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「ブラーフマンは真理・智慧・無限なりとヴェーダ聖典の梵書中にも記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.15)


はじめに

今回の節で「ブラーフマナ」というヴェーダ聖典の中でシュルティ(天啓聖典)と呼ばれているもののひとつになります。サンスクリット語よりも古いヴェーダ語でおよそ紀元前900年から紀元前500年の間に成立した文書群であるとして、祭儀書や梵書とも呼ばれています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十五節

15節 そして、マントラで語られるブラーフマンそのものが、ブラーフマナ(マントラを説明する部分)で宣言されている。

至福なるものは、この追加の理由から至高の自己でなければならない。「ブラーフマンを知る者は至高に到達する」(Tai. II. i. 1)という文章で始まった後、「ブラーフマンは真理であり、知識であり、無限である」(同上)というマントラの文章で紹介されたブラフマンが、「真理、知識、無限」といった特性によって区別され、ブラーフマナ(梵書)の部分で語られる。空間から数えて要素(elements)が発するまさにそのブラーフマン、存在たちを創造し、その中に入っていき、すべての人の最奥の自己として彼らの心の中に宿るそのブラーフマン、そのブラーフマンを知るために「もうひとりの内なる自己」、「もうひとりの内なる自己」などと言って話題を追求してきた(Tai. II.ii-v)、まさにそのブラーフマンは、そのマントラの部分で宣言され、まさにそのブラーフマンは、「この内側にいる至福なるものと呼ばれるもう一人の自己がいる」(Tai. II. v. 2)という文章によって、ブラーフマナの部分で語られている。マントラとブラーフマナ(部分)は、決して矛盾しないので、同じ意味を持つのが正しい。そうでなければ、議論中のトピックを放棄し、検討されていないものから始めるという間違いが発生します。食べ物の自己などの場合のように、至福なるものの内側に宿る自己が言及されるわけではない。そして、「Bhrgu(ブリグ聖賢)によって集められ、Varuna(ヴァルナ神)によって授けられた知識」(Tai. III. vi)は、このことだけに関連している。それゆえ、至福なるものは至高の自己でなければならない。

最後に

ごく短くまとめれば、今回の十五節は

「絶対者ブラーフマンは、真理・智慧・無限なりなどとヴェーダ聖典の散文部分である梵書中にもその如くに記されているからである」

ということになります。

ヴェーダーンタの思想は、『ウパニシャッド聖典群』そして『バガヴァッド・ギーター』、今回の『ブラフマ・スートラ』と、時代を追ってその伝統が保守されて語り繋げられているわけですが

ウパニシャッドという意味の、近く(ウパ)に座る(シャッド)からも、真理をあらわしている言葉が、その奥義が述べられていること、つまり、素晴らしい智慧者がいて書き著したのだから真実だとしています。

ただし、真の智慧者は、無智さという欠陥がないのでそのまま言葉通りに受け取られるようですが、大多数の者は、無智さに遮られて理解できない、疑念が生じるなどが生じるので、真実が書かれていることを聴聞した後でしっかりと熟考することが必須となります!

できれば、何度も触れていますが、インド古来より続く師と弟子のヨーガ行者同士間の質疑応答・面談もまた必須だと言えます。これは「ダルシャナ」と呼ばれています。

真のヴェーダーンタ哲学を生きたものにするために、是非、優れた智慧者である師匠をお探しください。

ほとんどの方々がこの『ブラフマ・スートラ』を真剣に読めば読むほどに、問いや質問がごく自然に生まれてくると思います。その問いや質問を安全に投げかけられる師匠との出会いが貴方の解脱に有意義な力となるでしょう!

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