かな代表は弾劾排除できるが独裁政治ではできない。
この意味において民主集中制を主張する共産主義は完全に終わったと言える。それは核ミサイルで世界を滅ぼしかねない、暴虐の限りを尽くす独裁者を生み出すことが完全に証明された。共産主義は欠陥理論そのもの。
ロシアはソ連崩壊後独裁者が支配するようになり世界の脅威となった。
ロシアプーチンのウクライナ侵攻は、共産主義は政治家官僚と一般国民に国を二分し貧富の格差を絶対化し人々の不満から自ら壊れてしまい、その後も独裁体制を続けることで自分の国も他の国も破綻させる侵略国家となると言う共産主義の最終形の証明になった。
今後共産主義を標榜するいわゆるレッドチームは国民の支持を完全に失って消え去る事になるだろう。
歴史のクーデターサイクル。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #スキしてみて
筆者は中国歴史物ドラマのファンで、三国志などは20回近くドラマや映画、漫画、小説などで見たり読んだりしている。
いろいろ歴史物を見ていくと、歴史にはクーデターを起こすサイクルがあることがわかる。
歴史的に、権力の頂点に立つ暴力者は、その頂点に立つ人物自身も将軍や軍人なので、人を殺して成り上がっていく存在である。当然戦争や軍略、人殺しの方法に詳しい。
こういった人物が権力の座に座り、権力が安定すると、その子供や孫に血統主義で権力を継承する。
すると2代目や3代目の存在は、戦争の最前線から離れて守られる存在になるので、戦争の最前線に立つことがなくなっていく。
必然的に子供や孫は、戦争の方法や人殺しの方法、軍略がわからなくなる。
逆に戦争の最前線に立っている将軍たちにとってみれば、自分たちより上に立つ存在の王様や貴族たちが、戦争や人殺しの素人なので、これらを倒せば自分が権力の頂点に立てると考えるようになる。
そしてクーデターを起こし権力の頂点に立つ。
王様や貴族といった封建主義の権力構造は、要は暴力が最もうまいものが権力の頂点に立つと言う仕組みで動いているので、より暴力が得意なものが国の頂点に立てるなら、将軍や最前線の戦いをしている者たちが、権力の頂点に反乱を起こして国を乗っ取れると考えるようになるわけだ。
このようなクーデターサイクルが歴史上に色々と存在すると考えている。
このクーデターサイクルを止めるために、暴力者が権力の頂点に立つこと止めるために選挙によって投票で権力の頂点を決めるのが民主主義。
民主主義がなぜ優れているのかと言う事はこういった観点からもわかる。
内戦が引き起こされるサイクルを止める効果。
(例えば、工作員から成長し大統領になった人物に、軍隊の最前線の将軍たちは、工作員から成り上がった大統領の言うことなど聞きたくない,と思っている人物は少なからずいるだろうから、そういった人物がクーデターを考える事は十分にあり得るし、またそうすべき時もあるし、そう働きかけるべき時もあろう。)
また、封建主義、権威主義では血統主義に基づいて権力を継承することが当然とされているが、親族同士、兄弟同士などで権力の座を争い殺し合い戦争をすることもよく行われる。
すると、独裁者は、誰に裏切られるかわからないと言う恐怖心にさいなやまされることになり、必然的に独裁者病と呼ばれる他者に対する潜在的恐怖心を払拭できないと言う病にかかり、誰に対しても暴力的に当たり散らすようになる。
こうして腹心の部下たちとも仲が悪くなり、独裁者は孤立し、孤立したがためにさらに暴力によって他人を強制し思い通りに操ろうとするので、最後にはすべての人から嫌われるようになる。
大統領などの政治の最高職に任期制限があるのは、こうしたサイクルを止めるためでもあり、それは大統領自身のためになる。
独裁者とは、こういった政治の歴史的常識に対し、理解力が足りない、そのため間違った政治を行う存在のことを言う。
ウクライナ紛争の見方。集団代名詞における確証バイアス型の演繹的錯覚構造2。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #スキしてみて
自分自身の自己イメージと国家民族と言う集団代名詞についての、自分の脳の中で発生させるイメージを同一のものとして考えると言う思考構造を、国家主義者民族主義者は持っている。
冷静に考えれば、国家民族と言う数の範囲は数千万から数億人いて、自分が直接知っている範囲はせいぜい数百人であり、自分の直接知っている国家民族の範囲は全体のごく1部に過ぎず、したがって自分自身が思い描く国家民族のイメージはあくまでも自分の脳の中に入っている国家民族についての知識の総量と、自分が直接知っている人々についての知識の総量から割り出された国家イメージ、民族イメージに過ぎず、それは実際の国家民族の人々の全ての数を足し合わせた数には遠く及ばない。
ところがいわゆる国家民族主義者と言われる人たちは、この数の範囲の違いを理解しておらず、国家民族と言う範囲についての、自分自身の知識とそこから生まれるイメージを自分自身と同一視し、自分は国家民族の一員であるから、国家民族もまた自分自身と同じものだ、といった勘違いをする。
すると今度は、国家民族の歴史を例に挙げて、国家民族は素晴らしい実績や業績を持っていると言い、そしてそれらの業績がある国家民族と自分も同じ範囲に入っているから、自分自身も素晴らしい人間だと勘違いする。他人の実績や業績は自分自身の能力や業績に変える事はできないのにここを勘違いする。
国家民族の歴史を素晴らしいと評価すると言う構造は、あくまでも、国家民族と言う集団代名詞範囲を、1人の人に例えて、その1人の人に例えた国家民族の歴史的業績を、評価し、それぞれバラバラの個人の実績や評価を国家民族と言う集団代名詞でまとめ上げた後、1人の人間が感じるように評価される栄光や名誉あるものだ、と集団代名詞範囲の国家民族を、1人の人間に例えてみたらこういう風に感じるであろう、と言う例え話に過ぎない。
ところが、国家民族主義者たちは、このイメージとして、また例え話としての国家民族の業績や能力、その栄光や名誉といったものを、自分自身にも同じ国民、民族だから当てはまるのだ、と拡大解釈し、実際には見たことも会ったこともない赤の他人の昔の人の業績も含めて、自分にも関係があるように勘違いして、自分自身の心理的自己肯定欲求に当てはめ、自分も素晴らしい人間だと思いたいがために、見たことも会ったこともない赤の他人の業績を同じ国家民族だからと言う理由で自分の肯定理由にする。
するとその人物は、何もしなくても同じ国家民族だからと言う理由だけで、他人の考えたことや行った業績などが、自分にも関係あるから自分は素晴らしいのだ、と自己評価に振り返ると言う作業を行う。
こうして実際には見たことも会ったこともない赤の他人の業績や能力を、同じ国家民族だからと言う範囲の共通性に過ぎないことだけを利用して、自分の自己評価に振りむけると言う心理的作業が、自分自身と世界への錯覚となって現れる。これが国家民族主義である。
