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退院後の悟り。脱「あきらめるな!」で優しい生活に。

今のところ、病名は「壊死性膀胱炎」とのことです。

悩ましいのは、過去の症例が数えるほどしかないこと。そのどれもが手遅れの状態で見つかったものばかりで、原因も明らかになっていないし、治療の実績もないらしいです。

手探りの闘病生活はいつまで続くのでしょうか……。

さて、前回は退院後の〝気付き〟について書きましたが、今回は〝悟り〟がテーマとなっております。

はじめに質問です。

あなたは「あきらめる」という言葉に、どんなイメージを抱いていますか?

前向きか、後ろ向きか。おそらく、大半の方は後者ではないでしょうか。

僕なんて、週刊少年ジャンプで育ってきましたから、魂のレベルで刻まれているわけです。困難に直面したときは「あきらめるな!」、最もよくないのは「あきらめる」ことだって。

でも、違ったんです。

あきらめて、よかった。今から書くのは「あきらめる」を前向きにする考え方です。

悟りのきっかけは、母でした。

僕の退院後、実家の福島から東京へ来て、家事全般を引き受けてくれています。現在、75歳。とても助かっていますが、一方で問題もありまして。

〝距離感〟が合わない。

前回の記事とは逆に、頼りたいときに頼れなくて、放っておいてほしいときに放っておいてくれないことがあるわけです。

長く離れて暮らしていたことも大きいのでしょう。一生懸命が空回りして、常になにか追われている。わからないこと、できないことへの焦りと苛立ち。頼むから、落ち着いて〜。

そんな中、決定的な事件が起きたのは数日前のことでした。

なんと、母と娘が互いに口を利かなくなってしまったんです😅

その日、交友関係で落ち込んでいた娘。

話しかけても反応が薄い。ごはんも食べたがらない。靴を買ってあげたのに喜ばない。その姿が、事情を知らない母には態度が悪く思えたようで……。

「15歳にもなって、あれではだめだ」

僕は諭しました。

ここまで交友関係では紆余曲折があったこと。大人びていても、心はまだ成熟していないこと。年齢ではなく、娘の個性を見てあげてほしい。

母は納得してくれません。

「だったら、私だけが我慢しなくてはならないの? 愚痴も言わせてくれないのか」

遂には泣き出してしまいました……。

正直、それで僕にストレスを振りまくのは違うだろう!と思いました。それこそ、75歳の大人なんだから、僕の親なんだからと。病気のストレスを軽くしたくて頼ったのに、本末転倒ではないかと。

しかし、ちょっと待てと。

僕がその思いを全てぶちまけたところで、問題は何一つ解決しません。それに母の言う通り、誰かひとりが我慢しなくてはならないのは違うのでは?

冷静になって考えると、母は後期高齢者。記憶力も、判断力も、許容量も衰えていて当たり前だし、まして慣れない環境で頑張っている。〝距離感〟が合わなくても「仕方ない」と考えてあげなくてはならないのでは?

そう、ここで僕はあきらめたんです。前向きに、あきらめた。

翌日、僕は娘と話し合いの場を設け、そのあとで母と再び話しました。互いに年齢への先入観をリセットして、歩み寄ってくれないか。母にはさらに、感謝の気持ちをわかるように伝えました。

すると、どうでしょう。

ふたりの間にぽつぽつと会話が! 時間が経つにつれ、笑顔も見せるようになりました。

最大の問題が解決したのと同時に、今まではいちいち気になっていた〝距離感〟のズレも前よりは平気になりました。

僕が「あきらめる」という選択をしたことで、優しい生活がもたらされたのです。

「諦観」という言葉があります。

「あきらめる」という漢字を使っていますね。意味を調べると……、

本質を見極めること。
俗世に対する欲望を断ち、超然とすること。

Wiktionaryより

とあります。仏教の世界では本来「あきらめる」とは「あきらかにする」ことであり、悟りの境地へと繋がっているといいます。

脱「あきらめるな!」

僕が健康なままだったら至れなかったと思います。

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