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【食】生命を奪うことが生きるということ

こんにちは、Hierroのyuiです。
熊野という大自然を残す地に移住を始めて早1年半ほど経ちました。

今年の春には、猟師さんと知り合い、仲良くなり、それはそれは何度も何度も生命について語りあい、教えてもらう機会をいただいて、多くの気づきを得たので、今日はそのことについて書こうと思います。

ある朝、飼い犬がウリボーを仕留めていました。

さて、多くの方が動物のお肉を食べると思います。
しかし、生きている動物を殺し、自分の口にまで運ぶ一連の過程を経験したひとはどれだけいるでしょう。私は幸運なことに、その機会をもらうことのできた一年でした。
それでもまだ、自分自身で仕留め、捌くことはできず、その一連の過程をお手伝いしながら見ているだけです。

罠にかかった鹿や猪は生きていました。
人間である私たちを見ると、怯え、逃げようともがきました。
猟師さんが掛矢を振り上げると、悟ったかのように大人しくなりました。
掛矢で頭を叩くと、呻き声を発して、脳震盪を起こし、ぐたっと横たわりました。
その状態で、頸動脈から心臓をひと刺し、胴や腿を揉んで、血抜きをし、川に運びました。
時には生きたまま川に運び、そこでひと刺しすることもありました。
その一瞬の出来事で、その生命は失われました。

そこから、腹や胸を割き、内臓を取り出し、胴体は川で冷やして、その後皮を剥ぎ、解体し、少しずつブロック肉へと整えていきます。

ほんの数十分前まで鹿や猪は生きていました。
その生命を私たちは奪いました。

あまりにも美しい雄鹿でした

何のために?
そこには人間のエゴがあります。

食べるため。
畑を荒らされないため。
車で轢いてしまったため。
銃での猟を楽しみたいため。

そのために、生命は奪われました。

これは鹿や猪に限った話ではありません。
牛や豚、鶏はどうでしょう。

彼らのような家畜という存在は殺されるために生まれてきます。
食肉になることが決まった生命です。

卵のための平飼いの鶏。彼らも私たちのエゴのもとにある。

ではお肉を食べなければ良いのでしょうか。

私は野菜も同じだと思います。
野菜は食べられるために管理されて育成されます。
私たちはたわわに実った生命をもぎ取ります。
少し形の悪いもの、味の悪いものは、ぽいっと捨てられます。

その生命は、人間のエゴによって失われます。

でも、人間を含むほとんどの生命は、何かを食べないと生きていくことができません。
私たちは他の生命を奪って、自分の生命を生かしているのです。
私たちが毎日生きているのは、他の生命をいただているからです。

その自意識を持つことが、人間である上でとてもとても大切だと思います。

私たち人間は、生きていく上で必要なこと以上に、”美味しい”命を求め、ほとんどの場合が、残酷に育て、管理し、殺し、無駄にしています。

一つの例をとっても、牛肉となる牛は生きたまま皮を剥がされるそうです。考えただけでも辛くありませんか。

しかし、現代に生きるほとんどの人が、その過程を通してできたものを食べて生きているのが事実です。

生命を大切に扱うこと。
育てるときも、殺すときも、いただくときも。

そして、せっかく文明という高尚なものを作ることができる存在なら、生命にとってより良い社会や地球を作ることができる存在でありたい。
人間にとって良いだけじゃなく、全ての生命にとって良い社会を目指すことくらいしていかないと、生命を奪い続ける大義なんてあったもんじゃない、と思います。

いただいた生命の活力は、そんな活動にこそ使っていきたい。
前回も書きましたが、やはり涅槃のイメージです。
私はあらゆる生命に感謝されるような存在になることこそ、人間である意味があるんじゃないかと、思います。そんな社会をつくりたい。

一年半、熊野で暮らして、様々な経験を通して、濃く見えてきたビジョンです。

ウリボーを丸ごと食べさせていただいた日もありました。

私は食べることが大好きです。美味しいものも大好きです。
昔から出されたものは全部食べるし、できるだけ食材は無駄にしないようにしています。
熊野に来てからは、食からいただいた生命というエネルギーを、”ちゃんと”使おうと意識しています。

ありがとう、って唱えることじゃない。
一生懸命、他の生命のために生きること。

それが奪った生命への感謝の気持ちであり、今日もまた生かされた私がやるべきことなんだろう、と思うようになりました。

捨てられることの多い穴熊もすき焼きで美味しく頂いた。

友達の猟師さんは、獲物に出来るだけストレスを与えないこと、獲物を綺麗に捌いて食べられる部位は無駄にしないこと、毛皮や骨も活用すること、残った部分は鳥の餌場に持っていき食べてもらうこと、そんなことを心がけて毎日狩猟に向き合っています。

彼は鹿を捌いて頭部が残ると、その鹿の口に草を食ませて、目を瞑らせる行為を必ず最後に行います。草が大好きな鹿に対する彼の餞(はなむけ)だと思います。

人間と動物を分ける特徴のひとつに、葬儀の行為があります。その愛情や慈しみを、人間だけでなく、他の生命に向けてあげる。
それができると、人類史が少しまた変わっていきそうですね。

もっともっと先の未来に、
人間だけでなく周囲の動物や植物に対しても、葬儀の行為を行う人類が出てきた、という史実が発見されたら、とても美しい。
これまたロマンがありますね。


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