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インド思想で非常に大きな位置を占めるのがヴェーダンタの考え方です。 変わりゆく政治経…

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インド思想で非常に大きな位置を占めるのがヴェーダンタの考え方です。 変わりゆく政治経済社会に行き当たりばったりやその場しのぎの巧妙な生き方ではない人生を真に願うならば、確固不動なる存在を求めこの世の変化に惑わされないような強固な生き方をご一緒に学びましょう。 東京都墨田区在住

マガジン

  • シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』

    『ブラフマ・スートラ』は、インド哲学のヴェーダーンタ学派の根本聖典であり、「神の御足の教師」として知られシャンカラの注釈を通じて伝統的に読まれ手います。 そして、『ウパニシャッド』『バガヴァッド・ギーター』とともに、ヴェーダーンタ学派の「三種の学」として必須の書でもあります。 ご一緒にヴェーダーンタ哲学の真髄を学習できれば幸いです!

  • ヴェーダンダ哲学の解説を試みる

    この世の中の全体的な流れからして、変わりゆくような政治・経済や社会そして気候の状態というものを、変動が極めて激しい現代の中で、私たちがどのようにしてそのまっただ中を生き抜いてゆくかという時に ただただ行き当たりばったりだとか、そのときに応じた巧妙な生き方ということだけではない、確固不動なる信念を心に抱いてこの世の中を生きていきたいという人物にとって、まさに確固不動たる存在をどこに求めるのか?という時にこそ このヴェーダンタ哲学が提供するものを私たちが見出し日々の生活において活かすならば、重要な支えになるものだと思います。

  • 保守本流のヨーガについて

    保守本流のヨーガの系統に属するデーラナンダ・ヨーギが古くからインドに伝わる教授法であるシュラヴァナ(聴聞)・マナナ(熟考)・ニディディヤーサナ(瞑想)にて得たヨーガの技術とヴェーダンタ哲学の智慧を分かち合います。

最近の記事

「神が多くのものに生まれようとウパニシャッドに記されてもプラダーナを原因だと頼れない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.18)

はじめに シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十八節18節 願望(についての言及)があるからといって、(プラダーナに到達するという)推論に頼ることはできません。 その上、至福なるものの文脈では、「神は“たくさんにさせてください、私を生まれさせてください”と願った」(Tai. II. vi. 1)という願望がテキストの中で言及されている。それゆえ、推論によってサーンキヤ学派が空想した感覚のないプラダーナは、至福なるもの、あるいは宇宙の原因のいずれを表すものと

    • 「個我と真我の相違はウパニシャッドに記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.17)

      はじめに『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』は、ヤージナヴァルキァ師とジャーナカ王との対話や妻のマイットリーともしくはバラモンたちとの対話つまりダルシャナにて教説しているウパニシャッドになります。 今回の『ブラフマ・スートラ』註解書のシャンカラ師の解説にも出てくる「ネイティ・ネイティ・ブラーフマン」という「これではない、これではない」とタマネギの皮をむくようにブラーフマンを見出せという教えがとても良く知られています。 シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第

      • 「個我がブラーフマンではないのは非論理的だからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.16)

        はじめに『タイッテリーヤ・ウパニシャッド』は、 紀元前800年頃に成立したとされていて、「パンチャ・マーヤー・コーシャ(人間五蔵説)」 という考え方でよく知られています。 「パンチャ」は「五」、「マ ーヤー」は「幻」、「コーシャ」は「鞘」という意味となります。私たちの体はえんどう豆の鞘のように、五つの鞘で包み込まれているという考えになります。 五つの鞘は、外側から食物鞘、生気鞘、意思鞘、理智鞘、歓喜鞘と呼ばれ、内側になるほどに精妙な鞘(体)となっています。食物鞘がもっと

        • 「ブラーフマンは真理・智慧・無限なりとヴェーダ聖典の梵書中にも記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.15)

          はじめに今回の節で「ブラーフマナ」というヴェーダ聖典の中でシュルティ(天啓聖典)と呼ばれているもののひとつになります。サンスクリット語よりも古いヴェーダ語でおよそ紀元前900年から紀元前500年の間に成立した文書群であるとして、祭儀書や梵書とも呼ばれています。 シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十五節15節 そして、マントラで語られるブラーフマンそのものが、ブラーフマナ(マントラを説明する部分)で宣言されている。 至福なるものは、この追加の理由から至高の自