そしてこの種の精神構造の人々は、国家や民族を1人の人に例えてその業績を栄光と賛美すると言うことによって、自己評価にすり変えると言う心理的作業をすることに慣れてしまっているので、今度は国家民族の失敗や戦争の敗北などを、自分自身の敗北や屈辱感として考えると言う精神構造に陥ってしまい、そこから抜け出せなくなる。
例えば、昔どこどこの島々で争いがあり国境線が確定したと言う話があって、その島は昔は我々のものだったのに昔相手の国にとられたと言う、理屈を立ててそこに屈辱感を感じる、そしてそれを取り戻さなければならないと煽り立てて戦争を始めてしまう。
昔の人が争って遠く離れた行ったことも見たこともないような場所について、興奮して争うと言う人々は、このような思考の錯覚にとらわれている。
このように論理的に順番に考えれば大半の戦争の理由と言われるものは錯覚に過ぎないとわかるのだが、この種の思考の持ち主たちは、こういった人間の思考が生み出す自分自身への罠に気づくことができない、そして見たことも会ったこともない他人を殺すために行ったこともない場所に行って戦争を始めようとする。
ロシアのプーチン大統領がウクライナに戦争を仕掛けていて、誰の目にも明らかな侵略を行おうとしているわけだが、ロシアの政治家の人々は、昔アメリカを始めとする西欧諸国が、世界中で人権外交を展開し、旧共産主義圏を民主主義国家に変えていった歴史を、ソ連やロシアと言う国家の屈辱と考え、その国家の屈辱を自分自身の屈辱と考えると言う国家と自分のイメージの一体化を図っているので、その屈辱感を払いのけるために、昔西欧諸国が行っていた人権外交と同じ形、共産主義圏の民主化を推進するために様々な宣伝を行っていたことと同じ手法を、今度はウクライナにしている。
つまり彼らの心理的構造の根底にあるのは、ソ連時代に感じていたアメリカヨーロッパ諸国に敗北したソ連の歴史に対する屈辱感の回復行動であり、このような思考の構造的錯覚にとらわれたままの何の意味もない戦争であると言うことができる。
彼らはその昔ソ連から民主主義国家に変化してきた東ヨーロッパの歴史を、民主化の歴史とは考えず、ソ連と一体化のイメージを構成していた東ヨーロッパ諸国が裏切っていった敗北感の歴史と言う観点で捉えており、政治構造上の民主主義と共産主義の本質的違いと言う構造論で考えてはいない。
要は、昔敗北した自分たち自身のトラウマと劣等感の回復行動として、今度はヨーロッパに戦争を仕掛け、自分たちの心理的劣等感を払拭しようとしている。
国家と自分自身を一体化したイメージで考えているので、そういった思考構造上の錯覚によってフラストレーションが溜まり、その回復行動として戦争を選択すると言う最も愚かな心理的錯覚の持ち主たち。
有り体に言うと、プーチン大統領とその取り巻きたちは、過去味わった劣等感と復讐心を持って戦争を仕掛けようとしているわけだが、そもそもソ連が崩壊したのは全体主義国家を運営し、人々の人権を踏みにじった結果、人々が反乱を起こしたからであって、本質的に共産主義が持っている全体主義的思考の失敗であり、党の役員と政治家官僚を特権階級とし、それ以外の人々を配給制度の下貧困状態に起き続けた結果、人々のフラストレーションが構造的に高まって崩壊したのであって、本質的な共産主義そのものに内在する構造欠陥による自壊性。
この政治構造についての本質的理解がプーチン氏を始めとするロシア主導部にないようだ。だから彼らは国家民族と言うイメージと自分自身のイメージを一体化して考えると言う考え方から、国家の敗北=自己の敗北=劣等感=復讐して晴らす、と言う単純な構造で動いている。
集団代名詞における確証バイアス型の演繹的錯覚構造について理解しておけば、このような紛争は起きないであろう。
全ての戦争を止める方法。集団代名詞における確証バイアス型の演繹的錯覚構造 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #スキしてみて
戦争の現実を考えてみよう。
最前線の兵士同士は、敵同士、知りもしない赤の他人同士である。
なぜ知らない者同士が殺しあいをしているかと言えば、指導者たちに戦争をするように命令されたからである。
ではその指導者たちと最前線の兵士たちは知り合いだろうか、ほぼ直接の知り合いではないだろう。
つまり、戦争の現実とは、見たことも聞いたこともない知り合いでもない赤の他人に命令されたからといって、行ったことも見たこともない別の土地に行き、赤の他人を殺しに行く作業である。
このように考えてみれば、戦争と言うものはいかに意味がないかがわかる。
一斉理論
敵と味方の双方の兵士が、一斉に同時に
この戦争やめた
と両手を上げてやめてしまえば、戦争は起きなくなる。
すると困るのは、その戦争をして得をする指導者たち。
つまり戦争をやろうと考える指導者たちは、人々が無意味な殺し合いをしてもらったほうが得をするので、赤の他人同士を殺し合いをさせて自分だけが得をしようと考えている。
人々に、指導者の個人的利益と特権性の維持のために、見ず知らずの土地に行って赤の他人を殺してこい、と命令したら、だれもそれには従わない。
そこで指導者たちは、自分たちの個人的利益のためと言う本音を隠すために、国家民族のために、そしてその歴史のために戦争する事は素晴らしいことだ、と人々に教え込む。
すると人々は、自分自身が素晴らしい人間だと思いたいと言う自己肯定欲求を持っているので、戦争に参加すれば国家民族の中の他人に認められ、自分自身が素晴らしい人間だと自分を肯定できると思い込み、見ず知らずの土地に赤の他人を殺しに行くことを選択する。
つまりここには、個人の脳の中で、生存欲求と承認欲求の正常な順番が逆転していることがわかる。
思考の順番の逆転を起こすために、指導者たちは戦争の素晴らしさを教え込もうと、国家民族と言う名称範囲の素晴らしさを強調する。
普通に考えれば、国家と言う範囲の人の数は数千万人から数億人にのぼり、個人の直接の知り合いの数は多くてもせいぜい数百人であるから、大半の人にとって国家民族といっても、ほとんどは知らない赤の他人のこと。
ところが人間には集団代名詞における確証バイアス型の演繹的錯覚構造と言うものがあり、ほとんど知らない赤の他人の集まりである国家民族と言う範囲であっても、代名詞上1つの国家、1つの民族と考え始めると、1つのまとまりと考え始め、そこに自分自身の脳の中に入っている国家民族の歴史などの知識を入力して、1つの国家民族像を作り出し、実際にはほとんど全く知らないのに、1つのまとまりのもので自分も知っているものだと勘違いし、自分の国家民族のことを知っている、赤の他人の他の国家民族のことも知っている、知っているから相手の国民民族と戦争をして殺さなければならないと錯覚する。
