8. 表現とインテリジェンスについての考察 vol.2
【前書き】
前記事【7. 表現とインテリジェンスについての考察】では、クラシック音楽を演奏・解釈するにあたり最も重要な「インテリジェンス」について綴った。
本来ならばこの記事は全く別の内容を執筆する予定だったがそんな折り、noteにてとても気になる(悪い意味で)記事を見付けた。その記事にはクラシック音楽の演奏及び解釈に於ける誤りが正々堂々と書かれてあり、放置しておけないと思い、急遽この記事に差し替えて執筆することにした。
本記事では、既存のクラシック音楽業界のトップに君臨している審査員に対し、鋭いアンチテーゼを斬り込む。同時に今の日本の演奏家及び世界のクラシック音楽奏者に最も欠けているエレメントについて積極的にメスを入れながら、私の見解を述べて行く。
(以上 前書きにて。)
上のリンクは、前書きに述べた「気になる記事」、『飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるもの』の冒頭部分である。
※ピティナ広報部 から発信されている。
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」には多くの日本の若きコンテスタントがエントリーしたが、その殆どが「欧米風の物真似」の域を出ないレベルであり、日本の古い体質(価値観)とするところの「欧米万歳主義」が突出していたように私は感じている。
(日本のコンテスタント等の)各々が持つ精神性や創造性よりも欧米選手陣のそれらを上位と捉え、そのボーダーラインに追い付き欧米のコンテスタントと肩を並べることが最終的なゴールと言う考えの元に組み立てられた、和製クラシック音楽界の悪しき指導と風潮の側面が想像以上に露呈した。
前記事【7. 表現とインテリジェンスについての考察】でも述べた通り、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」に於ける日本人コンテスタントと海外のコンテスタントを比較した場合に、日本人に圧倒的に足りないものは「インテリジェンスである」と私は解く。
ここで言う「インテリジェンス」とは哲学、精神性、スピリチュアルな観点からの音楽解釈を含む「解釈と表現の知的熟成」を指している。あえて付け足すとしたら、個性を突き抜けたところに在る普遍的な表現解釈に至ることが望ましい。
だが記事『飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるもの』には「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で審査員を務めた日本人審査員の談として、こう述べられている。
『演奏芸術というのは、最終的には一人でやっていかなければならない。たった一人で2000人の聴衆を相手にし、その人たちを演奏で説得するだけの力がなければならないこともあります。ひょっとするとその演奏で「人生が変わってしまった」という聴衆が出てきてもおかしくないほどの、インパクトあるものがアートです。』
この解釈は大きな間違いであり、ショパンの意図に関わらず闇雲に聴衆にウケる一種のパフォーマンス・ショー的要素の強い表現解釈こそがアートだ‥ とでも言っているようにしか聴こえない。
上記に求められているものはパフォーマンスの才能であり、音楽或いは音楽性とは一切関係のないものである。
そもそも「ショパン国際ピアノコンクール」が全曲ショパンの楽曲で競われるものである以上、作曲者・ショパン以外の個性等不要である。ショパンが主役であり、演奏者は機材と化すべき‥ と言うのが私の考えだ。
よってインパクトも不要であり、そこにただ脈々とショパンのエレメントが在るだけで音楽は完成する。完成させなければならない。
上記(赤文字部分)のコメントには続きがある。
海老彰子 氏 は日本の「伝統美」や日本人が持つ「謙虚さ」を半肯定しながら、逆にそれらが日本の演奏家の「毒」‥ つまり彼女が言うところの「個性」を打ち消す要因となる‥ と言う意味にも取れる、彼女のコメントが(岡本太郎の名を借りた)最終的には安易な「音楽表現に於ける毒性賛美」に転じている辺りは、ただただ表現解釈のど素人としか言いようがない。
表現が極限まで洗練されたもの、それが芸術である。
それは個性云々等到底足元にも及ばず、既に個性を突き抜けた普遍性の領域に到達し得るものである。むしろ個性よりも重要な要素が「原作者の意図」ならびに演奏者自身が持つ「インテリジェンス」である‥ と言う発想すら持たない(知らない)人物が、権威の袈裟を着て不要不急かつ過剰な個性推奨論を展開すること自体がアンインテリジェンスである。
記事『飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるもの』には随所に 海老彰子 氏の個性論がところ狭しと展開されており、ある種の「個性に対するコンプレックス」を強烈に感じさせる内容になっている。
海老彰子 氏 自身がそもそも未完成であり、自身の未完成が引き出す強いコンプレックスが彼女の音楽人生の原動力になっている以上、この人物からまともな音楽論・芸術論ないしは表現論を導き出すことはもはや不可能だ。
自身の未完成を軸とした強烈なコンプレックスと強い承認欲求、及び権威主義的な発想以外、何一つ音楽や文化を突き詰めては思考していないこのような人物がクラシック音楽界のトップ周辺をこれ見よがしにうろつき、世の汚れを知らない若い演奏者や表現者を惑わす発言に対しては是が非でも警鐘を鳴らすべきだと思い、この記事ではその旨執筆の必要性を強く感じ、思い切って筆を執った。
ここ最近の全てのジャンルの音楽表現に共通する、間違いだらけの「強烈なインパクト」。
ポップス等を例に取ればそれは「イントロ」に集約されることが多く、イントロだけがインド風やケルト風味で偽造されてはいるものの、主メロに突入した途端可もなく不可もなしの普通のポップスに味変してガッカリさせられる。
それに似た現象がクラシック音楽界の中でも起きており、兎に角何かしら取って付けたような横暴で強引かつ身勝手な表現解釈に転じ、音楽の冒頭にインパクトを持たせながら聴衆の注目をモノにすることばかりを最近の若い演奏者等は考えているように見えて、物々しいまでの不快感に苛まれる。
さらにそうした歪んで尚且つ下品な個性推奨論をゴリ推しする 海老彰子 氏のような人物がクラシック音楽業界のトップに君臨している限り、この間違った価値観を若い演奏家が信じて国際舞台に堂々と遠征しに行く‥ と言うような滑稽な現象は、今後も続くに違いない。
深く恥ずべきことである。
音楽の主役は何を差し置いても、作曲家以外には存在し得ない。
仮に「個性」の断片を許容するならば、それは音色や音質等に託すべきではないだろうか。取って付けたような演出など不要であり、むしろ排除すべきである。
ショパニストに「サムライ」の装飾等も不要である。
つまり個性自体が不要なのだ。究極、楽譜通りに弾けば良い。
仮に個性を強調したいのであれば、是非とも演奏者本人のオリジナルの楽曲で表現の極限へと到達すべきである。オリジナルを持たない演奏家は「演奏者」と言う機材に徹し、ひたすら原曲や原作者の意のままの音楽を追求し、又作曲者の感性に深く寄り添い、自身の表現スキルを昇華させ洗練させることに集中しなければならない。
もしかするとそこで初めて原曲を超えた不可思議なエレメントが発生し、それが第二の個性として原曲への微かな調味料ほどの効果をもたらすかもしれない‥ 程度の、きわめて控え目な表現解釈に終始すべきである。
Didier Merah オフィシャルブログ『Didier Merah Blog』- 記事【8. 表現とインテリジェンスについての考察 vol.2】より転載。
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