「個人は自己である真我に帰入していく」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.9)
はじめに
『ブラフマ・スートラ』は、ウパニシャッド聖典群他を熟知している弟子たちに向けて書かれたものなので、もしも、あらかじめの知識に欠けていることを認識されている方々は、「心臓内の小さな空間に神様が鎮座する」にてフリダヤと呼ばれている真我の御座所についてと、「誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にて、四つの意識状態について、そして、誰しもが熟睡時にはブラーフマンへと帰入することについてをご参照ください。
もうすでにお分かりの方々はここは飛ばして註解書へとお進みください。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章九節
9節 なぜなら、個人が自分自身の自己に溶け込むからです。/それに個人は自身のアートマン(真我)に帰入していくからです。
「実在」と呼ばれる原因そのものについては、ヴェーダのテキストから次のように語られている。「愛児よ、このように眠っている状態にあるとき、人はsvaspiti(眠っている)という形容語句を得る。その時、彼は実在と一体化し、svam(自己の中に)apita(融合)したとなる。それゆえ、彼らは彼をsvaspiti(眠っている)と呼ぶのである。なぜなら、彼は自分自身の自己において統一されるからである」(Ch. VI. viii. 1)このテキストは、世間でよく知られているように、個人のsvaspitiという名前の派生的な意味を与えている。
ここでは、「自己」とはsvaいう言葉で意味されている。その意味は、彼が自分自身に到達したことに気づくこと、つまり、ここで「実在」という名のもとに考慮されているものに吸収されるという意味である。語源の i (「行く」という意味) は、接頭辞 api が前に付くと、一般的には融合を意味します。起源と消滅が prabhava-apyayau というフレーズで言及されているからです。個々の魂は、心の多様な現れによって構成される条件付け要因に接触した結果、「把握する感覚知覚の対象の特徴」の影響下にある限り、目覚め続ける。
覚醒状態での体験の印象の影響を受けて夢を見ている間は、心という名前を持つ(assumes/当然のことだと思い込む)。そして、睡眠状態において、これら2つの条件付けの要因が不活発になると、制限的な付属物によって生み出された特殊化がないために、自己の中に融合しているように見える。したがって、それはそれ自身の自己(*104)に溶け込んだと言われている。
(*104)Self:したがって、融合とは、付属物を制限することからの自由と、何か他のものにならないことを意味します。
これは、ウパニシャッドの「その自己は確かに“心の中に”存在する(hrdi)」に示されるhrdiayam(心臓)という言葉の派生と似ている。これが語源的な意味である。それゆえ、それはフリダヤと呼ばれる」(Ch. VIII. iii. 3)。あるいは、これは、次の文における asanaya と udanya という語の使用の根底にある意味を示すことに似ている。「確かに、asita (食べた食物) を nayante (消化) するのはapah (水) である」(したがって、水は asanaya と呼ばれる) (Ch. VI. viii. 3)、「確かに、nayate (飲んだもの、すなわち udaka) を nayate (乾かす)のは火である」(したがって、火は udanya と呼ばれる) (同上)同様に、派生語の助けを借りて、テキストは svapiti という語の意味、すなわち、個人が実在(*105)と呼ばれる自身の自己に融合することを示す。
(*105)Existence:ここでの派生は単なる言葉の比喩ではなく、ウパニシャッドの派生が他の箇所でそうであるように、事実を指し示しています。
さらに、感覚のある魂は、無感覚のプラダーナをその実在として獲得することはできない。プラダーナ自体が魂に属するものであるため、sva(それ自身の自己)という言葉で呼ばれているのだと主張したとしても、それでもなお、感覚のあるものが無感覚のものに溶け込むと言うのは矛盾した言い換えになる。また、他のウパニシャッドには、睡眠状態における個人の意識ある実在に溶け込むことを明らかにする文章がある。「意識のある自己に完全に包含されているため、外部なものも内部なものも何も知らない」(Br. IV. iii. 21) したがって、すべての感覚のある生物が溶け込むのは、「実在」と呼ばれる意識のある存在であり、宇宙の原因である。しかし、プラダーナはそうではない。
どうしてまた、プラダーナは宇宙の原因ではないのでしょうか?
最後に
睡眠状態の熟眠時に、心臓内の小さな空間、つまり、絶対者ブラーフマンに帰入していくのだが
心が知覚する外的要因に条件付けられてそれに自動反応している限り目覚め続けているのだが、しかし、覚醒状態でも夢眠状態でもそれらの要因に対しての自動反応が無くなると、自己つまり真我に帰入してくと述べられている。
ここはさりげなく、生前解脱についての重要なポイントが述べられていると思います。
心が知覚する外的要因が実在していると思うからこそ、つまり、信じ込んでいるからこそ、「把握する感覚知覚の対象の特徴」の影響下(という牢獄)へと自らを閉じこめていると言えないだろうか?
熟睡状態のときのように、「把握する感覚知覚の対象の特徴」の影響外にて、それらの要因に対しての自動反応も無く、自己つまり真我に帰入したまま、目覚め続けることは、ココで述べられたことが真実ならば、可能だと言える!
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