飯田有抄のショパコン日記60〜審査員の海老彰子先生に聞く。国際舞台で求められるもの
今年のショパン国際コンクールの全てが幕を閉じました。このコンクールを通じて感動できたこと、発見できたこと、学んだこと、みなさんそれぞれにあると思います。
現地からのショパコン日記のフィナーレとして、予選から長きにわたって審査を務められた日本からの審査員、海老彰子先生に伺った素晴らしいお話をみなさんと共有したいと思います。
今回のコンクールを振り返りながら、これからの音楽と音楽家のあり方について、考えさせてもらえる内容です。じっくりとお読みください。
——まずは今年のコンクールの全体について、どうお感じになりましたか?
海老先生:今年のコンテスタントの皆さんの演奏は、個性的であり、なおかつ磨き上げられた、水準の高いものでした。3週間という長い審査期間であり、1日10時間というラウンドもありましたが、最後まで集中が途切れず、充実した時間を過ごさせてもらいました。
今回はコロナで1年間延期になりましたが、皆さん外に出ることもできなかったので、準備に時間をかけることができたと思います。人はここまで集中すると、これほど物事を深められるものかと、準備期間の延長はプラスに働いた部分が大きかったのではないかと思いました。
何名かの歴史的な演奏と言えるものも聴けました。私にとっては、アレクサンダー・ガジェヴさんのソナタ第2番や、ブルース・シャオユー・リウさんの変奏曲変ロ長調を聴けたのは嬉しかったですね。
——リウさんの変奏曲や、反田さんが遺作のラルゴを入れたりと、選曲面にも個性が出ていましたね。
海老先生:とてもいいですよね。ショパンのいろいろな面を提示してくれると、聴衆の皆さんも新鮮な感覚で聴けたのではないかと思います。ただ、審査に関しては曲目がどうであるということは影響しません。あくまで選んだ作品の演奏内容そのものがどうであるかが重視されます。
——先日お寄せいただいたショート・コメントで、日本の参加者の演奏レベルがとても上がったというお話をいただきました。
海老先生:はい、とても上がりました。日本には今、このコンクールに出ている人たちだけではなく、どんどん優れた奏者が育ってきています。世界中からいろんな先生が日本に来てくれたり、学生たちが海外に勉強に行ったりして、音楽を指導してくれていますし、日本の先生たちの努力もあって、そうした成果が実り始めてきましたね。これからどんどんよいピアニストが育っていくでしょう。
この段階でとても大切なのは、若い人たちが自分なりの方法で、生きる強さを持っていくことです。
たとえば反田恭平さんは、ここ5、6年で演奏を耳にするたびに大きく成長していると感じました。おそらくそれは彼が音楽活動のみならず、彼の持つ生きる力、エネルギー、たくましさのようなものを培ってきたからで、それが演奏に表われているのだと思います。
みんなが彼のように起業などできたらいい、というお話ではないですよ。そうではなくて、それぞれ自分なりのスタイルで、人間としての生きる強さを培ってほしいのです。そうでなければ、国際コンクールで活躍できるアーティストとなるのは難しいです。
——予選からファイナルまで、コンテスタントは肉体的にも精神的にも、かなりハードな状況を長期間乗り切れなければなりませんね。コンクール直後からリサイタルのスケジュールが埋まり、メディア対応なども迫られます。人としてのタフネスを備えておかなければならないのだと、現場で取材する中で本当に感じるところでした!
海老先生:演奏からは、たった一音で、その人が何か貫くものを持っているかどうかが分かります。
日本はとても伝統を重んじる国です。若い人たちは、自分の先生や海外からの指導者の教えに対して「はい」「わかりました」と素直に習っています。それはもちろん大切なことです。
しかし、演奏芸術というのは、最終的には一人でやっていかなければならない。たった一人で2000人の聴衆を相手にし、その人たちを演奏で説得するだけの力がなければならないこともあります。ひょっとするとその演奏で「人生が変わってしまった」という聴衆が出てきてもおかしくないほどの、インパクトあるものがアートです。良くも悪くもね。
「自分の中に毒を持て」という言葉を残したのは岡本太郎さんですが、アーティストには時に、そうした強い力が必要です。とくに国際舞台では。
その力を培うために、日本ではアーティストがもっと自分の独自性を発揮できるようになっていく必要がありますよね。
伝統を重んじ、個人には謙虚さが求められる。それは人間としても、国民性として大切ですから、それは持ち続けてほしい。しかし、そこにさらに何か、人とは違う、自分だけのものをきちんと出していける力を、若い人に培ってほしいです。
——今回のショパンコンクールでは、それができる日本のコンテスタントたちの活躍があった、ということですね。
海老先生:そのように私は思っています。そうでなければ国際の演奏舞台では残っていけない。時折、海外の先生方から日本の奏者の演奏に対して、「日本では通じる演奏だよね」と言われてしまうようなことがあります。その域を越え出るものがなくてはならない。それは奏者の独自性です。教育者はそこをいかに尊重し、伸ばしていくか、それが今後ますます重要になります。
日本では、小学校1、2年生くらいまでみんな元気でやんちゃです。それが5年生、6年生くらいになると、みんな同じように大人しくなってしまう・・・。
(ここで、一緒にインタビューを聞いていたポーランドのマルタさんが感想を述べました)
マルタ:それは私のケースですね。2歳から8歳まで日本で育ちました。9歳でポーランドに帰ったら、同い年の子たちがまだまだみんなやんちゃで、あまり先生の言うことを聞かなかったり、先生にも平気で意見をいったりする。わいわい元気で、私にはそれがあまりにもショックでした。日本は走り回っちゃいけないし、あれしちゃいけない、これしちゃいけない、というルールが多かったから、子どもが本来持っているものが、どんどん失われていく。私は周りよりも自分を表に出せない子になっていたのです。今でもその気質は自分の中に残っていますよ。周りのポーランド人と、ちょっと自分は違うな、と。
海老先生:そうなの?!