        「神が多くのものに生まれようとウパニシャッドに記されてもプラダーナを原因だと頼れない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.18)

        • 「個我と真我の相違はウパニシャッドに記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.17)

        • 「個我がブラーフマンではないのは非論理的だからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.16)

        • 「ブラーフマンは真理・智慧・無限なりとヴェーダ聖典の梵書中にも記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.15)

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        • シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』
          19本
        • ヴェーダンダ哲学の解説を試みる
          31本
        • 保守本流のヨーガについて
          19本

        記事

          「至福なるものは他を元気にさせる故にブラーフマンは至福を発する源である」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.14)

          はじめに今回の十四節は、ウパニシャッドのテキストにこのように述べられているからということだけではなく 私たちの至福の源とは何か? ということを熟考する機会として述べられているように思います。 シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十四節14節 なぜならば、その他にも、ブラーフマンが至福の源であると示されているからである。 接尾語mayatが多様性(abundance/豊かさ)の意味で使われているのは、ウパニシャッドのテキスト「この方は実に人々を活気づける」

          「至福なるものは他を元気にさせる故にブラーフマンは至福を発する源である」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.14)

          「至福なるもの(アーナンダマヤ)とは多様性を表す意味のmayatが含まれるのでブラーフマンではないとする反論」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.13)

          はじめにインド各地を旅行し、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達したとするシャンカラ師だと伝え聞いておりますが 『ブラフマ・スートラ』の中でよく見られるような言葉遊び、たとえば、サンスクリット語の単語を分解して、接尾語の意味がこうだからこうだとするとか文法的になんたらというのは、当時の哲学議論で中心的な話題になっていたのかも知れません。 シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十三節13節 もし、(至福なるものは)変化(modification)を表

          「至福なるもの(アーナンダマヤ)とは多様性を表す意味のmayatが含まれるのでブラーフマンではないとする反論」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.13)

          「至福なるもの(アーナンダマヤ)がブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.12)

          はじめに今回は、人間五蔵説の「アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)」と呼ばれる一番精妙なボディの「アーナンダマヤ」が出てきます。今回の翻訳では「至福なるもの」と訳しましたが「歓喜なるもの」でも同じ意味としてお考えください。 『ブラフマ・スートラ』をまだ最後まで読み切っておらず、読みながらの翻訳となりますので後でどんな解説が出てくるのかわからないこともあり、特に触れることなく進めてまいります。 表題6 至福なるもの反論:「この誕生などが由来するもの」(I. i. 2)で始ま

          「至福なるもの(アーナンダマヤ)がブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.12)

          「ブラーフマンがウパニシャッド聖典に宇宙の原因だと明記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.11)

          はじめに今回は、『シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッド』が引用されています。かなり昔のことでうろ覚えですが、先生は「シュヴェターシュヴァタラ」というへんてこりんな名前の意味として、白いラバに乗った人たちとおっしゃっていたような… 動物で鳩などが白いと聖なる存在として見なされますが、インドにおいても白いラバに乗った聖なるヨーガ行者の集団が残したウパニシャッドというニュアンスかもしれません。 シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十一節11節 そして、(ブラーフ

          「ブラーフマンがウパニシャッド聖典に宇宙の原因だと明記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.11)

          「ウパニシャッド聖典の智慧によれば純粋意識が原因とする考えは同じだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.10)

          はじめに『ブラフマ・スートラ』は、ヴェーダーンタ哲学の根本教典だと言われていて、まとめられたのが400年から450年頃だとすると、今から約1600年ぐらい前になるようです。 『ヨーガ・スートラ』も今から約1600年ぐらい前にパタンジャリ師によってまとめられたと言われていますので、だいたい同じ頃にまとめられたと言えます。 この『ブラフマ・スートラ』というヴェーダーンタ哲学の根本教典を、今から1300年ほど前にこの世に現れたシャンカラ師が解説したものが今回、翻訳に取り組んで

          「ウパニシャッド聖典の智慧によれば純粋意識が原因とする考えは同じだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.10)

          「個人は自己である真我に帰入していく」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.9)

          はじめに『ブラフマ・スートラ』は、ウパニシャッド聖典群他を熟知している弟子たちに向けて書かれたものなので、もしも、あらかじめの知識に欠けていることを認識されている方々は、「心臓内の小さな空間に神様が鎮座する」にてフリダヤと呼ばれている真我の御座所についてと、「誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にて、四つの意識状態について、そして、誰しもが熟睡時にはブラーフマンへと帰入することについてをご参照ください。 もうすでにお分かりの方々はここは飛ばして註解書へとお進みください。

