見出し画像

『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』 「序文」最新Version


『本論』 序文 <私>と現実性へと向かって


 『序論』での探究を前提とした以後の記述においては、この<私>の無内包性を、同様に無内包の現実性とともにさらに探究していくことにしたい。なお、ここで無内包性とは、その無内包性自体については、否定性=ゼロを含む内包量が対応するいかなる実在性も記述できないという事態を言う。『序論』においては、①ここで<私>によって想定されている内包量の非存在の経験は、内包量の「程度=ゼロ」(実数的連続性つまり連続的な移行プロセスを前提とした理念的な極限値としての「否定性=ゼロ」)ではなく、そもそも把握の仕組みと不可分な内包量という次元自体が存在しないという意味において想定された経験である。②そもそもなぜこのような無内包の場の記述が成立し得るのかという今ここでの私の問いは、<今-ここ>での<私>への問いに移行-変容する。<今-ここ>での<私>という<次元/場>こそが、無内包の<次元/場>それ自体だからだ、と言われていた。
 つまり、この探究作業は、本来的に無内包のこの<私>が、その無内包の<私>自身の無内包性を、同様に無内包の(任意の世界の世界内性に無関係に現に偏在的に働く)現実性 [注1] との関係において探究し記述するという不可能な作業になるほかない。
 『序論』で探究された、この<私>の<今-ここ>において、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態は、<まさにこの私>が上記の不可能な作業を<今-ここ>で遂行せざるを得ないその不可避性を示している。
 
 この作業が不可能な作業となるということは、この<私>の記述とともに描かれていくこの<私>の<今-ここ>が、まさにこれしかない唯一のものであるということ、しかしその唯一性の意味を、この<私>に対してすら何らかの実在的な事態の意味として伝達することが不可能であるということである。それにもかかわらず、この唯一の<私>の<今-ここ>のあり方を、実在的な世界におけるこの私や他者たちにも伝えることができるのではないか、という何らかの予期または想定が不可避的に生じる。この不可能性と不可避性それ自体を、この<私>が書くことのただなかにおいて探究し得た哲学的作業は、極めて稀有な例外を除いて、これまでの歴史においては存在していない。『序論』『本論』を通じて目指されていることもまた、この<私>が書くことのただなかにおける無内包の<私>と現実性の探究作業となる。
[注2]

 『序論』での探究を継承する『本論』は、現代物理数学の先端的パラダイムに独立対峙可能な無内包の現実性の哲学−形而上学構築へと向けた端緒の作業になる。

[注1] この「現に」という副詞的に働く現実性の力について、入不二基義 『現実性の問題』 筑摩書房 2020年 参照 『序論』および『本論』の記述は、入不二基義氏により探究されてきた無内包の現実性あるいは現実性という力の読解でもある。なお、この無内包性についての先の記述「実数的連続性つまり連続的な移行プロセスを前提とした理念的な極限値としての「否定性=ゼロ」ではなく」は、類比的に見れば、集合論における(順序数の上昇系列上の連続的操作の)極限としては把握/記述不可能な「(弱)到達不可能基数」の最小限の超越性に対応する。しかし、無内包の現実性あるいは現実性という力の超越性は、こうした極限操作から絶対的に断絶している。なお、『序論』[注6]でも述べたが、連続性と不連続性/離散性(あるいは有限性と無限性)の関係性を巡るゼノンのパラドックスへの対処は、数学的には極限概念の導入しかないと考えられるが、それは「→∞」で表記される極限値への(方程式の左辺から右辺への移項と同様な)方向と運動という無内包の<働き Aktus>を再びパラドクシカルに前提する。ゼノンのパラドックスは、哲学的-形而上学的探究の端緒の地点を永遠に印づけている。つまり矛盾は解消不可能であり、極限操作と不可分であると同時にそれを内側から食い破る力/運動とも不可分である。その力/運動は、極限操作から絶対的に隔絶した現実性の力である。参考 淵野 昌「計算、証明、有限、無限」『現代思想』2023 vol.51-8「特集 <計算>の世界」青土社 所収
[注2] 永井 均氏の一連の著作はその極めて稀有な(ほとんど唯一の)例外である。これに関して、永井 均『<私>の哲学をアップデートする』春秋社 2023年 における「内属性問題」を焦点化した記述を参照(同書 208頁から209頁)。さらに、永井 均氏の以下のツイートも参照。
「その「言えてなさ」自体は本質の話であって実存の話ではないからその「言えてなさ」を伝達することは可能、というのは仰るとおりですね。独在性の問題が哲学の問題になるのはここからで、その前は誰でも知っている平凡な事実の確認にすぎません。」(2023年5月25日、¿ろりじょ?@R_O_R_I_J_O氏の 2023年5月24日のツイート「しかし、その「言えてなさ」を伝達することは可能だ、というのが永井均の一つの洞察だろう。「言えてなさ」自体は本質の話であって実存の話ではないから。そして、永井均が言ったことと、その「言えてなさ」を組み合わせることでようやく、永井均の言おうとしたことが伝達されうる。」に対する永井氏の返信ツイート)
 本質と実存が現に分離可能であるにもかかわらず、相互反転可能な/完全対称的な分離可能性のもとでしか思考/記述できないという厄介さに少なくともプラトン(またはパルメニデス/ピタゴラス)以来のギリシア起源の哲学は巻き込まれている。つまり本質と実存は相互反転可能性を持つ分離可能性においてしか思考/記述できない。インド起源の哲学とりわけ縁起説はその本質と実存の不可分な分離可能性という厄介さがないかの様に隠蔽した様に見える。本質と実存が一体不可分な神(自己原因/不動の動者/最実在的全体存在者等)や善のイデアなどもこれの変種(しかし端緒的な)で、つまり端緒の地点から変種的バージョン込みの「本質と実存」というセットだったと言える。ここでの本質を言語と言い換えてよいだろうか?  私は『序論』および『本論』において「言語」ではなく「言語性」という言葉を使っているが、この場合の「言語性」は、言語の実存/現実性つまりこの私の言葉が現にあることに対する自己言及的な循環運動になる。この記述に「序文」の以下の記述が深く関わる。「この<私>の<今-ここ>において、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態は、<まさにこの私>が上記の不可能な作業を<今-ここ>で遂行せざるを得ないその不可避性を示している。」
----------------------------------------------------------------------------------
以上転載終了

よろしければサポートお願いいたします。頂いたサポートは必ず活かします。🌹🌈🎁