このような錯覚の構造を知っていれば、赤の他人を殺しに行って見ず知らずの土地で人を殺さなくても、知らない人たちのことなのだから私は戦争しませんと考えられるわけだが、大半の人々はこのような錯覚の構造を知らないので、見ず知らずの土地に行って赤の他人を殺しに行くと言うことを錯覚を持って行う。
錯覚は錯覚でしかなく、真実に気づけば一瞬にして晴れてしまうもの。
錯覚に気づいてしまえばその構造の愚かさに気づき、真実に目覚める。
国家や民族といっても、私が知っている知識と国民民族内の人の事はごく1部に過ぎず、ほとんどは知らないものであって、まして他人の国家民族の事はほぼ全く知らないと考えれば、赤の他人を殺すために見ず知らずの土地に行く事は意味がないと拒否する。
そのような国民が増えると指導者たちは、戦争をして得をすることができなくなるので困ってしまうため、人々を弾圧し抑圧し嘘を吹き込んで操ろうとする。
集団代名詞における確証バイアス型の演繹的錯覚構造に気づいていれば、このような指導者たちの嘘に巻き込まれる事はなく、無益な戦争と人殺しをしなくてもするようになる。
この錯覚構造に気づいている事は世界中の戦争を発生させないために必要な人格的素養。
単純に言えば、知りもしない赤の他人を殺すために、知りもしない指導者から言われたからといって人殺しなんかしませんよ、とすべての人々が言えば戦争は始まらず終わる。
この錯覚から抜け出しておくことが全ての永遠の平和を達成する方法。
国家民族といっても、その内容は、全く知らない赤の他人の集まりに過ぎず、その栄光ある歴史などと言われているものも、大半は自分とは関係のない赤の他人が作り出したもので、その他人たちとは見たことも会ったことがないものがほとんど。
そしてその集団代名詞としての国家民族の言語範囲に、自分自身が入っているからといっても、他人が行った業績や能力は、決して自分のものにはならない。
ところが集団代名詞における確証バイアス型の演繹的錯覚構造を人は持っているので、知りもしない赤の他人の能力と業績も、同じ国家民族の人のことだと考えると、自分も同じ国家民族に属しているから関係があり、他人が行った業績や能力も、自分も同じ国家民族に属しているから、自分を肯定する理由になると思い込むと言う錯覚を持つ。
他人の能力や業績は自分とは関係がないのに、集団代名詞上、同じだからと言うだけの理由で、自分自身を肯定する理由になると勘違いしている。
集団代名詞の国家民族と自分自身を一体のものとして考えると言う、思考上の錯覚を持つ。
他人の集まりの国家民族を、1つの集団代名詞のまとまりとして考え自分自身もそれと一体のものだと考えて、1つの観念で考え始めてしまい、同一のものと考えることによって自分を肯定する理由にできると勘違いしてしまうのだ。
これがいわゆる国家主義民族主義の心理的錯覚構造で、この錯覚を利用して指導者たちは人々に人殺しをさせようとしている。
このような邪悪な企みに騙されてはならない。
何万年もの間、人々はこのような錯覚に騙され、知りもしない他人同士で殺し合いをさせられてきた。そろそろそれは終わるべき頃だ。
わかりやすく言うと、オリンピック選手が活躍し、メダルを取ったので、国家民族の優位性が明確になった、そしてその国家民族の範囲に自分自身も入っているので、自分自身の優位性も証明されたので、自分自身は素晴らしい人間だ、と言う考え方は完全な錯覚。
他人の能力と実績は、同じ国家民族の人であっても、それ以外の他人の能力と実績にはならない。
国家民族と言う名称範囲に素晴らしい歴史があるからといっても、それは他人の能力と業績の集まりに過ぎず、自己肯定理由にはならない。
共通している範囲があるだけ。
なにがしかの劣等感に悩まされている人が、自分自身の心の不足感を穴埋めするために他人の能力と業績を自分自身の肯定理由にすり替えようと、国家民族と言う名称範囲の共通性に着目し、執着するようになり、これが国家民族主義なっていく。それは完全なる錯覚構造。
そしてその錯覚構造で殺し合いを進めれば、戦争が起き、戦争を続けるテクノロジーが進歩し、人類を滅ぼす力を作り出してしまう。
人類滅亡公式。
人類は錯覚で殺し合い滅びようとしている。
われわれはこの錯覚構造から抜け出さなくてはならない。それが全人類を永遠に平和にする方法。
階級差別主義者と戦争 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします
独裁体制、共産主義、王族貴族制度、封建主義、権威主義は、国家民族は特権階級の下に支配されるべきであり、特権階級は一切の責任を問われることはなく、それ以外の国民を弾圧し搾取し暴力によって抑圧し殺しても責任を問われる事は無いと言う体制を正当化しようとする。
王族貴族、独裁者、党とその役員たちは特権階級であり、人々を弾圧し搾取し殺しても責任を問われる事は無いと言う無理なことを通すために、暴力を用い国内において国民を弾圧監視し、国外において戦争を行う。
皮肉なことに、共産主義者はそのような階級差別を根絶するために生まれたと自称していたが、現在ではその共産主義グループこそが、人々を弾圧し、共産主義の者たちは特権階級として振る舞い、責任を問われる事は無い階級差別国家を作り出している。
王侯貴族にかわり、特権階級として共産主義とその勢力を絶対階級とし、国民から搾取しようとしている。
かつて革命とは階級差別の撤廃と平等化を意味していたが、共産主義においてその革命を行った人々が、今や自分たちの特権性を良しするために階級差別を正当化しようと様々な情報宣伝工作を利用している。
要は人々を騙して自分たちの特権性を維持しようと謀略と主張を巡らし人々を嘘の理由で洗脳しようとしている。
人間とは歳をとるとともに、若い頃の主張と逆転の主張をするようになり、自己矛盾を抱えることがあるわけだが、皮肉なことに共産主義を行っていた人々は自らの主張の逆転と矛盾を自覚しようとしていないようだ。
それどころか今や彼らはかつて彼らが若い頃敵視していた搾取階級に自らがなっている。
そして彼らは何の罪もない人々を搾取し弾圧し殺すことに何の迷いもない完全なサイコパスになっている。
本当に人々のために民衆のために革命を行おうと考えるのであるならば、本来的に自分たち自身の特権性もまた否定しなければ矛盾することになる。
これらの意味においていわゆる革命主義と呼ばれていたものが、時間とともに陳腐化してしまっていることをわれわれは理解すべきであろう。
どのようなことにおいてであれ、国家のどのような役職なものであっても、選挙などを通していつでも国民が国の指導者をクビにできる仕組みを持つことが、それらの階級差別主義に対する対応策だと言うことをわれわれは理解しておかなければならない。それこそが民主主義であってそれ以外の何物でもない。