          「個人は自己である真我に帰入していく」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.9)

          「サ-ンキヤが説くプラダーナ(根本原質)は真我ではない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.8)

          はじめに今回のシャンカラ註解は分かりにくいかもしれません。 私の翻訳がまずいというのもありますが… シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章八節8節  (プラダーナが間接的にさえ語られていない)なぜなら、その拒絶についての言及がその後にないからであり、そして、(それは冒頭の主張に反するからである)。/プラダーナ(根本原質)については間接的にしろ語られたことがない。それというのも、その存在を結果として否定する記述がないからである。それに最初における主張に反するから

          「サ-ンキヤが説くプラダーナ(根本原質)は真我ではない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.8)

          「解脱とは真我を最後まで保持する者の為だと教えられている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.7)

          はじめにシャンカラ註解書の中では、明らかにアートマン(真我)を自己つまり“the Self”と述べられていますが 今回の題名は、本来は「自己」とするところを「真我」としました。 シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章七節7節 (プラダーナは「自己」という言葉の意味ではない)解脱は自己を保持する者に約束されているからである。/「根本原質プラダーナという言葉は」アートマン(真我)という言葉と同じではない。それというのも、解脱とはアートマン(真我)を最後まで保持する

          「解脱とは真我を最後まで保持する者の為だと教えられている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.7)

          「この世の第一原因を理解する熟考の力」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.6)

          はじめに読む前のネタバレになるのですが… 「プルシャ」と「プラダーナ」との関係をごく簡単に、インドの喩えでよく言われていることとして 「プルシャ」を輝く太陽とすると「プラダーナ」は月だと言い方がされます。 つまり、月である「プラダーナ」は自ら輝くことができません。 このことを『ヨーガ・スートラ』では、「プルシャ」を【観るもの】、「プラダーナ」を【観られるもの】としています。つまり、【観るもの】である「プルシャ」が実在するものであって、【観られるもの】である「プラダー

          「この世の第一原因を理解する熟考の力」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.6)

          「プラダーナ(根本原質)は宇宙の原因ではない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.5)

          はじめにインドの六派哲学について、ごく簡単に触れておきます。 ミーマーンサー学派・ヴェーダーンタ学派・サーンキヤ学派・ヨーガ学派・ニヤーヤ学派・ヴァイシェーシカ学派の六派となります。 今回、出てくるサーンキヤ学派はサーンキヤという言葉の意味が「数え上げる」とのことなので数論とも呼ばれていて、ヨーガにおいての内的心理器官(アハムカーラ)や肉体五蔵説のように物として分類し数える純粋意識と物の二元論なのですがヨーガとの親和性は高いと言えます。 と言うのは、プルシャという神我

          「プラダーナ(根本原質)は宇宙の原因ではない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.5)

          「ウパニシャッド聖典群がブラーフマンを明らかにする」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.4)

          はじめに上の画像は、『アイタレーヤ・ウパニシャッド』になります。 インドにおいては文字化する習慣が古来からなかったのでとても貴重なものですし、行者さん方はすべて暗記していたから凄いです。暗記するようなごく短い文章でもあるので私たちにとっては解説が必須となります。 『ブラフマ・スートラ』は、ウパニシャッド聖典群も含めた聖典のオールスターそろい組でもあるし、それをシャンカラ師が解説していますので心して学んで(聴聞して)いきましょう! チャーンドギヤ・ウニシャッド第六篇第二

          「ウパニシャッド聖典群がブラーフマンを明らかにする」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.4)

          「ブラーフマンの知識の源としての聖典」(1.1.3)/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』

          はじめに『ブラフマ・スートラ』の註解をしているシャンカラ師は、初代シャンカラ(Ādi Śaṅkara)となります。「神の御足の教師」として知られ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者となります。 シャンカラ師は、正統的なバラモン教の歴史の中で初めて僧院を建立した人物と言われ、東西南北に4つの僧院を創設し、4人の高弟をそれぞれに配置しました。 その4つの僧院の法主の座は、現在は「シャンカラ・アーチャーリヤの座」と呼ばれ、ヴェーダーンタを体得した人で

          「ブラーフマンの知識の源としての聖典」(1.1.3)/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』