(日本で小学校時代を過ごしたマルタさん。写真提供:マルタ・カルシ)
——どうしたら、自分の表現ができる爆発力のようなもの、生きる力のある人を培っていけるでしょうね。
マルタ:子どもたちに、「間違ってもいいよ」って言ってあげることが大切じゃないでしょうか。
海老先生:そうよ!!
マルタ:日本では、間違わず正しくありたいし、両親の誇りでもありたいし、立派でなければいけない。そんなふうに、誰かから望まれた人を・・・
海老先生:体現しなくていい!!
マルタ:人は、自分を探し、自分を知るためには、間違ったりもしてみないと、わからないのではないでしょうか。子どもたちには、「間違ってもいい」という安心感を与えてあげてほしい。「間違っちゃいけない」というのは大きなストレスですから。
海老先生:一番大切なことです。自分探しは、それぞれに違う。これは本当に大事なことですから、このマルタさんのこの発言は、きちんとインタビューに残しておいてくださいね!
「いい子になろう」とがんばらなくていい。
マルタ:ひとつの「いい子」像なんてないから。これも「いい子」だし、あれも「いい子」。
海老先生:そう。間違っても全然かまわない。「いい子」にならなくていい。がんばらなくていい。それをきちんとやっておかないと、若き日の私のように、精神のバランスを崩すことにもなりますよ。
——先生にそのような時期が?
海老先生:24歳の時にやりました。1年ほど。両親にも負担をかけてしまった。ピアノ5分弾くと寝られなくなってしまって。4つの病院にかかりましたよ。そうした病気を経てわかったことは、生きるということは、元気でいればいい、ということ。一番大切なのは健康! 食べること、寝ること。勉強は少しでいいってこと(小声)。こうしなくちゃいけない!とがんばりすぎないように。
——伸び伸びと、間違えながらやっていく。間違えて迷った時に、手助けしてあげるのが大人や指導者の役割でしょうか。
海老先生:そう。それと、友達ですね。よい友達を持つことも重要です。
——自分の個性を伸ばし、人の個性を知る。それをとてもよく教えてくれるのが、今回のショパンコンクールだったかもしれませんね。ファイナリストや入賞者たちの演奏が全員個性的で、あまりにも多様性に富んでいましたから。
海老先生:まさにその通りです。今回のショパンコンクールはターニングポイントともなるような、非常に意義のあるものだったと思います。日本で今大きく育ちつつあるアーティストたちがいるからこそ、さらにそのように言えると思います。
——国籍や育った環境はもちろんありますが、ほとんどのコンテスタントが海外留学やマスタークラスの経験を積み、すでに他の国際コンクールでタイトルを持ってきた人たちが多いですね。
海老先生:最初の500名から、そういう人たちが残ったということですね。だんだんと個が確立している人たちが残った。
——個を確立するプロセスのなかで、国際的な経験をするということは大きいのでしょうか。
海老先生:もちろん単純にそういうわけではありません。クリスチャン・ツィメルマンさんは、たった一人のヤシンスキ先生のもとで、ポーランド国内だけで学んだアーティストです。
どこか外国にいけばいいというのでもなくて、自分がどうやって考えていくかが大事。気骨があること。でもその気骨というのは、フレキシビリティ(柔軟性)のあるものでもなければいけない。
——気骨と柔軟性! 一見、相反するように見えるこの二つの性質を備えておくことが大切なのですね。
海老先生:そうです。そうでなければ、一生懸命がんばりすぎて、途中で折れてしまいますからね。これからの日本のアーティストたちは、これからどんどん伸びていくと思います。成長がとても楽しみです!
(お写真は、海老先生お気に入りのポートレート。ピアニストの酒井茜さんによる撮影です)