「解脱とは真我を最後まで保持する者の為だと教えられている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.7)
はじめに
シャンカラ註解書の中では、明らかにアートマン(真我)を自己つまり“the Self”と述べられていますが
今回の題名は、本来は「自己」とするところを「真我」としました。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章七節
7節 (プラダーナは「自己」という言葉の意味ではない)解脱は自己を保持する者に約束されているからである。/「根本原質プラダーナという言葉は」アートマン(真我)という言葉と同じではない。それというのも、解脱とはアートマン(真我)を最後まで保持する者のためにあると教えられているからだ。」
無感覚なプラダーナは、「自己」という言葉で暗示されることはない。なぜなら、議論の主題である超感覚的な存在は「それが自己である」(Ch. VI. vii. 8)というテキストで言及されており、その後、「それが汝である」(同)と言って、解脱しなければならない感覚ある存在に対して、それ(*98)に献身する必要性を勧めているからである。さらにその後に、「師を持つ者は知っている。彼にとっては、(現在の肉体から)自由になるために必要なだけの遅延があるだけであり、その時、彼は実在(Reality)と同一化する」(Ch. VI. xiv. 2)
(*98)It: 実在であるブラーフマンを自分自身と同一視して考える。
もし聖典が「汝は存在する」と言うことで、無感覚な(意識のない)プラダーナを実在という言葉の意味だと理解させ、解脱を望む感覚ある(意識がある)存在に「汝は存在しない(意識がない)」という教えを与えるならば、聖典は逆に人に災い(悪)をもたらし、その有効性を失うでしょう。しかし、聖典には欠陥がないのだから、無効だと思い込んではならない。しかし、聖典は権威があり、解脱を望む無智な人間に、無感覚な(意識がない)非自己が自己であると説くならば、盲人が牛(*99)の尻尾にしがみつくように、(聖典を)信じるがゆえに、その人は自己についての見通しを捨てないであろう。
(*99)ox:ある盲人が森の中で道に迷った。邪悪な男が彼に親切に声をかけ、信頼を得て雌牛を連れてきて、その尻尾を掴んで森から出るよう盲人に頼んだ。盲人は誠意をもってその忠告に従って、その尻尾にしがみついた。その結果、彼は荒れた地面や茨の上を引きずられ、切り傷を負い続けた。
その結果、その人は、その非自己とは異なる自己を知ることができなくなる。そして、その場合、その人は解脱から遠ざかり、問題に巻き込まれるでしょう。それゆえ、聖典が天国を望む者にアグニホートラの犠牲祭のような真の手段を助言しているように、解脱を求める者に「それは自己である」(Ch. VI. vii. 8)、「それは汝である、シュヴェータケートゥよ」(同上)といった文章で、真の自己について教えていると考えるのが妥当である。この見解に基づけば、真理を探求する(固執する)者への解脱の教えは、熱した斧(*100)を握ることで解放されるという喩えで正当化されることになる。
(*100)axe:チャーンドーギャ・ウパニシャッドはこのような例を挙げている。(Ⅵ.xiv)窃盗の容疑をかけられた人が容疑を否認すると、その人を試すために赤熱した斧が持ち込まれた。もし彼が真実であれば、真実は彼を守り、彼は斧を握っても害を受けなかった。そのために彼は釈放された。しかし、もし彼が嘘をついた場合、嘘は彼を守らなかった。斧は彼を焼き、彼は罰せられた。重要なのは、真実は人を救うということだ。だから、真理であるブラーフマンにしがみつく者も解放されるのだ。
逆に、もし間接的に真の自己である何かについて教えが伝えられるならば、それはSampadと呼ばれる瞑想の形式に過ぎず、その教えには「人はこのように瞑想すべきである。“私は生命力である”」(Ai.A. H. i. 2.6)とありますが、その結果は永続しないでしょう。しかし、その意味でそれを解放についての教えとして語ることは矛盾することになります。したがって、「自己」という言葉は、不可解な実在に関して二次的な意味で使われるのではありません。「Bhadrasenaは私の自己である」という文の中で、使用人の場合に二次的な意味で「自己」という言葉を使うことは、主人と使用人の違いが明らかであるため、正当化されます。
(*101)Sampad:劣ったものが、同一性ではなく類似性によって、他の優れたものと考えられる場合。(脚注 *65 を参照)
さらに、何かがどこかで比喩的な意味で言及されているという事実から、それに関する知識を得る唯一の源が言葉によるコミュニケーションである場合、他の何かに比喩的な意味を与えることは非論理的である。なぜなら、それはあらゆるところで信頼を失うことになるからである。また、同じ「ジョーティス(火)」という言葉を犠牲と火の両方に使うことになぞらえれば(類推するならば)、「自己」という言葉は感覚(意識)のあるものと感覚(意識)のないものの両方にも使えるというのは誤りである。なぜなら、同じ単語(同じ文脈)に対して異なる意味があると想定するのは間違っているからです。
したがって、(実際の立場は)本来の意味で意識のある実在を意味する「自己」という言葉は、「要素そのもの」、「器官そのもの」といった文章では、これらに感覚(意識)がある(を帰属させる)ことを示す比喩的な意味で使われているのである。たとえ「自己」という言葉がさまざまなものに共通するものであったとしても、文脈や単語の接頭辞のような何らかの決定要因がない限り、「自己」は2つ(感覚または無感覚)のうちのどちらかを意味するものとして発音されることはできない。しかし、そのような要因によって、無感覚(プラダーナ)の方が有利であると断定できるわけではない。
実際のところ、ここで考慮している主体は視覚化する存在である。その上、意識のある存在であるシュヴェータケートゥがすぐ近くにいる。そして、私たちは、感覚(意識)のないものが感覚(意識)のあるシュヴェータケートゥの自己であることはあり得ないと述べた。したがって、ここで言う「自己」という言葉は感覚(意識)のあるものを指すという結論に達する。「ジョーティス」という言葉も、一般的な用法では、照らす(火)を意味するが、照らすという類似性から、ある賛美的な空想(Arthavada)によって、犠牲に適用されるようになった。したがって、この説明(illustration)には何の説得力もない。
あるいは、この格言は別の解釈もできる。前の格言では、ヴェーダ的でないプラダーナは、二次的あるいは一般的な意味での「自己」という言葉が意味する可能性を超えていると説明されていたということである。そして、現在の格言では、「... それを固守する者には解脱が約束されている」ため、プラダーナが宇宙の原因であると反駁するための独立した理由が提示されている。このように、無感覚な(意識のない)プラダーナは「実在(Sat)」という言葉の意味ではない。
プラダーナが「実在」を意味しない理由は他に何があるでしょうか?
最後に
上記の引用は、父であるウッダーラカ・アールニが息子のシュヴェータケートゥにバラモンとしての修行の生活にはいれと述べたところから、父から子への教えが始まります。
脚注(*100)斧の喩えの全文になります。
言わんとしていることは、アートマン(真我)を最後まで保持する、つまり、アートマンそのものと一体化しているのが解脱した境地なのだということになります。
ですので、観るもの(主体)としてのアートマンが物であり観られるもの(客体)としてのプラダーナ(根本原質)と結ぶつくということではないということになります。
内なる神様と言えるアートマンだけと結びつく、そしてそれを保持していくということですので、プラダーナ(根本原質)とは完全に異なるものであり識別していくのが、不二一元論だとするヴェーダーンタ哲学という原因は神様つまりブラーフマンなんだということです。
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