かつて革命主義に興奮していた人々は気づくべきだ、今や自分たち自身が階級差別主義者となり、階級差別と暴力を持って人々に強制しようとする暴力主義そのものに陥っているのだと言うこと。
彼らの精神性は暴力に依存し他人に強制しようとすると言う意味において本質的に邪悪なのだ。
その反省の能力がある事によって、自らの愚かな過ちを正す力が生まれる。
そこに階級差別主義の本当の意味での消滅があり得る。
彼らに自らの姿を反省する能力が残っているかどうかが問われている。
全ての戦争を発生させない方法。自律制御自己完結型の論理。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと
血縁のつながりを人々が大切にするのは、同じ親族親子関係が相互保障関係につながると言う暗黙の了解があると人々が考えているからである。
例えば別の世界を想像してみて、その世界では親子兄弟が必ず殺し合うと言う世界を考えてみるとわかる。
その世界では、親子兄弟と考えると必ず殺し合うので、その世界では人々は皆自分は他人と親子兄弟の関係にはないと言い出すだろう。
つまり、親子関係や親族など血縁関係を大切にすると言う考え方は、単に生物本能と言うだけでなく、それが生命の個体と個体の相互保障関係を構築していると人々が考えると言う、暗黙のルールが存在していると人々が考えるからである。
人々が血縁関係や親族関係、もっと言うなら国家関係や民族関係を大切にすると言う時本当に求めているのは、国家や民族親子親族という、全人類の母集団の中の集団内の範囲限定の話ではなく、相互保障関係と相互扶助関係を確立したいと言う欲求なのだ。
だからこの欲求は世界中の人々が共通し、同意している欲求なのである。
問題は、親子関係血縁親族関係があるからといって人と人とは必ずしも助け合わないし、相手を襲わないと言う理由にはならないと言うこと。
個体のエゴイズムを満たしたいと考える時、他人を傷つけても自分の利益になることをしようと自己の比較優位性を確立しようと考えることもよくあることなのだ。
親子兄弟で殺し合う犯罪事件は世界中でいつも起きているし、国家民族を理由にした戦争もよく起きている。
これが相互保障関係と相互扶助関係の構築を阻害もしくは破壊することになる。
したがってこれらを止めたいために、人々は法律を作ったり強制力を用いてこれらの破綻を止めようと考えている。
人々が自己の相互保障関係と相互扶助関係をある特定の範囲に限定し、それ以外は助けず見捨てると言うことを繰り返していけば、自己及びその所属する集団とそれ以外の人々との軋轢は絶えず、争いは絶えず、戦争も絶えない、これを愛情の限定化問題と言う。
だから世界中で戦争が起き続ける。
愛情を感じ相互保障関係を構築すると言う問題は、愛情と言う感情を、個人の脳内に引き起こす理由は、人それぞれであり、必ずしも全人類共通とは言えず、またその個体の所属する文化民族、個人的経験によって差があるため、愛情と言う感情の引き起こされる理由の範囲がそれぞれバラバラなので、愛情を感じる相手は助けるが、愛情を感じない相手は助けないと言う範囲の限定が起きやすいために、愛情を持つ、そしてその相手を大切にすると言う範囲の感情発生の理由の限定性がある、これがすべての個人の保障関係の全人類全体への適用にとって問題となっている。
わかりやすく言うと、自分の民族や自分の国家の人は愛すると思うが、それ以外は愛さないと言う感情発生理由の限定性が、全人類全体の相互保障関係の構築にとって範囲を限定すると言う問題となっているのだ。これは感情発生構造の範囲限定性の理由による。したがってこの範囲限定性を超える全人類共通の目標設定が必要。
自分の国と同じ民族の国民との範囲の人々だけ愛し保障するが、他国と別の民族の国民は助けず見捨て殺す、と人々が考えている内は、戦争が終わる事は無い。
本当に人々が求めているのは、国家や民族や親子や血縁関係と言うより、相互保障関係と相互扶助関係の構築なのだと理解するようになれば、国家や民族の理由を用いて人と人とが殺し合うことが全く無駄であるとわかるようになる。
親子関係、血縁関係、国家民族の範囲に相互保障関係や相互扶助関係を限定し、それ以外の人々を排除すると言う考え方を持ち始めると、排除のためには暴力を必要とするようになり、暴力関係と対立から、より暴力のつよいものが勝ち取ると言う関係になるので、必然的により暴力を強くしようと暴力の競争が始まり、それは人類のテクノロジーの進化とともに、最終的に人類全体を滅ぼす暴力能力の開発に行き着いてしまう。(他者排除型の論理体系)。
これを人類滅亡公式と言う。
自分が大切にし愛情を持って助け合いしようと思う範囲を、国家や民族と言う範囲だけに限定してしまえば、このような副作用が起きるのだ。
したがってその愛情の範囲の限定性を止める考え方を人々は基本とすべきなのだ。
したがってすべての人の相互扶助、相互保障関係を確立する為に、すべての個人がどういった目標を持てばいいのか、このような問いが発生する。
これを人類命題と言う。
全人類全体が戦争をせず、戦争を起こさず、暴力を用いず集団化し相互保障と相互扶助関係を確立する目標とは何か、それは人と人との間の範囲の限定をせず、すべての人に愛情の範囲を拡大すると言うことに他ならず、そしてそれはすべての人の共通の構造において確立する目標でなければならない。
目標設定は、人間は欲望においてそれを設定する。すべての人に欲望は共通し、欲望とは欲望に置いて目標を設定しそれに現在もしくは現状を適格させるよう変化させ、追随しようという働きを持つ。
これらのことを踏まえ、すべての人の欲望の達成を目標とするとするとき、欲望の働きとは欲望の目標に合うことを快楽、合わないことを苦痛とし、欲望に合わないことを欲望に合わせるように物事を変化させることを言うのであるから、それは欲望に合わないと言う苦しみを解決すると言うことになる。
そしてその範囲を、個人やある特定の国家民族や親族血縁関係などの範囲に限定せず、すべての人に適用すると言う意味となる。
これらすべてのことを合わせると、すべての人がすべての人の苦しみの解決を目標とすること、より難しく言うなら、すべての人がすべての人の欲望の未達成状態を達成状態に変化させるように目標を求めること、これをすべての人が目標として持つ時、すべての人がすべての人の苦しみの解決を目標とするのであるから、相互保障関係と相互扶助関係はこの目標のもとにすべての人が確立し、お互いの苦しみを解決しようとするのであるから、暴力を持って他人を強制する必要はなくなり、自発的に暴力の必要性はなくなるので戦争が起きることもなくなる。
これを自律制御、自己完結型の論理と言う。これは本当に全世界を永遠に平和にする方法である。
偽政治運動としての分断弱体化工作運動。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと
