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「至福なるもの(アーナンダマヤ)とは多様性を表す意味のmayatが含まれるのでブラーフマンではないとする反論」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.13)


はじめに

インド各地を旅行し、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達したとするシャンカラ師だと伝え聞いておりますが

『ブラフマ・スートラ』の中でよく見られるような言葉遊び、たとえば、サンスクリット語の単語を分解して、接尾語の意味がこうだからこうだとするとか文法的になんたらというのは、当時の哲学議論で中心的な話題になっていたのかも知れません。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十三節

13節 もし、(至福なるものは)変化(modification)を表す言葉(接尾語)が使われているためにブラーフマンではないと主張されるなら、この言葉は多様性(abundance)の意味で使われているので、私たちは違うと言う。

ここで反論相手は言う:至福なるものが至高の自己であるはずがない。

なぜですか?

なぜなら、(接尾語としての)mayatという言葉は、変化を表すからである。「至福なるもの」(ananda(至福)とmayat(至福から成る)の組み合わせから成るAnandamaya)という言葉は、元の単語(至福)そのものとは区別され、変化を表すものと理解される。したがって、アーナンダマヤ(至福から成る)という言葉は、アンナマヤ(食べ物から成る)などの言葉と同様に、変化の意味を伝えているのである。

ヴェーダンティン:いいえ、スムルティ(パルニーニの文法書V. iv. 21)には、(接尾語の)mayatには多様性の意味もあると書かれています。したがって、「(接頭語に含まれる)基本的な考え方の多様性を伝えようとする場合には、mayatが使われる」という格言の中で、mayatが多様性を示すために使われることが示されている。Annamayo yajno bhavati-犠牲には多様な食べ物がなければならない」という実例(illustration)にあるように、annamayaは豊富な食べ物を意味する。そして、ブラーフマンの至福の多様性は(Taittirtyaウパニシャッドで至福の段階的評価の過程で)人間の次元から始まり、その後、それぞれの次元における至福が示されるという事実から導き出されます。次の次元は前の次元の 100 倍であり、ブラーフマンの至福は超えることができません。(II. viii)したがってmayatは多様性の意味を持っています。

最後に

訳の中で “abundance” を「豊かさ」や「豊富」ではなく、先生の解釈を採用し「多様性」と致しました。

ここは、不二一元論を提唱するヴェーダーンタ哲学に対して反論する意味合いとして、「アーナンダマヤと呼ばれる歓喜なるもの(至福なるもの)がmayatという言葉の~からなるという意味の言葉が語尾につけられている故に、多様性を表現しているのだから、アーナンダマヤという言葉は、唯一無二ではなく、多様なる意味を持つのだから、ブラーフマンではない」という反論となっています。

つまり、ブラーフマンが確固不動なるものではなく、変化するものになってしまう、変化するものならば作られたわけなのでまた無くなってしまうことにもなり、永久不変のもの絶対的なものではないので、ブラーフマンにならないじゃないかという反論になっています。

その反論として、ここで、ブラーフマンの至福の多様性を説明していますが、それは至福のレベルとしての多様性で、ブラーフマン自体が変化するということではないので誤解なく。(こういう反論するから次々と突っ込まれるのだけど、わざと突っ込ませて解説しようとしているのでしょう)

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