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38 邪馬台国(Yamatai)


はじめに

佐賀県の吉野ケ里遺跡にて、新たな歴史的な発見につながるとみられる遺跡が発見されました。6月5日には、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が開かれ、大きなニュースとなりました。ニュース映像をみていると4枚の石の蓋を開いていくシーンがとても印象的でした。石の蓋を外した後の土には、赤色に染まった部分が見えました。佐賀県の文化財保護をしている方のコメントでは、弥生時代の赤色顔料を用いているとなるとこの墓は有力者の墓という可能性が出てくるとのことでした。
この発掘が進んでいる場所は、日吉神社があった場所で、移転に伴い発掘作業が進められるようになった場所です。吉野ケ里遺跡の中でも高台にある場所で、卑弥呼の墓である可能性を議論する研究者がこれまでもいました。
すでに、吉野ケ里遺跡の発掘や研究はその周辺も含め、数十年におよんで進められてきています。今回の日吉神社の跡地も弥生時代中期の歴代の王の墓とされる北墳丘墓から約150mほどの場所にあります。日吉神社は1900年代に建てられたため、吉野ケ里遺跡の発掘が盛んにおこなわれ始めた時期には未発掘の場所でした。そのため、「謎のエリア」とされてきましたが、2022年にそのエリアが調査が可能になったというわけです。
そこで今回の発見が確認できたわけです。この墓の主がもしも卑弥呼ということになれば、「邪馬台国」がどこにあったのかという論争に終止符が打たれるということで、古代史に関心がある人にとっては大きな関心事項になっているわけです。

近畿説と九州説

この二つの説は、何に関する説かというと「邪馬台国」の存在した場所が近畿地方であるか、九州地方であるかという有力な説となります。
「邪馬台国」の存在は、歴史書「魏志倭人伝」の中に出てくることで確認できます。この中には、魏から邪馬台国への道のりについて書かれています。この内容から考察すると邪馬台国までの距離や報告が考察できるわけです。この内容をみていくと、朝鮮半島から、「不弥国(ふみこく)」までの道のりは九州説でも近畿説においても同一の解釈です。そこから邪馬台国への道のりに関する記述に差が生じるのです。
簡単な違いで言うと「方向」では九州説が有力ですし、「道のり」でいうと近畿説が有力になります。この魏志倭人伝の記載だけでは双方の説に当てはまる部分があるわけです。その他にも各地の遺跡の数や出土品の内容で両説の有力性を見る研究が進められています。

近畿説と纏向遺跡(まきむくいせき)

近畿説では「纏向遺跡」(まきむくいせき)では、多数の銅鏡が発見されており、魏から卑弥呼が多くの銅鏡を送られたという歴史書と一致します。また、卑弥呼の時代とされる大型の建物跡が発掘されていますし、遺跡付近にある箸墓古墳(はしはかこふん)からは、紀元240年頃につくられた土器なども発見されています。このことは、卑弥呼が亡くなった年代とも重なるためこの遺跡や古墳が卑弥呼が治めていた邪馬台国に築かれたものではないかと考えられているのです。

九州説と吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)

九州説では「吉野ケ里遺跡」(よしのがりいせき)で大規模集落が見つかりました。吉野ケ里遺跡には環濠集落がひろがっています。この造りは、後の城にもつながるものであり、「ムラからクニ」へと社会の在り方が変化していった時代であることを示しています。また、金印が志賀島で発見されていることも邪馬台国が九州にあったとする説を強めています。この金印は、古代中国の光武帝が日本の奴国に送ったもので、古代中国の歴史書にも記されています。そして、この「奴国」という名は、日本の様々なクニの名前の中で初めて世界の歴史書に名を刻んだものなのです。「漢委奴国王」と記されたこの金印が九州で発見されてことはそれだけ大きな意味を持つわけです。

盗掘を免れた墓

今回、日吉神社のあった場所で発見された墓には、4枚の石蓋があり、いずれも密閉するための粘土が付着したままでした。これは、盗掘等の被害にあわずに今日まで残されてきたことを意味します。また、石蓋の表面には、死者を封じ込める意味があるとされる模様がいくつも刻まれていました。丘陵の頂上に埋葬された人物は、どのような人物でありどういった立場であったのかは今後の研究でさらに明らかになっていくとされています。副葬品が盗掘されていないことはこうした研究に大きな意味を持ちます。

歴史のロマン

三国志の時代、魏志倭人伝でおよそ30の国からなる倭国の都として邪馬台国という国があり、卑弥呼はそこを統治していたとされています。邪馬台国は、2世紀から3世紀に存在したいくつかの日本のクニの一つなわけですが、その後の複数の集落が結びついていく連合国のような集まりや大和朝廷などの大きなまとまりへとつながっていく重要なものであります。
その存在がどこにあったのかに関する研究は、これまでも教科書の内容やさまざまな古代史研究に影響を与えてきました。今回の発見も、そうした意味で日本のルーツに関する大きな研究成果を生み出す可能性があると思うと、ありきたりではありますが歴史的なロマンを感じずにはいられません。

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