ロシアがウクライナに侵攻するために、ロシアの政治工作の1つとして分断弱体化工作としての偽政治運動があると言われている。
相手の国を弱体化、分断するために、偽の政治主張をインターネットなどを中心に繰り広げ、人々を洗脳し騙そうとするやり方。
例えば、ウクライナの1部地域はもともとロシアのものだったとか、ウクライナの中のロシア住民の人々が虐待されているなどといった偽の情報を流す。
またそのために工作員を送り込み運動を展開する。
戦争のやり方もさまざまに変化してきており、このような情報工作、偽政治運動が繰り広げられている。
例えば原子力発電所に反対すると言って、環境保護団体に見せかけながら、実際には相手国の核開発能力を阻害するために、偽の環境保護団体を作ったり、相手の国々の仲を悪くするために、人権問題を煽って国同士が喧嘩するように仕向けるために、偽の人権運動団体を作り、人権問題を煽り立てて相手の国々の弱体化、分断を図ると言うやり方があると言われている。
今後はこういった偽政治運動、分断弱体化工作とそうでないちゃんとした運動の違いを見分けることが21世紀には必要とされている。
分断工作ビジネスの人々 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
メディアバイアスは真実な報道を歪める有害性を持つ。
2022年1月サッカーイングランドプレミアリーグ、チェルシーと言うチームにおいて、Lukakuと言う選手が、監督批判をしたと言う報道があり、ルカクは1試合ベンチ入り選手登録から外されると言う事件があった。
そこでこの選手の受けたインタビューの内容見てみると、要点は、監督の戦術が変わったのだが自分はそれに適応しなければならないと言う趣旨の発言であり、必ずしも監督の批判をしたとは言えない。
この選手は監督の批判をしたつもりはないのだが、その後、メディア側が、解説文のところで、選手が監督を批判したと受け取られかねない、などといった余計な文章を付け加えることによって、チェルシーと言うチームの中に、監督と選手の対立が起きている、と言う、喧嘩していると言う文章に仕立て上げることによって、記事のアクセスを増やそうと言う意図が、見受けられると言わざるを得ない。
こういった記事は、スポーツ界ジャーナリズムによく見受けられる。
これは存在しない選手と監督の対立を煽り立てる、分断工作を仕掛けることによって、記事のアクセス数を増やそうとしていることに他ならないと考えられる。
メディアは、情報を人々に買ってもらうために、当人たちの意図とは異なる解説文を取り付けることによって、文章のアクセス数を増やして広告費を稼ごうと言う傾向がある。
これをメディアバイアスとするならば、当人たちの意図を無視した情報を多数の人々に知らしめることによって、当人たちの直接の関係に有害な影響を及ぼしかねないと言う点において、非常に悪意のある解説文の取り付け方だと言うことができる。
実際これらの、監督批判と選手と監督が対立しているように見せかける解説文をつけることによって、メディアはお金を得たかもしれないが、結果当人たちには何の対立や問題もないのに、対応を迫られたチェルシーは、ルカクと言う重要な選手を試合に出すことができないと言う状況になった。
メディアがお金稼ぎのために、当人たちの意図とは違う形で情報を脚色し、対立を煽りそれによってお金を得ようとすると言う行為が見られる。
こういったメディアが、真実をゆがめてお金を得ようとする行為自体が、極めて有害である、また真実を捻じ曲げることによってお金を稼ぐことを正当化することによって、邪悪な影響を社会に及ぼすと言う視点を持っていると非難されている。
メディアは自分たちの振る舞いによってその当人たちに与える影響や、社会に与える影響もある程度考えて情報を正確に伝える義務を持っている。
さもなければ、そのようなメディアの出す情報は、真実性が薄くお金を払う価値がないと人々が思い始めたら、そういったメディアを購入する人々は全体として減っていき、メディアの存立に関わることになっていく。本質的にメディアの墓穴を掘る行為。
ジャーナリズムとは本質的に真実の追求でなければならないのはこういったことによる。
特に海外のサッカーメディアでは、時々こういったひどい脚色のある文章が見受けられ、メディアとして信用性を大きく損なっていることを理解しておく必要がある。
メディア自体が拝金主義に落ち、お金を稼ぐためのプロパガンダを作り出し、世間の人々を欺き操ろうとして、それによってお金を稼ぐために真実の情報に様々な脚色を付け足して、嘘偽りを真実であるかのように仕立て上げて、その情報を買ってもらおうとする傾向にある時がある。
そのような行為の積み重ねが、メディア全体への信用性を失って行かせることに対し、メディア自体が、自分たちの存立危機になりかねないと言う危機感を持っておかなければならない。
どれほどのことを言ったところで、ジャーナリズムとは、他人の情報を横流しすることによってお金を得る行為であるのであって、決して当事者ではないのだ。
第三者が当人たちの意図を無視して、情報を加工し別のものであるかのようにすり替えていくことによって、お金を稼ごうと言う行為は、邪悪に満ち溢れたものになりかねないことをジャーナリストたちは肝に銘じるべきであろう。
こういった存在しない対立を煽り立てて、分断工作を仕掛けお金に変えようとするジャーナリストがけっこうな数いて、民主主義社会は危機感を持たなければならない。
それは民主主義において重要な役割を持つ、真実を報道する働きのジャーナリストとは別に、真実を歪めることによってお金を得ようとする、邪悪なジャーナリストもまた存在するのだ、と言う危機感を持つ必要がある。イーブルジャーナリズムと呼ばれている。
そのような存在による情報の流通は、民主主義において巨大な危機をもたらしかねないと言える。
なぜならそれはプロパガンダに利用されかねない洗脳装置として機能する可能性があるからだ。
こういった危険性がスポーツジャーナリズムなどを含むすべてのジャーナリズムにあると言う危機意識が必要。
単純でナイーブな反権力主義が正義とはされない時代
世界は権威主義対自由主義の対立になりつつある。
権威主義体制に組み込まれると言う事は、絶対的権力の支配者に奴隷にさせられると言う意味となる。そういった社会での国民は自由な考え方を許されず、自由な発言も許されず自由な行動も許されない。
なぜなら権威主義体制とは、支配者層の利益を最大化することが目的とされるからであり、国民のすべての人々の幸福と苦しみの解決を目標とするものでは無いからである。
そういった権威主義国家にとって、国民とは、騒乱を起こし支配体制を不安定にする厄介者として扱われる。
