見出し画像

「神が多くのものに生まれようとウパニシャッドに記されてもプラダーナを原因だと頼れない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.18)


はじめに


シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十八節

18節 願望(についての言及)があるからといって、(プラダーナに到達するという)推論に頼ることはできません。

その上、至福なるものの文脈では、「神は“たくさんにさせてください、私を生まれさせてください”と願った」(Tai. II. vi. 1)という願望がテキストの中で言及されている。それゆえ、推論によってサーンキヤ学派が空想した感覚のないプラダーナは、至福なるもの、あるいは宇宙の原因のいずれを表すものとして頼りにされるべきものにはならない。プラダーナは、「思考に帰するものという故に、ウパニシャッドで教えられていないものは宇宙の原因ではない」(I. i. 5)という格言の下で反論されたが、それでもなお、テキストがどのように同じ種類の知識を与えることに一致しているかを詳しく説明するために、以前の格言(I. i. 16)で参照されたテキストで言及された希望的観測(wishfulness/非現実的な憧れ)(Tai. II. vi. 3)に関連して、副次的な問題として再度反論されている。

最後に

ごく短く今回の十八節をまとめると

「願望として多くのものに生まれ変わろうと絶対者ブラーフマンが願ったとウパニシャッドに記されていることによっても、この世の根源を生命なき根本原質であるプラダーナに頼らなければならないと考える必要もない」

となります。

世界的にも唯物思想とはなりますけれど、インドも例外に及ばず、サーンキヤ哲学の考えは唯物思想となります。

プラダーナ(根本原質)と同じような意味合いになるプラクリティ(根本自性)という大元の物質がいくつか重なっていく内にこの世界という物質世界がすべてできているという思想となります。

しかし、それらはすべて、観照者つまり観るものの対象にすぎず、観照者とは絶対者ブラーフマン(神様)であり、アートマン(真我)であるという、真逆の思想がヴェーダーンタの思想となります。

そして、移りゆくその対象には頼ることはできないと結論づけています!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?