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「隙」のある本こそ最高の教師

記事を見てくださり、ありがとうございます。
今回は、完璧でない本の方が勉強に向いていると思った話をします。
よろしくお願いします。

皆さんは普段、勉強していますか?
noteユーザーの皆さんなら習慣になっていそうですね。

私は勉強が好きで、暇さえあれば読書をしています。読む書籍はビジネス書や理工系専門書が多いです。つまりは「物事や概念の説明」が書かれている本を読むことが多いのですが、実はとんでもなく難解に書かれているものも少なくありません(※1)。

そういう本に出会うと、私は他の書籍を当たったり、紙に思考をひたすら書き出したりして内容を理解しようとします。そして実際に理解してから元の本を読んでみると、

「もっと分かりやすい説明あんだろ!!」

と言って本を放り投げたくなります。ですから「完全に整理され分かりやすい、完璧な文章こそ正義だ」と私は思い続けてきました。

しかし、最近考えを改めました。「分かりやすい文章がいい」という基本的な部分は変わっていませんが、「完璧でない文章もいいな」と思い始めたのです(※2)。

何故かといいますと、完璧でないことでより深い内容理解が得られるからです。文章が完璧だと、そこに情報整理や表現改良の余地はありません(※3)。すると自分の言葉や表現で内容をアウトプットすることが難しくなり、「分かった気」になりやすくなります。勉強として読む本は、多少「隙」があった方がいいのです。

それなりに整理されててすごく分かりやすいけど、言葉が少し曖昧に使われているなと感じる本がたまにあります。ひょっとすると、そういう本はこういう意図があるのかもしれません。皆さんはどう思いますか?
今回は「隙」がある本こそ最高の教師であると思った話でした。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


脚注

(※1)主観ですが、理工系専門書は特にそうです。読んでて「結局何が言いたいの?」と思う本がかなりあります。
(※2)「完璧な文章が悪い」と言いたいのではありません。報告書や論文はむしろ、可能な限りそうあるべきでしょう。私が言いたいのは、「勉強という目的には、完璧でない分かりやすい文章がいいのではないか」ということです。
(※3)余談ですが、「完璧」について紹介したい言葉があります。人気漫画 BLEACH / 久保帯人 に登場する 涅マユリ の言葉です。「"完璧"であればそれ以上は無い そこに"創造"の余地は無く それは知恵も才能も立ち入る隙が無いという事だ」「今迄存在したなにものよりも素晴らしくあれ だが 決して完璧である莫れ」「科学者とは常にその二律背反に苦しみ続け 更にそこに快楽を見出す生物でなければならない」

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