自由主義諸国にとって国家とは、国民のためにある器であって、国民の幸福の最大化、さまざまな苦しみの解決のためにあるシステムである。国民の自由のために国家制度があるのであって、国民の自由を制限することで支配者層の利益を最大化しようとする、権威主義階級差別主義の考え方とは根本的に対立している。
それはより本質的な意味において、集団化の方法論と思考論を、演繹的思考に基づくか、帰納法的思考に基づくかの違いになる。
国家とは支配者のためにあるのだというのが権威主義国の考え方であり、国家と国民のためにあるのだと言うのは自由主義諸国の考え方である。それは、人類はなぜ集団化するのかと問う時、1部の人々のために集団化するのか、それともより大多数のために集団化するのかと言う違いでもある。
権威主義での国民の意味と、自由主義の国民の意味は全く正反対。
権威主義、階級差別主義の国では、上位の階級にあるものの責任は問われず、原則としてその権力は永久化されている、民主主義社会においては、指導者や政治的リーダーたちは定期的に選挙で権力の座から外されることがある、力関係において民主主義では国民の方が権力者より上となる。
かつて、1970年代、世界中で反権力ムーブメントが起きたときは、単純に権力に反対すると言うことがかっこいいとされた時代があり、音楽で言えばロックなどが売れた。
現代においては、自由主義諸国の政府に反対すると言う事は、自由主義諸国の政治体制を不安定にし、結果として自らの自由主義国を権威主義国家に負けてしまう国にしてしまうために、国家に反すると言う存在になると言うことが、権威主義諸国への掩護射撃となってしまうと言う政治的枠組みとなっている。
権威主義諸国が自由主義諸国を打ち負かしてしまえば、様々な権威主義諸国がその支配体制に他の国の人々の組み込み、自由主義諸国の自由は失われることになるだろう。
この意味において、自由主義諸国において反権力と言う意味を持った行動やポーズをとること、態度をとることがかっこいいとされた時代は完全に終わったと言える。
それはつまり、自由主義諸国の自由体制を不安定にすると言う意味において、権威主義諸国への援護をしてしまうと言う、むしろかっこ悪い行いとなってしまったわけだ。
自由主義国の政治を支えない存在になることによって、権威主義、階級差別主義を援助、擁護、協力してしまうことになる。
民主主義国家の民主主義体制を否定し破壊すれば、他の権威主義国家、階級差別主義国家の奴隷にさせられることを意味する。
それは自らを奴隷にしてしまうことを意味する愚かな行為となる。
かつてとは、価値観も選ばれるエンターテイメントもその意味論も大きく変わった。
この世界の思想と潮流の変化を理解しないものは、時代に変化についていくことができなくなるだろう。
単純でナイーブな反権力主義の時代は終わった。
政治議論はより細かく精緻なものになっている。
善人は共産主義と離れなければならない。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
共産主義は、皆に平等に物資と生産物を分配すると言う約束をして、国民から政府に生産物と物資を全て集めさせ、特権階級の党の役員と官僚たちがほとんど奪い取る。
善人であろうとする人々の中に、富の偏在性を問題視する人々がいて、お金持ちばかりが幸せになる世界であってはならない、と言う考え方から、人々にお金も物資も平等に分配すべきだと主張する。
しかし実際にそれをやろうとすると、政府にすべての生産物を一度集めてしまうため政府と政治家と官僚が人々の生産物とお金を全て奪い取り、平等に分けずに独り占めにすることができてしまうので、不平等と格差が絶対化して、共産主義社会は絶対的な階級社会、政治家官僚等の役員たちが特権階級になる。しかも一党独裁なので誰も取り戻すことができない。
世界中で共産主義を行っていた国々が絶対的な階級社会となり、弱者が固定化し搾取され殺されていくのは、もともとの共産主義の考え方そのものに欠陥があるためであり、これは歴史的事実。
世界中の共産主義国家はすべて、世界で最も貧しくなり、にもかかわらず絶対的な階級社会で、監視国家であり、人々の思想と表現の自由を認めず監視し弱者を殺している社会となっている。
共産主義は確かに資本主義の問題をあぶり出すことにある程度成功しているのかもしれないが、だからといって共産主義がより良いものであると言う理屈にはならない。
内科医がうまく患者を診断したからといって、その患者を手術する外科医が手術を必ずうまくやり遂げるとは限らない。
資本主義の欠点を指摘することが上手いからといって、共産主義者がより良い世界を作れるとは限らない。
むしろ共産主義は問題をさらに悪化させるもの。
善人であろうとして人々に平等に物資を分けるべきだと考えるならば、共産主義者であってはならない。共産主義は要は詐欺師の理屈。
私に全部預けたらみんなに平等に配るから、と言って詐欺師がすべての人々の生産物を独り占めにしてしまう。
(中国は共産主義をやめ、一党独裁型開発資本主義を行なっている。)
このような歴史的理解を深めていけば、自らが善人であるべきだと考えるなら、むしろ富の分配を政府や個人に集中する形と独裁ではない、別の形を取らなければならないと言うことに気づくだろう。
善人でありたいならば共産主義とは離れなければならない。
第三次世界大戦に至る可能性。5%位。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
トルコショックで金融ショック→中国土地バブル崩壊で経済悪化→世界株価下落→物価高。→それによる中国金融危機発生→この損失穴埋めのために台湾侵攻作戦を行う可能性→これに呼応してロシアがウクライナに侵攻、北朝鮮が韓国に侵攻し第三次世界大戦に至る可能性。5%位。 #戦争 #平和 #心理学 #哲学
トランプ大統領の大統領選挙敗北は民主主義の機能の証 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
トランプ大統領の大統領選挙の敗北理由は明らかだ。ウィルス対策に失敗し死者数を数十万人規模で出してしまったからである。
国家の指導者を投票で変えることができることが民主主義の機能であり、指導者が失敗したときに速やかにその指導者を変更することができる方が、国家としては方針の間違いを正すことにおいてよりスムーズかつ素早く行うことができる。
この意味において、独裁国家ではこの指導者の変更が起きることがないため、失敗する指導者がいつまでも在籍し続けることにより、失敗を続け国家全体を間違った方向に進めてしまう。
民主主義の方が他の独裁国家群よりはるかに優れているのはこのためである。
理性的な判断能力があるものならば、より国のため人々のための政治体制とは、国家の指導者を選挙で変えることができる体制の方がより良いと言えると言うことがわかる。
独裁国家群が破綻していくのもこのメカニズムにある。間違っている指導者をリーダーとして在籍させ続ければ国家が破綻するのは当然だ。
したがって人々が理性的討論と問題点の認識を深めていけば世界中の全ての国々は必然的に民主主義に向かうことになる。
この世界の流れに抗っている人々とは、世界の人間性の理性の歴史的進行と進化に戦いを挑んでいると言う意味において、世界の人類の進む方向に対抗する抵抗因子として存在しようとしているがために、最終的にうまくいかずに消滅していくことになる。
彼らは人類史の進む未来の方向に抗えると信じているが、それは無理と言うものだと言うことが当然だとわかる。
したがってどこかの時点でこれらの試みを行っている者たちは、持続可能性を失い消滅していくことになる。
最後までよりよく生き残りたいと言うならば、この持続可能性を大切にし自らの考え方や振る舞いを変更したほうがより良いとわかるだろう。
デモクラシーファーストとしての国際経済環境 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
昨今の国際情勢を俯瞰してみると、民主主義諸国は、これまで世界の資本主義化を続けていけば、それぞれの国々が自動的に、民主主義を目指すと言う、資本主義化民主主義移行論を信じてきた。
残念ながらそれは幻想に過ぎなかった。お金を稼がせれば民主主義と自由主義を選ぶとは限らない。
それどころか、経済力を持った独裁主義国は、必然的に民主主義諸国の自由主義を抑圧し弾圧する力を持ち始めたことに自由主義諸国は警戒感を持っている。
今後民主主義諸国は、民主主義諸国同士で経済力を強化し、それ以外の国々を経済的に抑制する必要性を理解し始めている。
必然的に民主主義諸国は、独裁国家等の経済に対し、関税措置などを通じて抑制していくことになる。
それはつまり、民主主義諸国以外の国々の経済成長率が抑圧されると言う意味であり、平たく言えばそれらの国々の株価は今後上昇率が限られることになるだろう。
デモクラシーファーストと言う国際経済環境が準備されようとしている。
世界の国々は、民主主義を選択しなければ経済成長を勝ちとることもできないと言う経済環境が、世界の民主化を生み出していくことになる。
こういった国際経済環境が政治的に整備されていくことになるだろう。
運を失うサイコパス2 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
エンターテイメントとは作品を通して他人の感情を引き起こし揺さぶる能力が必要とされる分野である。
サイコパスにはこの能力が欠けている。サイコパスは他人への共感能力がないからである。冷酷非情であることが他人よりも自分自身の比較優位性を確保できると考えるサイコパスには、他人と感情を共有し弱っている人を助けると言う感情は自分自身の優位性を阻害する邪魔な物と考える。
必然的にサイコパスはエンターテイメント分野に関する能力がないと言える。
サイコパスがエンターテイメントで成功しているように見えても、それは一時的なもので、持続性にかけるのはこのためである。
恩義礼節を無視するサイコパスの性質は、エンターテイメント分野にとって最も適さないのだ。
だから時間とともに、これらの性質の持ち主たちはエンターテイメント分野からいなくなることになる。
恩義礼節を大切にしないエンターテイメント分野の人がいたら数年ほっとけばその人物は必ずいなくなる。
(これは個人的にも直接な体験談です。こういう構造的理由があるわけです。)
サイコパスはなぜ運を失うのか #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞2022
人助けをしている人は、他人を助けてくれる人なので、必然的に他人に運をもたらす。
サイコパスは他人から助けてもらっても感情的共感能力がないために、感謝したりお礼を言ったりすることがない。必然的にサイコパスは他人から助けてもらったことをすっかり忘れて恩人を無視するようになるので、その人物はそれ以外の他人からも助けてもらえなくなるようになる。
周囲の人からすると、サイコパスを助けても感謝もされず無視されるのであるならば、助けるだけ無駄と言う人物評価になる。
こうしてサイコパスは社会から孤立していくことになるので、必然的に自分にとって助けとなる機会を失っていく。
こうしてサイコパスは経済的にも行き詰まっていく。
サイコパスには破滅する構造的理由がある。
このような構造があるにもかかわらず、サイコパスの人物は、他人と関わるのはリスクとコストが高く、一時的に得をしたら後は他人を無視した方が成功を持続できると過信してしまうのだ。
人を助ける事はリスクとコストが高いため、自分にとって足手まといと言う態度で他人に接するわけだ。
こうしてサイコパスは時間とともに失敗を続け消滅していく。
そのためサイコパスは、困ってしまうとその局面の打破のために、暴力に依存するようになり、必然的に暴力主義者として周囲に知られるようになる。
世界中の独裁国家が暴力に依存していくのはこのような構造の為である。
日本の悪い癖 会社封建主義と面子主義重視のメンタリティ #戦争 #平和 #心理学 #哲学 作家 D みと #フォロー お願いします #創作大賞
会社の中では、部下が発案したり提案したりした内容も、その部署の上司の手柄として評価されがちである。
したがって、部下の者たちは、手柄を横取りされるわけにはいかないと、なかなか上司に新しい案を提出しなくなる。
上司からすると、自分の面子を保つためには、部下の提案で成功したら、自分の手柄として評価されてしまったことで後ろめたいことになり、本当のことが言えなくなる。
このような面子主義重視のメンタリティが蔓延しているので、新しい案や提案が国全体として出てこなくなりがちである。
アメリカではAppleに代表されるGAFAMと呼ばれるIT関連企業の株式時価総額だけで日本のGDP 540兆円余りを大きく超えている。アップルだけで200兆円を超えている。
日本の中にある、会社封建主義と、メンツを最重要視し真実を嘘で隠す面子を重視する面子主義メンタリティーの改善がない限り、このようなアメリカと日本との差は今後も開き続けるだろう。
新しい提案を尊重するような風土がなければ、新しい提案やイノベーションは起きないため競争力が大きく失われるからであり、全体としてイノベーションを生み出す力が失われている。
残念ながら日本ではこういった問題に対する反省能力が足りないようだ。
独裁者のジレンマ 民主主義はなぜ必要なのか。
独裁者は暴力的支配欲求で他人に暴力をふるい続け、ひどいことをやり続けて権力の階段を上るので、必然的に恨みつらみの塊となり数多くの敵を作り続けることになる。
すると独裁者は、過去の暴力による報復を恐れ、より他人を抑圧し弾圧するためにより大きな暴力を必要とすることになる。
世界中の独裁者たちがより大きな暴力能力を持とうとし、最終的に核兵器を持ちたがるのはこのためである。
このような暴力の悪循環を起こしていくのが、独裁者のジレンマの特徴であり、かつファシズムの根本原因となっている。
したがって独裁者が誕生しないように、民主主義社会では権力の分散、司法の独立性、法の下の平等、大統領等の任期制限、これらを正常に働かせるために情報の正常な流通が必要なため、報道の自由とその保証が必要となり、これらを民主主義と総称している。
独裁者を否定する様々な仕組みは、そもそも暴力主義者がその暴力能力によって権力の頂点に立ち、国民を弾圧し不幸にすることを抑制するためである。
民主主義とは人々が独裁者によって不幸になる事を防止するに作られた仕組みなのだ。
民主主義を否定し独裁者を肯定する人たちは、そもそも自分たち民衆を不幸にする独裁者の根本的暴力構造がわかっていないようだ。
自分たちを不幸にすることがわかっている暴力構造の持ち主を崇めても仕方がない。自分を不幸にするだけである。この自己矛盾に気づくかどうかが問題となっている。
ファシズムの根本心理
人間には対象変化欲求、環境変化欲求がある。
自分以外の他人や環境が、自分にとって都合の良いものに変化してもらいたいと言う欲求のこと。
自分にとって都合の良い他人になってほしいと他人に要求する時、暴力などによって他者を支配しようとするときには、これが他者への支配欲求となる。つまり強制を伴う。
他者への干渉欲求は、これらの変化欲求の中に含まれている。
他者を自分にとって都合の良いものに変化させようとする時、暴力を用いることが、他者への支配欲求となり、これが高じるとファシズムの根本心理となる。
様々な形で人々は他人に自分にとって都合の良い存在であってほしいと考えており、そのために時として暴力を用いる。
これらが宗教ファシズムや、最近では他人の妊娠を中絶することを止めるために司法権を行使しようとする人々などもいて、中絶ファシズム、fascism for oppose to abortionとも言えるわけだが、こういった形が生まれてくるのは、そもそもこうした対象への変化欲求があるからである。
記憶のプライド化と自閉症スペクトラム症候群
記憶力に自信がある人物は、記憶したこと自体がとても正しい、そしてそれを大量に覚えている自分は素晴らしい人間だと、記憶力を自分自身の自己肯定と自尊心の理由とする。
覚えていることが正しいはずであり、それに従って手続きを進めているのだから自分は正しいと言う自尊心を持っている人物にとって、覚えていることが間違っており、かつ行っている手順や手続きが間違いを導く、と言う考え方を提示する他人は、単純により良いやり方を教えようとしている人物と捉えるのではなく、自分自身のプライドの否定理由を提示している不愉快な人物だと考える。
ここに自閉症スペクトラム症候群的な要素を見受ける。つまり、記憶が良いことが自分自身のプライドになっている人物にとって、その否定となる事実の提示や、方法論の選択の変更自体が、自分自身のプライド、自尊心の否定となり、その回復態度として怒りをあらわしたり暴力を振るったりしてくるわけだ。
自閉症スペクトラム症候群に見受けられる、手続きや手順にこだわり、一度自分が覚えたことを変更することができないと言う考え方の構造の中に、こういった背景構造が構成されている。
独裁国家はなぜ破綻するのかその構造。 戦争 #平和 #心理学 #哲学 #フォロー よろしくです。
例え話
独裁国家の独裁者が重度の病になって正常な判断ができなくなったとする。民主主義社会だったら定期的に選挙が行われるため政治を行うことができないと判断された者は選挙に出ることをできないであろう。ところが独裁国家では独裁者は不可侵の存在となるので、誰も手出しができなくなり、病でも辞めさせることができなくなる。
独裁国家では、独裁者が誰の目にも明らかな失敗を続けていても、独裁者を辞めさせることができないため国家全体が誤った方向に向かい、国家が破綻してしまう。
独裁国家群はこうして破綻していくのである。民主主義と選挙が必要なのはこれを避けるためである。
独裁者こそ階級差別主義者であり戦争主義者である。#戦争 #平和 #心理学 #哲学
独裁者とは自らの特権を永続化するためにあらゆる手段と暴力を用いると言う存在である。またそのために自分の国だけではなく周辺国にもその特権性と永続性を認めさせるために、様々な手段と暴力を用いる。この独裁者の本質的構造、特権性を認めさせるために暴力を用いると言う階級差別主義が、周辺国との戦争を生み出す要因である。したがって本質的に独裁者とは暴力主義者であり、戦争主義者、また自分の国においても周辺国とも独裁者自身の特権性を認めさせようと言う点で階級差別主義なのだ。
このような本質から、今後自由主義諸国は独裁国家群に、様々な形で関税を高め為替を変更し抑制しようとし続けるため、これらの独裁国家群は全て不況に陥り経済力を失うことになるだろう。このような中長期的方向性に沿った投資活動を行えない会社群もまた同様になることになるだろう。
独裁者は責任逃れをしたいと考え、自分達だけは責任に問われないようにしようと暴力と弾圧を民衆にする。
それこそが特権階級化と階級差別主義。
自分たちだけは特権階級でいたいと考える、それこそが差別主義の根本である。
すべての差別主義が終わるべきであるとするならば、自然に責任を取らずいつまでも特権的に生き続けたいとする独裁者の存在こそ否定される必要がある。脱独裁は21世紀のテーマ。
他人を批判するときに差別を批判し続けようとするならば、必然的に差別主義の根源である独裁者にも批判を続けなければならない。その両方を行わないのは本質的に矛盾であり成立しない。
共産主義は弱者を救わない。それどころか、特権階級を作って弱者を固定化し殺す思想である。
その事は1980年代のソ連の崩壊によって明確に証明された。
いわゆる政治的左派グループにはいまだに共産主義を実現すると貧困解決と弱者救済が可能であると言う幻想が持たれている。それは1980年代に終わった話だ。
世界中で共産主義を行っていた国々がすべて独裁主義に陥り、貧困国家となり世界で最も貧しい国となった。そうなることを避けたい中国は資本主義を取り入れ、実質的には一党独裁の資本主義国家を行っている。
一党独裁で選挙もほとんど行われない構造では、その政党の指導者と指導層が特権階級化し責任を取らないでいるために、間違いを認めず失敗を続ける政治構造となり、国家全体を失敗に導いてしまう。したがって共産主義国家群が破綻していったのだ。
世界の政治はすでに21世紀となり、独裁国家群の政治体制と自由主義国家群の争いと言うフェーズに入っている。共産主義は既に終わったのだと言う単純な事実認識をすべきだろう。
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